絵は黙して語らぬもの 其の五
「分かって当然の判じ物だったかね」
山名豊香はこの程度の事は解いて当然といった顔をしていた。
「……訊きたい事があります。豊香さんはこのアナグラムに気づいていましたよね? それなのに、どうして俺に解いて欲しいなどと言ってきたんです?」
ミステリーに慣れ親しんだ者であれば解けて当然の謎かけだった。
おそらくは、山名豊香にはこのアナグラムだけではなく、その先のまだ口にしていないであろう謎も解けている事だろう。
真実に到達しているのにもかかわらず、俺にその謎を解いてくれなどと話を持ちかけてきた意図が分からなかった。
「君をデートに誘う口実にしただけだ」
山名豊香は真意が掴みづらい曖昧な笑みを口角に刻み、目で微笑みかけてきた。
「それは嘘ですよね?」
「君の事が好きだったんだ。デートして幸せになりたかったんだ」
「なんですか、『むしゃくしゃしてやった』みたいな言い訳は」
「ふふっ、私は君と付き合いたいだけの純情可憐な乙女なだけだよ」
「豊香さんは純情にはほど遠いですよ。キスしそうな距離まで恥ずかしがる事無く顔を近づける乙女がどこにいますか」
「ここにいるではないか。今回が正真正銘の初デートの乙女だというのに」
「それは身体が乙女という意味ですよね? 心は乙女とはとてもじゃないが思えないですよ」
「君は心に乙女などがあるというのかい? 身体が乙女である事の証明は可能であろうが、心が乙女の証明はそれこそ難しいのではないか?」
「それは……」
俺がそう言いかけたところで、電車が駅に滑り込むように停止した。
「この駅で降りる」
山名豊香は真顔になるなり、そう言って立ち上がって開いたドアからホームに降りた。
置いていかれるのは嫌だったので、急いで立ち上がり、早足で豊香の背中を追ってホームへと出た。
「ちょっと待って……」
俺の声が聞こえていないかのように山名豊香はすたすたと先を進み、改札を抜けて、外へと出ると、俺の事などすっかり忘れているかのように歩んでいく。
跡を追うようにして辿り着いたのは、駅前にある県立の小さな美術館だった。
トリックアート展の垂れ幕があって、よくよく見ていると、コンクール応募作品展示中という文字が添えられていた。
ようはトリックアートのコンクールがあって、そのコンクールに応募していた作品を展示しているという主旨のようだ。
「なんとなく話が読めましたよ。この展示会にさっきの絵を描いた人のトリックアートが応募しているのですね?」
美術館の前で待っていた山名豊香にようやく追いついた。
「ええ。麻生田真由はこのコンクールで大賞を取っている。そして……」
遠くを見るような目をして語りだした山名豊香の言葉を遮るように、
「豊香さんの話を聞くのを拒絶する。大抵のことは推理できますから。そんな説明をするよりも絵を見ましょうよ、その人の描いた絵を」
俺は山名豊香を追い越して、美術館の出入り口まで行くもチケットを持っていなかったので、しまったな、という顔をして立ち止まった。
「どう分かったのだ?」
語り足りないが故に残念そうな顔をした豊香が二枚のチケットを手にして俺と並んだ。
「あの絵の写真にあったタイトルには『ふりがな』がなかったんですよ。もしふりなががあったとしたら、稚拙なアナグラムが仕掛けられている事が簡単に分かるんです。だけど、ふりなががなかったとしたらどうですか。深い意味がありげな絵、そして、どう読んでいいのか分からないあのタイトルに、何か深い意味が込められているように思えてしまうのではないですかね。この絵は『自分達を非難するために描かれたのではないか』とね」
豊香が並んで入館しながら、俺はそう説明する。
「君の言う『自分達』とは何者達の事なのだ?」
「あの絵に描かれているは、木曽ヶ原高校の美術室ですよね。麻生田さんはきっと美術部員で……いや、美術部員だったと言うべきでしょうか。コンクールで大賞を取るような才能があるのだとしたら、他の部員達に嫉妬されたのですよね。その嫉妬心から美術部を追い出された。そんなところですかね」
「八割以上、正解だ」
「俺の言う『自分達』とは、麻生田さんを追い出した美術部の人達の事ですよ」
「……よく分かったものだな」
「きっとあの絵のタイトルは本人に訊けば素直に教えていたんじゃないですかね。だが、麻生田さんを追い出した人達は訊けるはずがない。話をすることさえ拒まれると思っていたかもしれないですからね」
「あの絵を見て気になったので、あのタイトルの名前を訊くと、真由はすぐに教えてくれたよ。絵の名を聞いた瞬間に理解した。意味なし、というアナグラムが仕掛けられている事に。その真意を質問すると、不発弾として美術室に置いていったと語っていた。本人は追い出された事をさほど気にしてはいないとは言っていたが、本心かどうかは分からない。あんな絵を残していったのだからね」
豊香は麻生田さんの絵がどこにあるのかもうすでに分かっているようで、他の展示には目もくれずに向かって行く。
「そこまで分かっているのなら、どうして俺に依頼なんかをしてきたんですか?」
「ふふっ、言ったではないか。ずっと前から好きでした。付き合ってください、と」
「それは本心ではないですよね?」
「いやいや、本心ではないかもしれないし、そうではないかもしれないではないか」
山名豊香は曖昧な笑みを浮かべて、故意にはぐらかせようとする。
本当はそれが本心で、その本心を悟られまいとしているのか。
それとも、本心ではなく、言葉そのものが嘘なのか。
山名豊香という人物が未だに掴めないため、どちらが正解であるのか断定することができない。
「ホームズ部長、来てくれたんですね」
不意に豊香が足を止めた。
俺もつられて足を止める。
そうすると、背の小さい、童顔の少女がとてとてと豊香に近づいてきた。
その少女の姿にどこか見覚えがあった事もあり、記憶の海に探りに行くと、ものの数秒で発見できる事ができた。
勇猫目の作者である麻生田真由だ。
あの絵に描かれていた後ろ姿から窺える姿形、そして、雰囲気が一致していた。
「ああ、当然だ」
麻生田真由と思しき女の人が豊香の前で立ち止まて、にっこりと豊香に笑いかけた。
「私の拙作を見に来てくれて、ありがとうございます!」
麻生田さんは嬉しそうに微笑みながら深々と頭を下げた。
「拙作などとは謙遜だね。真由の作品は秀作……いや、名作の粋だとは思うのだけど」
麻生田さんが頭を上げたのを見計らって、豊香が言う。
「いえ、私なんてまだまだですよ。今いる一線級の人達に比べてもまだまだ芸術の入り口に立っているに過ぎませんよ」
「謙遜を」
「私としては、もっと多くの人達に認められる作品をもっと作っていきたいので日々精進有るのみですよ」
「そうか。ならば、もっと上の作品を期待しておくとしよう。麻生田画伯のね」
「あはっ、画伯なんて言われたのは初めてですよ」
「いずれは画伯ではないのか?」
「未来は分かりませんけど、そうなるといいですね」
「ああ」
そこで会話が途切れて、麻生田さんの視線が俺に向かう。
「彼は重村正くんだ。私同様、『いさましいにゃんこのめ』のアナグラムを一瞬で解いた人物だ」
「そうだったんですね。簡単すぎましたよね。えへっ」
麻生田さんは舌を出して、可愛く照れ笑いを浮かべた。
なるほど、そういう事だったのか。
『いさにめ』は『いさましいにゃんこのめ』を四文字に短縮されたものだったのか。