第11話 去りし日々に
腐った風に、木の葉が揺れる。
鳥の声ひとつ聞こえねえ。
「……」
感覚を研ぎ澄ますと、何かに視られていると感じた。それも感情のねえ目だ。復讐への怒りも、畏怖への悲哀も、獲物への貪欲も、飢餓への焦りも、何もねえ。
たとえば教会に置かれた女神像の目。あれは石であり、神そのものじゃねえ。そういう無機的なもんが、俺たちに視線を向けている。
魔獣……じゃねえな。
近しいものがあるとすれば、魔導で操られた石塊人形だが、それにしちゃ生臭え。腐臭だけにとどまらず、視線そのものがだ。
エリアナが声を落としてつぶやく。
「歩く死体……?」
「こんなところでか? どんなやつがくたばってようが、魔獣に掘り出されて尻からひり出されるもんに変えられてんだろ」
死体がリビングデッドになる前にな。
「魔獣のリビングデッドとか?」
「んなもんいりゃあ、今頃世界はひっくり返ってんぜ」
少なくとも前世じゃ見たことねえな。
自然発生しちまうリビングデッドってのは、生前の意思に関係する。強い未練がなきゃ死体は歩いたりしねえ。自然、生物的にある程度の知能がなきゃ、んなもんは発生しねえ。だからリビングデッドの大半が人間なんだ。
むろん、それは土葬だった時代の話だ。前世の時点ですでに火葬。だからリビングデッドってのは滅多に遭遇する魔物じゃねえのさ。古戦場でもなけりゃあな。
「わかんないけど……」
「残念ながら、すぐにわかる」
生木の軋む音がした。続いて巨大な何かを地面で引きずるような音だ。微かだが、粘性のニチャニチャした音もだ。
近づいてきてやがる。メリメリ、バキバキと、木々をへし折って。
藪をすり潰し、いや、木々ですらもへし折ってすり潰すほどの体躯。薄闇の中、深い森の向こう側で次々と木々が倒れていく。
エリアナが口元を手で覆って言った。
「……やば……」
「ああ」
もう声を潜める必要もねえ。完っ璧に見っかってる。
粘液に覆われたどす黒い巨体を引きずって、数十本もの木々をへし折りながら、怪物が俺たちに迫ってきている。
「ちょっと! でかくないっ!?」
「でけえなァ」
でかい。ああ、そうだ。思い出す。
前世で斬った竜を。例えるならそれほどの大きさだ。空を飛んだ形跡がねえから、可能性から追っ払っちまっていたが、こりゃあ。
「う……わ……」
緊張と恐怖にだろう。エリアナが喉を鳴らした。
「やるしかなさそうだ」
「え? ええ!? ほ、本気? 迂回したら薬草林まで逃げ切れないかな!? んで、ちゃちゃっと採取だけして逃げた方がよくない? あたしなら通り抜けざまに採取できるし!」
「魔導銃士隊はそう判断して逃げた。結果は推して知るべし、だな」
人間は木々をへし折って森を直進することはできねえ。地面が悪ければ足も取られる。一方でやつの巨体は森での直進が可能だ。たとえへし折れねえ大木があったとしても、肉体を覆う粘液で隙間を抜けてくるだろう。
まるで丘だ。小さな丘。
ようやっと頭部が見えた。うっそうと茂る木々の高さほどもある。ツラはトカゲを厳つくしたような強面で、長え首は蕩けて粘つく鱗に覆われている。翼はあるが、すでに破れ、その骨格だけが残っちまっていた。
だが、間違いねえ。俺の知る竜の姿だ。ちょいと違うのは、肉が腐っちまっている。吐き気を催す腐臭だ。
「なるほどなァ。竜なら知能は高え。そらリビングデッドにもなるってもんだ」
「言ってる場合っ!? 最悪じゃん!」
書物でしか見たことのねえ魔獣……いや、もはやこりゃあ怪物だ。魔獣なんて実際に存在するカテゴリーに収まるもんじゃねえ。
爪と腐肉と粘液の滴る前脚。そいつで木々をへし折って、怪物は濁った瞳で俺たちを凝視する。さっき感じた視線だ。
――ドラゴンゾンビ。
穴の開いた腹からは、喰らったヒトの足が生えている。おそらく魔導銃士隊の隊員だ。よく見りゃ鋭い牙の隙間には、潰されて変形した魔導銃が挟まってやがる。
「う……嘘でしょ~……」
ぼとり、ぼとり、自らの腐肉から粘液を滴らせている。
粘液のかかった植物が、白煙を上げながら溶けた。一方で石や地面は溶けてねえ。
ってことは、ソウルバイターでぶった斬っても刀身がすぐにイカれるってこたぁねえだろう。あとの整備を考えりゃ、ちょっとばかり気が重てえが。
俺はソウルバイターを背中から引き抜いた。
「だから多発地帯の外で待ってろっつったのに」
「何さ、アーサーこそ、慣れてるふりなんてしちゃってさ! 強がりが過ぎるとかっこわるいんだからねっ」
ふりじゃねえんだなァ。竜を斬るのは通算二度目だ。ま、こっちは竜ってほど上等なもんでもねえが。
以前の竜は焦ったね。空は飛ぶわ、火は噴くわ、しゃべるわ、巨体の分際で動きは速ええし、鱗は頑丈、何より知性が厄介だった。
それに比べりゃ――。
「びびって腰抜かすなよ、エリアナ!」
