1.プロローグ
初投稿です。クトゥルフ要素をちりばめつつ、怖くないお話をかけたらいいなと思います。
※クトゥルフ要素はモチーフとしてお借りする程度で、各神話生物が必ずしも他の創作と同一の見た目や見解になるとは限りません。
「もう一度言う。彼らは“ティンダロス”。こちらから1歩か、あるいは永遠に離れた時空に住まい、我々とこの世界を追跡し、侵略する者共の総称だ。」
黄昏に染まる住宅街、突如路上に現れた悪臭の吹き出すひび割れ。その歪にうごめく空間の前に立ち、身の丈程の黄金の縫い針を振るいながら彼女は言った。
「お前にも見えたのだろう。奴らの「かたち」が。残念だな{{おめでとう}}。もう君は戻れない。彼らは己の領域に踏み込んだ者を逃しはしない。」
—あとは死を待つか、”裁縫師”になるか—
「選ぶがいい。」
黒田大和、17歳の男子高校生。偏差値は55くらい。可もなく不可もなく、とりわけ目立つこともなく、品行方正過ぎることもなく。もしこれが物語の中であれば、おそらく僕は顔の描写すら省かれて誰かを引き立てる為だけの存在だったろう。
そう、彼女—“裁縫師”と出会うまでは。
あの日の帰宅時、いつもの通学路で突如地面から噴き出した煙と、周囲に漂う世界中の不浄をかき混ぜて煮凝りにしたかのような悪臭。
ヌチヌチとした音とともに路面にひびを走らせ現れた虚無。その歪は徐々に広がり―、いや、こじ開けられて、いる?虚無の向こう側からぶるん、ばたん、ぶるん、と暴れるヘドロの色をした長い手が幾重にも噴き出し、歪の縁から清浄な空間を毟り取っては虚無を広げる。
きっと見てはいけないものだった。知覚してはいけないものだった。
その蠢く虚無の内側から浮かびあがってきたおぼろのようでいて、確かに悪意、殺意、興味、侮蔑の意思を孕んだ燃え上がるような瞳…と、目が、あってしまった。
その瞬間、歓喜の声を上げる“何か”と先ほどまで空間をむさぼっていた手が、手が、いくつもの手が一斉に僕を掴もうと躍りかかってくる。
すっかり腰を抜かし、這うように逃げる僕の足首にその手が掛かるというとき、突如上空から、まるで剣のような金色の針が現れ、黒い手たちに突き刺さる。その針に地面に縫い留められた黒い手たちは、びたびたとのたうちまわり、悪臭を放つ青い液体をまき散らしていた。
「諦めの悪い不浄ども。今日こそその概念ごと向こうへ送り返してやる。」
鈴を転がすような声であるのに、憎しみを込められて吐き出されたその言葉に顔を上げると、そこにはこの風景にとっては異色な、紫色のローブを身に纏った絵本の中の魔女のような美しい女が立っていた。
「坊、見たな。見てしまったな。ほら、あれを見ろ。己を知覚してしまったお前を手に入れようと、お前で飢えを癒そうと躍起になっている。」
「あれは、いったいあれは何ですか!!知らない!僕は何も!あんなもの!知らない!!!」
女は叫ぶ僕を一瞥すると、右手を振るいその手にまた背丈ほどの金色の針を出現させると、歪へと駆け出し、薙ぎ払うようにして虚無の中の目を突き刺した。
途端、絹を裂いたような雄叫びを上げるそれ。ノイズが走ったかのようにざらざらとその目はゆがみ、地面に縫い留められていた黒い腕たちは膨れ上がったり捻じくれたりしながらビチビチと無理矢理その肉を引き裂きながら急速に虚無の向こうへ還っていく。
「あれは異界から来た猟犬。あるいは兵士。そして私は“裁縫師”さ。世界と時間のほつれを縫い留め、世界の清浄を維持する者。」
地の果てに沈んでいく太陽が照らした彼女の柘榴のような唇が、気味が悪い程に美しかった。