2.狐と猫
4月23日(日)
日曜日の学校はなんだか神秘的だった。大抵の部活は土曜日が活動日で日曜日はオフにしているからだろうか、いつもは笑声と喧騒に包まれている校舎が今日はとても静かだった。春の陽気に当てられながら、僕はのんびりと階段を上っていった。
「おはようございます。」
静かに国語科準備室の戸を開け、誰にともなく挨拶をする。先輩がいるものだと思い込んでいたが、冷静に考えれば居ないのも当然の時間だ。こんな時間に来てしまったのは、きっと先輩の珈琲を楽しみにしすぎていたからだろう。そんなことを考えながら、僕はたった二日で出来た「定位置」に座った。先輩が来るまで、読書でもして待とうか…などと考えていたのだが、無理矢理引っ張ってきた体は、朝日の猛攻についぞ耐え切れず、僕の意識は微睡んでいった。
ゴリゴリゴリ…ゴリゴリゴリ……
心地の良い音で目が覚める。
「おや?おはよう、時雨君。早起きはいいが早寝もしないとな。」
そういって、先輩は微笑む。
「あぁ、すみません。有栖先輩…今は、何時でしょうか?」
「11時20分。かくいう私も寝坊してね。学校に着いたのは10時半くらいさ。安心するといい。」
「やば…あぁ…えっと、おはようございます…?」
「うん、おはよう。顔でも洗ってきなよ。もうすぐ珈琲豆も挽き終わるさ。」
「え、あ、はい。あ、ありがとうございます。」
やっとたどりついた水道で、火照った顔を冷ます。あんなに汚い校舎でさえ神秘的に見えたのだから、先輩がどれだけ美しく見えるのか、覚悟の一つくらいしておけばよかった。どれだけ水をかけても、顔の火照りは止みそうにない、僕はあきらめて部室に戻ることにした。
「すみません、迷惑かけてしまって。」
「いや、大丈夫さ。時雨君の寝顔が見られてよかった。」
「え?あ!撮りました!?」
「さすがに、そこまで悪趣味じゃないさ。でも、弱みの一つや二つ握っとかないと、先輩特権を使えなく なるだろう?」
「今のままでも、充分悪趣味ですけどね。」
「そんなに褒めなくてもいい。さ、マグカップを用意してくれ。そろそろお湯が沸く。」
先輩は、そんなことを話しながら片手間で珈琲を淹れる準備をしている。流れるように洗練されたその仕草は、先輩の珈琲への愛を示すかのようで、少しの間、僕は見惚れていた。そして少しだけ、ほんの少しだけ、嫉妬していた。
「はぁ、わかりました。ところで、先輩はいつも、ブラックでお飲みに?」
「ここで飲むときはね。好みは牛乳あり、砂糖なしといったところなのだけどね。ほら、牛乳は保存が難しいからね。」
「なるほど。でも、少し意外です。」
「そうかい?ブラックが似合う女かな?」
「あ、いえ、そっちじゃなくて、先輩ならミニ冷蔵庫くらい持って来そうだなと…」
「そういうことか、勿論持ってこようとしたんだけどね。電気代を計算したら馬鹿にならない数字が出て、流石に先生方にバレると思って。それに、先生方にはあまり迷惑をかけたくないし。」
「先輩、先生とか気にする人なんですね。」
「え?まぁね。多少は気にするさ。っと、お湯がいい温度だ。マグカップをこちらに。」
「あぁ、はい、お願いします。」
「任せてくれ!」
そう言って先輩は、珈琲へ集中する。その姿を見て、朝にやり忘れていたことを一つ思い出す。
「先輩、窓、開けても良いですか?」
「良いよ。」
先輩の許可のまま、僕は窓を開け、深呼吸をする。吹き込む春風は、雨上がりの香りとお日様の香りを運んできて、ちょうど淹れ始めた珈琲の香りと混じり合う。先輩の方に向き直ると、制服と三つ編みが風に待っていた。瞬きなんてものを忘れてしまうほど、この刹那は美しかった。小説家もいいが、画家もいいかもしれない。そんなことをぼんやり考えた。
暫く心地の良い沈黙が流れ、先輩が動き出す。
「ほら、出来たよ。温かいうちに飲むといい、もう春とはいえ、まだホットが美味しい気温だ。」
「はい。ありがとうございます。頂きます。」
「あ、そうだ。君はブラックは大丈夫なのか?」
