1.雨と烏
4月20日(木)
校舎を歩く、入学して早三週間が経とうとしている。体験入部期間も間近に僕はまだ、部活を決められないでいた。月曜日はあこがれだった演劇部に、火曜日は興味のあった化学部に、水曜日は昔好きだった将棋部に、しかし憧憬は失望に、興味は排他に潰されて、好みは成長と共に変わっていく。なんだかんだと気になる部活は一通り回ったが、どれも三年間を過ごすと考えると気が重かった。明日の朝、ホームルームで入部届を提出するはずだがどうしたものか…考える僕の前には、掲示板がある。
何とはなしに掲示板を眺めていると、とある部活の勧誘ポスターが映った。明朝体の部名に手書きであろうあまり美麗ではない字で短歌が読んであった。
ひらひらと 波の舞う空 日は照らす
去り行く影と 迫る新風
管理棟4階国語科準備室で待つ。新入生、募集中
僕はこの歌を気に入ったのだと思う。「惚れた」と表しても差異はないだろう。
その文言に、僕は導かれていった。
春休み中一切の運動をしなかった僕にとって4階までの階段は少しきつかった。運動部に入るべきかとも考えたが、体育がきついと評判のこの高校でさらに苦を背負うことはないだろう。遠くの喧騒を聞きながら、コツコツと小気味の良い音を立て、人気のなく静寂に包まれた廊下を進んでいると、「国語科準備室」その看板が見えた。少し緊張する。あの短歌読んだ人がここにいると考えると、なんだかテレビで見るアイドルファンの気持ちがわかるような気がした。
コンコンコン、意を決し軽快な音を立て様子伺った僕にしっとりとした声が返ってきた。
「はい、少しお待ちを、新入生の方ならば入ってきて良いよ。」
その言葉に従い、僕はあまり音をたてぬように扉を開ける。
「失礼します。」
そこには、ふんわりとした三つ編みを一つたらし、窓を背に座る物憂げな女性がいた。
「汚いところで申し訳ないね。どうぞこちらへ。」
導かれるまま向かいの席へ座る。
「自己紹介や部活紹介の前に、一つ聞きたいことがある。なぜ、こんな辺境の部活へ?」
「一階の掲示板があるじゃないですか。そこの勧誘ポスターに載っていた短歌に惹かれまして。」
「そうか、ありがたいことだ…って、それだけかい…?」
「えぇ、まぁ、はい。あれって先輩が詠まれたものですか?」
「あぁ…申し訳ないが、あれはこの部活に代々伝わる勧誘文句で、私が詠んだものではないんだ。」
「そうでしたか。」
「しかしまぁ、あのポスター、と呼んでいいのか甚だ疑問のアレに惚れてくるとは…まぁ、いいか。それじゃあ、約束通り…」
そういうと彼女は突然立ち上がり、僕の目の前で無い胸を張った。
「私の名前は、二年F組の烏羽有栖。有栖先輩と呼んでくれ、どちらかというと和歌や俳句が好きだ。君の名前は?」
「えぇっと、僕は1年C組の陸奥時雨といいます。小説をよく読みます。最近は恋愛モノやミステリをかじっています。有栖先輩、よろしくお願いします。」
「それじゃあ、よろしくね、時雨君。いい名前だ。小説をよく読むというけれど、書いたりはするかい?」
「え、いや、いいえ。もっぱら読むだけで、書くこと自体には興味はあるんですけどね…」
「興味があるのか?それはいい!もし、書きたい気持ちがあるのなら、明日…明日だな、ここに来てくれないか?」
急すぎる話の展開とお誘いに混乱する僕へ、彼女は続けた。
「お願いだ!一人というのは存外寂しいんだ。」
「まぁ、いいですけど…」
「本当か!ありがたい。仮入部届は明日の朝だったろう?一旦でもいい、うちに入ってくれ!」
「えぇ、全然大丈夫ですが。」
「よかった。よし、それでは私は帰る。時雨君また明日、ここで会おう。」
最初はゆっくりとした人だと思ったのだが、嵐のような人だった。少なくとも僕の知る限りでは、一番嵐に近い人だろう。改めて考えると何やら流されてしまった気がしたが、どうせ部活も決まっていない。避難場所にはちょうどいいのかもしれない。そんな能天気な僕をよそに、彼女は重そうにリュックを背負い、小気味の良い音を立てながら、去っていった……と思ったのだが、なぜか戻ってきた。
「あ、そういえば言い忘れていたことがあったんだ。
ようこそ、文学部へ」