「うひぃ……、これ、帰ってから臭い取れるかなぁ~……」
「クク、見当違いの心配ができるなら問題ねえ」
すでに夕暮れ時、もうすぐ薄闇ですらなくなる。その前になんとかしなきゃ、俺たちも魔導銃士隊の二の舞だ。
「くるぞ」
「心の準備が――っ」
予想を覆し、鼓膜をつんざくような竜の咆吼はなかった。もう呼吸をしてねえからだろうか。
ドラゴンゾンビは俺たちの前にあった大木を腐った前脚の爪で斬り飛ばすと、いきなり巨大な口を開けて大地ごと削るかのように、俺たちへと迫った。
響く地響き。迫る喉奥から魔導銃士隊らしき肉の塊が見える。
俺はとっさにエリアナの襟首をつかんで後方へと逃れ、彼女をさらに背後へと放り出すように転がした。
「下がってろ」
「ひゃんっ」
ドラゴンゾンビの噛みつきが、俺たちの立っていた場所を大地ごと削り取る。突っ立ったままだったら、今頃俺たちはもう腐った胃の腑の中だ。
なのにエリアナは。
「こらぁ! 女子の扱い!」
「言ってる場合か」
続いてなぎ払われた前脚の爪を、盾に変形させたソウルバイターで受ける。
「ぐ――っ」
とんでもない衝撃に俺の全身は恐ろしい勢いで、真横に吹っ飛ばされた。
右側で爪を受けた盾を左側に持ってきて、叩きつけられそうだった大樹の幹をぶん殴って軌道を強引に変え、地面を転がる。
危ねえ。だが、反応はできている。前世の経験が役立った。
「アーサー!」
「心配すんな、どうってこたねえよ!」
「この――!」
エリアナが魔導銃を放つ。
中級クラスの魔法、炎弾がいくつも放たれ、ドラゴンゾンビに直撃する。だが粘液で覆われているせいか、着弾しても炎はすぐに消えてしまった。
「わあ、効かないよコレ!」
「あったりめえだ! んなもんが効くなら、とっくに魔導銃士隊に退治されてんだろ!」
「あそっか」
緊張感死んでんのか、こいつ。
「つか余計なことすんじゃねえ、アホ!」
案の定だ。ドラゴンゾンビは俺からエリアナへと視線を変えた。
「アーサーのピンチかと思ったんだよぉ! 助けて早く! ほらきたぁ!」
「だあ、もう!」
俺は走りながらソウルバイターを剣へと戻し、ドラゴンゾンビの背中へと向けて跳躍した。だが、上段から刃を振り下ろす直前、ドラゴンゾンビは太い尾を俺へとなぎ払った。
「イッ!? ……ンのォ!」
とっさに剣の軌道を変えて、振られた尾へと叩きつける。
「おぉぉらァァァ!」
このまま斬り飛ばす――ッ!
つもりだったのだが、どす黒い尾を覆った粘液でソウルバイターの刃が滑って逸れた。
「~~ッ!?」
次の瞬間、俺は樹木のような太さの尾に薙ぎ払われて、濡れた落ち葉を巻き上げながら地面を転がっていた。
痛――ってえ!
膝を立てた瞬間、ドラゴンゾンビが振り返り、俺へと爪を振るう。
とっさに地面を這うような体勢でやり過ごし、今度は切っ先で脚部を貫くべく、走りながら渾身の力を込めてソウルバイターを突き出す。
「うおらァ!」
だが、またしても。
ドラゴンゾンビの鱗へと垂直に突き出したソウルバイターの切っ先は、鱗を覆う腐った粘液によってわずかに軌道をずらされ、その表層を滑って逸らされた。
「……ッ」
直後、爪の一撃を受けて俺は再び吹っ飛ばされる。反射的にソウルバイターの刃で防いだおかげで致命傷はないが、手の甲や顔へと飛散した粘液が皮膚を焦がす。
俺は両足で地面を掻いて止まり、服の袖で拭って顔をしかめた。
「くッそがッ! ぬるぬる滑って斬れやしねえ!」
その俺の背後へと、エリアナが魔導銃で魔法を放ちながら駆け込んでくる。
もちろん、粘液をいくらか飛ばすだけで、着弾してもダメージは与えられていねえ。粘液を飛ばしたところも、すぐに新たな粘液で覆われちまう。
「ってことは~? どうすんの、アーサー?」
かつて生ドラゴンを斬った俺なら余裕だと思ったんだが、こいつは考えていた以上にヌルヌルしてた。無理だ。
「逃げんぞ、エリアナ!」
「やっぱりぃ! さっきまでの自信はなんだったのっ!?」
そろった瞬間、俺たちはドラゴンゾンビに背中を向けて、並んで脱兎の如く逃げ出した。
「うわー、うわー、どーしよー!」
「まいったぜ。まさか文字通り歯が立たんとは」
「寒っ! こんなときにやめてよね、オヤジギャグ!」
「素でジジイなんだよッ」
静止していれば、それでも斬る自信はある。だが、それこそ望むべくもねえことだ。あいつは死にながらに生きてるリビングデッドなんだからな。動かねえ死体はただの死体だ。
しかし、まいった。しょせんは腐りかけの死骸と侮っていたが、こうなっちまうと、もうどうにも手がねえ。
「なんとかしてよ、アーサー!」
「黙ってろ! いま考えてる!」
「成績下の下なのに?」
「ぐ……」
倒木を飛び越え、藪を突き破り、必死の形相で走る。走る。走る。
メリメリ、バキバキ!