「多分、大丈夫です。エスプレッソなんかは、よくファミレスで飲みます。」
「あ~、なら大丈夫か。まぁ、無理だったら遠慮せず言ってくれ。」
「はい。」
少し不安だが、先輩の淹れてくれた珈琲という魔力には抗えず、手が勝手に動き出す。
あまり美味しくない。豆が、来る。舌に珈琲豆の風味が殴りかかってくる。
「先輩、あの、ちょっと。」
「ハハハ、駄目だったかい?まぁ、ドリップだからね。ほら、これを入れれば多少はマシになるはずさ。」
そういって、先輩は僕に珈琲ミルクを渡してきた。
「珈琲ミルク、常備してるんですか?」
「いや、たまたま持っていただけさ。」
「そうですか。ていうか、先輩は入れないんですか?牛乳ありの方が好きなんですよね?」
「フッフッフ、これには深い訳があってね。」
「ほうほう。」
「珈琲ミルクというのは、ミルクとは名乗っているが、正体は水と油をまぜたものなのだよ。だから、また牛乳とは違った風味でね。私はあまり好きじゃない。とはいえ、ブラックよりかマイルドになると思うから、良ければ使ってくれ。」
「へぇ~、なるほど。ありがたく使わせてもらいます。」
「うん。在庫はあと2つあるから足りないようなら言ってくれ。」
「はい!」
少し間をおいて、お互い一口ずつ啜る。あまりにも同じタイミングで、二人して笑ってしまった。
「ふぅ…さて、落ち着いてからでいいんだが、今日は君に俳句か短歌を詠んでもらおうと思う。」
「ふぅ、これまた突然ですね」
「ほら、いろんな表現技法を学ぶのは大切だろう?ま、本音を言えば、私が好きだから、君にも薦めたいってだけなんだけどね。」
「なるほど…」
「時雨君も小中学校の課題なんかで一度くらいは、詠んだことはあるだろう?」
「えぇ、何か賞を取った記憶があります。」
「お、入賞したことがあるのか!じゃあ、期待しておこう、そうだなぁ、よし。とりあえず一句詠んでみてくれ!私は君の句が読みたい。」
「はぁ、わかりました。頑張ります。」
こう先輩に言われると、どうにも弱い。少し気合を入れて、あっと言わせてやろう。
そう思い立って五分、いまいち良いものが浮かばない、題材に迷っているのだ。こういうものは悩んでいても仕方がない、ひらめきがあるまで待つのが賢明だろう。
「随分と悩んでいるね。」
「あぁ、すみません。待たせてしまって。」
「いいよ。思い悩んでいる人を見るのは嫌いじゃないんだ。」
「そうなんですか?なんというか特殊ですね。」
「変と言ってもいいんだよ?まぁ、なんというか悩んでいる人が頭の中でどういう風に思考を巡らせているのか、というのを想像するのが楽しくてね。」
「はぁ…」
「あまり共感は得られなかったようだね。」アハハ
「いや、何となくはわかるんです。僕もテストで前の人の背中を見るの、それなりに好きなので…でも、いざ見られる側になってみると戸惑っちゃうなって。」
「なるほど、なんだか申し訳ないね…考え事の邪魔もしてしまっているし、私はそろそろ口を噤もう。」
「え、はい。ありがとうございます…?」
といっても何も思いつかないのだ。喋っている方が楽なのだが…せっかくの気遣いを無駄にするわけにもいかない。何かないものか…
本音を言ってしまえばよい題材は一つある。今日のあの、神秘的な風景。しかし、あれは今表現するべきではない気がする。もう少し成長して、まともな文が書けるようになってからでないと、勿体ない。今の陸奥時雨の言葉によって固定すべき情景でない…
そんな変なプライドが先輩を待たせているのだからさっさと捨てられればいいのに…そんなことを思っていると一つ、良い景色が思い浮かんだ。先輩の来る前、静寂に染まったあの部室。あれならまだ、勿体ないとは感じないだろう。題材が決まってしまえばこちらのものだ。頭の引き出しを開け放ち、自分なりの表現にパッキングするだけだ。
「有栖先輩、出来ました。」