たっぷりと貯めて、発されたその言葉、その微笑みに僕は一目ぼれした。どうにも今日は一目ぼれの多い日だ。嵐が完全に過ぎ去り、静寂を取り戻した国語科準備室に立ち尽くす能天気な僕に、一つの疑問が出てきた。
「鍵とか、どうするんだろう。」
どうにかした。慣れない職員室に入り、右も左もわからず、先生に訪ねられ、事情を説明し、どうにかなった。明日、本当に大丈夫なのだろうか。先ほどまでの能天気な考えとは違い唐突な不安感が僕を襲った。
4月21日(金)
まったく、授業は大変だ。まだ始まったばかりだというのに、進行の速さがとんでもない。ついていくので精いっぱいだ。とはいえ、今日、授業に集中できなかった理由は明白だ。不安というのは厄介で一度膨らんでしまうと縮めることはできず、膨張を抑えることしかできないのだ。約束を反故にしてしまう手もあったが、流石に良心が痛む。あの時の「一人は存外寂しい」という乙女らしい言葉がずっと心を締め付けている。しょうがない、自分の心には従ったほうが後々楽になる。そうやって、なんとか自分を説得し、やはりきつい4階分の階段をゆっくりと登り始めた。
「ぜぇ、はぁ、ふぅぅぅ。はぁ…」
途中で、思ったよりも時間が掛かっていたことに気づき、足を速めたのは良いものの、犠牲に払ったものは多かった。体育があって足がすでにボロボロなのに、追い打ちをかけてしまうなんて…この時雨、一生の不覚だ…そんなこんなで昨日と同じ、静寂の廊下を渡り、目的地へ着いた。ここが、僕にとってどういう場所になるか、どうか心地よい場所であることを祈りながら、扉をたたく。コンコンコン。
「丁寧だね、入ってきていいんだよ。時雨君。」
「失礼します。」
軽くお辞儀をしながら入ると、なぜか珈琲ミルをゴリゴリと挽いている先輩がいた。
「君はもう、うちの部員だろう?そんな恐縮な態度、とらないでくれると嬉しいんだが。」
「あぁ、はい…えぇっと、それは、何を?」
「初めて見るかな?珈琲ミルさ、珈琲豆を挽いて淹れるためのものだよ。」
「いえ、それはわかりますが、なぜ、ここでそれを?というか校則的に大丈夫なんですかそれ…」
「認識されていないものは発生してないのと同じなのだよ。時雨君。」
「アウトなんですね。」
「そうともいうね。まぁ、ここに先生が来ることはないから、大丈夫さ。」
「そんな言いきれるものなんですかね。」
「ここは国語科準備室、二階にも同じのを見ただろう?」
「あ、確かに…見ましたけれど…」
「こっちは旧準備室でね、特別教室棟を増築したときに二階の方へ、主要な荷物は引越したのさ。四階にある教室は大体そんな感じでね。ただ、惰性で残してあるだけの半物置階層なんだ。だから、ここに近づくのは余程の変人か、感傷癖の若人だけだよ。」
「なるほど…?」
誰も来ないと言い切れないのなら危ないのでは?という気持ちは、心にしまっておいた。
「おっと、話が意外な方向へ行ってしまった。まず君には部活の概要を説明しなければならなかったね。」
そういいながら、いつの間にやら淹れていた、湯気の立つマグカップを持ち先輩は椅子に腰かけた。
「立ち話もあれだろう。座るといい、遠慮なんてするなといっただろう?バンと入ってきてドンと座るくらいの気概で良いのに。あ、実際にはやらないでね。」
「わかってますよ。というか、そもそもそんなこと僕にはできませんよ。」
「ハハ、確かにそうだね、まぁ、君は君のままでいいさ。」
「なんですか…急に…」
「フフ、いや、申し訳ないね。さて、話を戻そうか。この部活は、文学部。英語で言うとliterature club?まぁいいや、名前の通り文学的活動を主とする部活さ、本を読んだり、書いたり、詩歌を詠んだり、文化祭では毎年文集を出したり、何かしらのイベントをやったりしている。まぁ、見てわかる通り随分と人の少ない部活だからね。どうぞこれからも仲良く頼むよ。」
「改めて、よろしくお願いします。一つ質問なんですが、去年とか先輩の他には誰かいたんですか?」
「去年は三年の先輩が一人いたね。その人によると文学部は歴代で一人も在籍していなかった期間は存在しないらしいよ。」
「細々と続いているんですね。」
「まぁね。いつの時代も文学の人を引き込む力は存在するんだよ。」
「恐ろしいものですね。」