剣呑な音を立てて木々をへし折りながら、やつは四つん這いとなって全身をうねらせながら俺たちを追ってくる。途端に速度を増した。
体力が尽きるのが先か、追いつかれるのが先か。
「ヤダヤダヤダ、追いつかれるぅぅ!」
「しゃあねえ。俺が時間を稼いでやる。おめえだけ先に逃げろ。んでもし逃げ切れたら、薬草林はあきらめてすぐにこのことを親父殿に知らせに行け。こんなやつが棲み着いてたんじゃあ、今後も王都の薬事情はどうにもならん」
先ほどの手応えから察するに、倒せはしなくとも時間稼ぎくらいなら問題なくできそうだ。避けて、防ぎ続ければいい。
だがその後に逃げるにしても、今後の王都のことを考えりゃ、できれば動きだけは封じておきてえ。こいつが薬草林まで腐らせちまったら、王都の被害はもはや想像もつかねえ規模に拡大される。
それに、万に一つ。
万に一つだ。王都の側に移動しちまったら、木製の王都門など軽く破られるだろう。
「アーサーはどうすんの!?」
「やっぱ借りは返しとかねえとな」
「借り? あたしへの借金?」
「ちげーわ」
親父殿の疲れ切った顔が頭に浮かんだ。過労死寸前だ。
想像ん中でくらい笑ってくれや、親父殿。
「俺ァやつをこのまま限界まで引きつけて、崖下にでも落としてみる。それで動きが止められりゃ御の字だ」
「崖? この辺の地理に詳しいの?」
「知らん。走ってりゃそのうち一つくれえは見つかんだろ」
「無謀すぎないっ!? これだから成績下の下の落ちこぼれは!」
「……何度も言うなよ……」
問答してる時間はねえ。
「カウント3で別れる。おめえは王都方面へ突っ走れ」
不幸中の幸いだ。ドラゴンゾンビが出現したおかげで、多発地帯の魔獣は本能的に危機を察知したのか、ここに至るまで一体たりとも遭遇することはなかった。
王都までの護衛は必要ねえだろう。
エリアナが瞳を潤ませながら首を左右に振った。
「そんな、愛するアーサーだけを置いてくなんてできないよ! でも葬儀はあたしがちゃんとやってあげるね、盛大に! あ、だめだ! アーサーもう公的には死んでるし、今頃王都で国葬の真っ最中だった! ごめん、やっぱおとなしく土に還って!」
「言葉の前半と後半で言ってることグチャグチャだし、くたばることを前提に予定を組むのはやめろ。ようやく得た自由だ。俺は意地でも死なん」
「そういう強い意志を持ってる人ほどリビングデッドになるから気をつけてね? アーサーゾンビになっちゃだめよ? 大木裏でゾンビ飯とかしてたら、また笑っちゃうからっ」
こ、こ、小娘ぇ……!
いや、落ち着け俺。いつものことだ。
しかしすげえな。すげえよ。どうなってんだ、こいつの頭ン中は。
だが、確かに崖探しは無謀か。せめてあの粘液がなきゃ、ぶった斬ってやれるんだが。ま、考えてても仕方ねえ。
「元気でな、エリアナ」
「ちょっと、さっきのって本気だったのっ!?」
「おまえ、俺の悲壮な決意を……。まあいい。カウント行くぜ。さ~ん、に~い――」
思いつく対策と言えば、例えばここにボードレールでもいりゃあ、大炎で巨体ごと包み込んで、粘液をすべて蒸発させてくれそうなもんだ。
「い~ち」
「待って、アーサー!」
それはほんの一瞬でいい。一瞬でも刃が通る瞬間を作ってもらえりゃ、俺ならやつの頸を落とせる。
まあ、望むべくもねえ。いるわけねえからな。
「ぜ~――ろっ!?」
瞬間。
闇を切り裂き、雷鳴轟く――!
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次話は23時頃投稿予定です。