「おや、じゃあ早速聞かせてもらおうか。あぁ、いや、何かに書いてもらおう。詩歌なんかは字の方が伝わりやすいものだろう。私の空きノートをあげるから使うといい。」
「え、いいんですか?ありがとうございます。」
「いいとも、君にも詩歌にハマって欲しいからね。」
「なるほど、そういう策略が…でも、ありがたく使わせてもらいます。」
なぜか筆箱に入れていた筆ペンを執り、僕は俳句を綴る。
「どうぞ。」
「ありがとう。声に出してもいいか?」
「え、あぁ、まぁ、いいですよ。」
「重ねて礼を言う。ありがとう。」 「葉桜は 戦ぎて我の 子守唄。」
「えっと、どうでしょうか。」
「とても良いと思うよ。ほぼ初めてでこれとは、将来が恐ろしいね。」
「ありがとうございます。何か駄目なところとかは…」
「私は俳人でも先生でもないから、あまり為になることは言えないんだが…そうだなぁ、この句は場所について明記してないだろう?」
「はい…」
「だから、全体的に少しぼんやりとした風に感じてしまうんだ。頭の中にいろんな場面での情景が思い浮かんでしまうからね。」
「確かに、改めて見ると、そう感じます。」
「共感してくれてよかった。君はどんな場面を思い描いて、この句を詠んだんだい?」
「えっと教室の、机で居眠りしている感じですかね。」
「それなら、文机に 戦ぐ桜は 子守唄 なんてすると、教室と断定できなくても、なんとなく勉強机で居眠りしちゃったんだなぁって感じが分かりやすくなると思うんだ。」
「あぁ、なるほど!確かにそうです!僕の言いたいことが、より伝わる形になりました!」
「フッフッフ、そうであろう。そうであろう。とはいっても、君の句のぼんやりとした感じは大きな魅力の一つだから、結局好みによるところはあるんだけどね。」
「そうなんですか?」
「あぁ、ほら、複数人でこの句を見て、草原を思い浮かべた~とか教室を思い浮かべた~なんて自分たちの解釈を言いあうような楽しみ方ができるだろう?楽しみ方の広い句は良い句だよ。」
「なるほど…なかなか難しいですね。いろんな好みがあるって…」
「ま、自分の好みに従うのが一番さ、小説だってそうだろう?好きな文体、好きなジャンル、結局自分の好きな物に向かって突っ走らなきゃ、どこかで雁字搦めになってしまう。」
「小説で例えられると納得しやすいです、そういうことですか。」
「そう、そういうこと!」
「そういうことですね!」
「そゆことだ!」ハハハハハ
可笑しくなって、また二人で笑う。闊達に笑う先輩に、もっと近づきたいと思う一方で、永遠にこの時間が続いてほしいとも思ってしまう。矛盾した自分もなんだか可笑しくなってきて、また、笑ってしまった。
その後は、少し話が脱線していき、だんだん談笑に近い内容へと変わっていった。
「さて、楽しい談笑をもう少し続けたかったが、もう五時だ。そろそろ解散しようか。」
「はい、鍵は…?」
「君が持っておいてくれ、職員室はまだ慣れないだろう?」
「はい!ありがとうございます。」
「しかしまぁ、君には結局一句しか詠んでもらってなかったね。」
「ひとしきり笑ってからは、先輩が色んな俳人の話をしてくれましたからね。」
「この性分はもう少し抑えないとな。せっかく詠んでもらえるチャンスだったのに。」
「いつでも詠みますよ?」
「いや、君には俳人ではなく、小説家になってもらいたいからね。ま、また気が向いたら詠んでもらうから、覚悟しておいてね。」
「なんか怖いですね、まぁ、覚悟しておきます…!」
「じゃあ、お先に失礼するよ。また、気が向いた日に。」
「はい、また気が向いた日に!」
そんなことを言うが、どうせ会うのは月曜日だろう。別れたこの瞬間から、月曜への期待は高まっていくばかりだ。
4月24日(月)
月曜日、悪魔の曜日。一週間が始まり、小テストが挟まる月曜は、かなり憂鬱なものだった。とはいえ、つい先週と比べれば、かなり上機嫌だ。理由は単純、有栖先輩と会える。素晴らしいことだ。自分の単細胞さに少し呆れつつ一段飛ばしで階段を上る。
「こんにちは~。」