「まったくだよ…あ、そうだ。活動日、活動時間だが、基本は自由だ。私は、特に用事がない日は大体ここでゆったりしている。雨の日は必ずここに来る。そんな感じだ。とは言っても、毎日来てるんだけどね。ま、君も自由に来るといい。でも、1週間に一度は顔を出してくれよ。」
「はい、多分毎日通うと思います。僕は、そんなに友達が多くないので…」
「悲しいことを言うね。私としては、嬉しいんだが。」
「有栖先輩も友達いないんですか。」
「失礼だな、ちゃんといるさ、広く浅くだけどね。」
「それなのに、毎日来てるんですか?」
「広く浅く、遊びに行くほどみんな暇じゃないし、遊びに行けるくらい暇なときはもっと親しい別の人を誘ってるのさ。」
「悲しいですね。」
「君よりはマシだと思いたいよ。」
「あぁ、友達のいる部活に転部しようかな…」
「悪かった。悪かった。お願いだから、ここにいてくれ。」
この人と話していると、どうにも口元が綻んでしまう。あまりに必死だからだろうか。
「あ、そうだ。本来の目的を忘れていた!」
「へ?部活の詳細説明だけじゃなかったんですか?」
「昨日、言ってたじゃないか。“書くことに興味がある”って」
「あぁ、そういうことですか。」
「そゆこと!さて、いきなり書いてもらってもいいんだが…」
「え、無理ですよ!大体何を題材にすればいいのかもわかってないのに。」
「何事もやってみることが重要なんだよ。時雨君。とはいえ、いきなりはかわいそうか…ここはひとつ古典的手法を使おう。」
「古典的手法?」
「三題噺さ!」
「三題噺?」
「知らないか?」
「聞いたことはあるような気はしますけど、意味は知らないですね。」
「三つのお題を与えられて、決められた時間内でそのお題に沿って話を書いたり、詩歌を詠んだりする遊びのことだ。」
「それを今からすると…」
「そういうこと。筆箱を出したまえ、原稿用紙は、君の後ろの棚にある。」
「あ、はい。拒否権とかない感じなんですね。まぁ、いいんですけど…」
湯気の立っていた珈琲は、一滴も減らぬまま冷めてしまっていた。随分と話してしまったと感じながら、筆箱を取り出し、棚から原稿用紙を引っ張り出す。埃まみれだ。
「うげ!」ゲホッカホッケホッ
「あぁ、すまない。短歌を詠むときは、自分のノートを使っているものだから、随分と埃をかぶっていたんだろう。」
「はぁ、大丈夫です。よし…お題は何でしょうか。」
「そうだねぇ…雨、山、時計、でどう?」
「なんか難易度高くないですか?」
「洗濯機、階段、幽霊、でもいいよ。」
「雨、山、時計でやらせていただきます。」
「よし、時間は一時間。よーいはじめ!」
ピピピッ
受験の時より久しく味わっていなかった絶望感が頭を埋め尽くす。
「時間は過ぎたよ。原稿用紙をもらおうか。」
「渡さないと駄目ですか…」
「君は目に見えて落ち込むね、駄目だ。君の駄作を私は読みたい。」
「わかりました。」
返事を言い終わるか否かという狭間に、先輩はするりと僕の手から原稿用紙を奪った。
「三枚か、早速読ませてもらうよ。」
静寂。先輩はあんな作品を真剣に読んでいる。一方僕は、自分への失望と気恥ずかしさに机上を眺めることしかできなかった。書いてる間に飲んでしまったのか、珈琲の入っていたマグカップを見る。勿忘草色に猫のシルエットがかわいらしく跳ねている。こんな状態の僕にとってそれは、とてつもない癒しだった。
「よし、読ませてもらったよ。」
「どうでしたか…?」
「良い点と悪い点、どちらが先に聞きたい?」
「じゃあ、良い方でお願いします。」
僕の心は限界を迎え始めていたのだ。
「了解した。まず、個人的に一番素晴らしいと思った点なんだが、物語が完結している。これは、誇るべきことだ。私にだって出来そうもない。処女作で、私でも難しいと思うお題で、たった一時間で、本当にすばらしい。他には、情景描写が綺麗だな。頭の中でその景色を容易に想像でき、感動することができる。あとは、言い回しが良いな。私の感性に刺さる。」
僕は困惑した。ここまで褒められるとは思ってなかったのだ。5秒くらいで終わると思っていたが、こんなに目を輝かせてほめてくれている。幸せだ。しかし、まだ批評は終わっていない。
「あ、ありがとうございます。こんなにほめてもらえるとは思っていませんでした。」
「もっと自信をもっていいのに。まぁ、それでこそ君か。