「やぁ、こんにちは。少し遅かったじゃないか。先生に呼び出されでもしたのかい?」
「違いますよ!図書室に寄っていただけです!」
「そうか、それなら安心だ。」ハッハッハ
「人が悪い…」
「おっと、すまないね、ところで、何を借りたんだい?」
「えぇと、文学史の本です。日曜日、先輩から色々聞かせてもらって、気になったので。」
「そうか!それは良い!先輩冥利に尽きるよ。」
「こちらこそ、ありがとうございます。」
「どういたしまして、さて、君も来たことだし、珈琲でも入れようかな。」
「あ、僕の分もお願いできますか?」
「勿論!」
「ありがとうございます。今日は何をすれば?」
「今日は、何もしない。無理に毎日やってもお互い楽しくないからね。雑談に花を咲かせよう。」
「そうですか…」
「おっと、書きたかったら書いてもらっても構わないが…」
「いえ、先輩ともっと仲良くなりたいと思っていたのでちょうどよかったです。」
「嬉しいことを言ってくれるね。じゃあ、早速何か話題がないものか。うむ…」
話題、何かあったっけと、視線を落とす。すると、勿忘草色に猫の可愛らしいシルエットの跳ねるマグカップが目に入った。
「あ、そうだ、先輩って猫派なんですか?」
「そうだよ、そのマグカップも可愛いだろう?お気に入りなんだよ。そういう君は、それは、なんのシルエットなんだ?狼?」
そういわれて自分のマグカップに目を落とす。オレンジにデフォルメされた狐が寝転がっている。
「狐です。可愛いでしょう?本物もすごくかわいいんですよ!」
「狐か!可愛いなぁ、狐派に転身することも考えてみるか…」
「猫もいいですよね。僕も犬か猫かだったら猫派です。」
「なんだか、不思議だな、お互いの派閥を褒め合うなんて。」
「動物って基本可愛いから褒め合ってもいいじゃないですか。」
「確かに、それもそうだな!あ、そういえばマグカップで思い出したんだが、時雨君、君はブラックが飲めなかっただろう?あいにく今日は珈琲ミルクも持ってないんだ。飲むかい?」
「安心してください!砂糖を持って来たんです!昨日、家で飲んでみたら砂糖だけでも美味しく飲めたので、お願いします。」
「了解、任せてくれ!さてと…」
先輩が珈琲を挽き始める。自然と、心地の良い沈黙が訪れた。きっと先輩もこの珈琲を挽く時間が好きなのだろう。お互いに言葉を噤み、しかし通じ合っているような感覚が、僕は大好きだ。言葉にしてみると少し気持ち悪いだろうか…
「ふぅ、何だかお互い無言になってしまったね。まぁ、君も好きなんだろう?珈琲を淹れる動作が。」
「はい、言葉で表せないんですけど、良いですよね。珈琲を淹れる、この動作と時間。」
「そういえば直接聞いたことはなかったね。珈琲、君は好きかい?」
いつの間に降っていたのだろう、雨音が聞こえた。
「えぇ、とっても。」
「それは良かった。さて、雨脚が弱まるまで、もう少しだけ話そうか。」
「はい!」
にわか雨だったのだろう、雑談に花を咲かせていると、すっかり雨は止んでしまっていた。
「おや、いつの間にやら止んでいたね。私はそろそろお暇するが、時雨君は?」
「僕はもう少し、ここにいます。」
「そう、完全下校時刻は守り給えよ。怒られるのは私だからな。」
「はい、厳守します!」
「そこまで気合を入れなくてもいいんだがな。」フフフ
「さようなら、有栖先輩。また、気の向いた時に。」
「あぁ、さよなら時雨君。また、気の向いた時に!」
もう少しだけ、そう引き留めることは、まだできなかった。
先輩が居なくなって寂しげな沈黙に包まれた部室で僕は一人ぼーっとする。雨上がりの暖気に包まれて、僕は少しずつ意識を手放した。
「はっ!?」
嫌な焦燥感に包まれながら時計を確認する。6時30分まだ完全下校にはだいぶ余裕がある。というか、まだ寝てから20分ほどしか経っていない。過ぎ越し苦労に溜息を吐きつつ僕は帰り支度を始めた。気の向いた日、明日だろうか、疑問形にはしてあるが、それはほとんど確信だった。