さて、悪い点だが、それなりにある。まず、完結させるのはいいが展開が雑だな。起承転結のバランスが悪い。自分の思いついた世界を伝えたいのはわかるが、説明が長すぎる。起に文字を使いすぎだ。詳細な設定は小出しにしていくといい。次に、情景描写にこだわりすぎだ。良い点ではあるが、流石にくどい。大抵の文学は、物語を綴るものであって、ひたすら情景を説明するものではないんだよ。三つ目は、情景を描きすぎて読者の想像をする余地がない。椅子の座り方くらい想像させてくれ。最後は…私の頭が残念なだけかもしれないが…もう少し大衆向けの言葉を使ってくれると助かる。3つ、4つくらいなら気になったら調べられるし、無視してもあまり影響はないのだが、少し多すぎるように感じる。舛花色とか金春色とか何色なんだ?風花ってなんだ?文脈的に天気っぽいのはなんとなくわかるが…」
すべての言葉がノミのように心を削いでいく。何となく自分でもわかっていたが、人から言われるとこんなにも鋭利になるのか…そういえば質問されていたのだ。なんとか口からひねりだす。
「えぇと、舛花と金春は青系の色です。風花は晴れ雪です。」
「なるほどね、ありがとう。まぁ、総評としては、そうだなぁ、私は君に小説家になってほしい。」
またキラキラと輝く目が戻ってきた。僕は困惑し、安心する。
「あんなに、言っていたのにですか?」
「可愛い子には旅をさせよってこと。」
得意げに胸を張る先輩を見ていると何故だか笑ってしまう。
「ククク…フフ、ハハハハハハ!」
「笑うところなんてあったか?」
「ハハ、フフフ、ハァ、いや、書き終わった直後、本当に苦しかったんですよ。簡単に書いてみたい といったけれど、全然うまく書けなくて、でも有栖先輩に批評されて、なんか、心が軽くなりました。」
「君が楽になったのなら良かった。安心すると良い、処女作なんてたいていの人はひどいものだよ。私の先輩のもそれはひどいものだった。君よりもひどかった。」
「有栖先輩のはどうだったんですか?」
「え?それはまぁ、それなりに良いものだったさ。私だもの。勿論。」
「見せてください。」
「え?嫌だけど?」
「僕には強がり言ってるようにしか思えませんが…いいんですか?後輩からの信用を落としても。」
「時雨君、なかなか私の扱いがうまくなってきたね。しょうがない。笑わないでくれよ。」
そういいながら、先輩は、リュックから使い古された一冊のノートを引っ張り出した。
“句集 vol.1” なんというか、先輩らしいタイトルだ。
「一ページ目一番上のが例のだ。ほら、さっさと見て。」
指示通り見てみると、そこに載っていたのは…
「桜咲く 春にツクシの ニョキニョキと…」
「声に出さないでくれよ…あぁもう…」
「有栖先輩」
「なに?」
「僕は好きですよ。」
「時雨君はフォローの仕方をもう少し学習するべきだ!」
「フフ、すみません。」
「笑わないでくれといったのに!もう!やることは大体終わったし、帰る!」
「あ、待ってください。鍵は置いて行って下さい。もう嫌なんです。職員室で説明するの!」
「はぁ…しょうがない。そういう時はその人ごと呼び止めたほうが、好感度が高くなる。覚えておくといい。はい、鍵。次の部活まで持っておいて。」
「ありがとうございます。覚えておきます。けど、鍵、持っておいていいんですか?」
「大丈夫さ、明日明後日君がいなくても、職員室で鍵は借りれる。」
「あれ?そういえば、何で鍵が二つあるんですか?」
悪い予感がする
「私が作った、いちいち借りるのが面倒くさくてね。」
「それって、校則…というか法律的に大丈夫なんですか?」
「認識されていないものは発生してないのと同じなのだよ。先にも言ったろう?」
「はぁ、きっとアウトなんでしょうね…あ、土日って部活はどうなんですか?」
「自由だよ。私は毎週日曜だけ来ている。」
「じゃあ、僕も日曜日また来ます。あと、一つお願いなんですが、今度マグカップ持ってくるので、珈琲、分けていただけませんか?」
「勿論。一人で飲むのもいいが、二人だともっといい。約束しよう。」
「すみません。ありがとうございます。」
「どういたしまして、じゃあ、また日曜日だ。さよなら、時雨君。」
この部室に再び静寂が戻る。今度の静寂は先と違って心地よい。少しだけ部室内を見て回った僕は、満足して国語科準備室を立ち去った。