絵は黙して語らぬもの 其の四
「教えてください。この絵のタイトルはどう読むんですか?」
豊香の鼻から漏れ出ている息が俺の唇にかかりながら、俺は動揺せずに問うた。
「い・さ・に・み」
豊香は唇の動きを明確にするようにゆっくりと四文字を発した。
それはまるで恋人をからかうような、ささやきのようでもあった。
「もう一度。当て字でも何でも無い不可解な単語だったのでもう一度お願いします」
「い・さ・に・み」
豊香は恥ずかしがる事も、億劫そうにする事もなく、同じ調子でその四文字を口にした。
「ふふっ、まるで君に愛の言葉を囁いているようだ」
ようやく羞恥心でも湧き上がったのか、豊香は頬をほのかに赤らめた。
けれども、顔を離そうとはしなかった。
まるで俺の反応を楽しんでいるかのようなので、俺としては対抗してしまうのだが。
「囁いてもいいですよ。断りますけど」
この人といると調子が狂う。
勢いに任せて付き合ってしまったりしたら、振り回されるだけではなく、尻に敷かれてしまいそうだ。
「ならば、君から私に愛の言葉を囁くのはどうだ? 好きだ。付き合ってください。あなたが欲しい。いくらでも言葉はあるものだ」
「今の言葉は、あなたの願望ですか? それとも、俺に対して口にしたい言葉ですか?」
「両方だ……と、言ったら君はどうする?」
「断りますよ。あなたは……」
そう言いかけたところで、豊香がすっと右手を伸ばしてきて、人差し指で俺の唇に優しく触れた。
「あなたとは他人行儀な呼び方だ。豊香と呼んでいい。こうやってキスさえできるような距離にいる間柄だ。呼び捨てにするくらいが丁度良い」
そう言いながら、指を唇からさっと引いた。
「まだキスをしていないですよ。それに、豊香さんは言ったじゃないですか。デートをする間柄だなんだと。ま、その程度の関係ですよ、俺と豊香さんは」
「……ならば、私の唇をこのまま奪ってもいいのだよ?」
「遠慮しておきます。怖い事になりそうですし」
「それではまるで私が怖い女のようではないか」
「腹黒ですよね。計算高い女ってところですかね」
山名豊香がここでようやく俺と距離を取るように俺から身体を離して、
「……よく言う」
と、意味ありげに自嘲気味な笑みを浮かべた。
「意味なし、です」
俺はホッと胸をなで下ろしつつその言葉を口にした。
「何がだ?」
「この写真の絵には意味なしって事ですよ」
「……意味なし、か」
山名豊香は反論どころか、理由を訊ねたりすることなく、妙に納得した様子で頷いた。
「……ええ」
言葉通り、あの絵には意味はない。
タイトルである『勇猫目』には簡単なアナグラムがしかけられている。
『い・さ・に・み』
その言葉をローマ字にすると、
『I・SA・NI・MI』
となる。
この文字を後ろから読むとどうだろうか。
『I・MI・NA・SI』
と読める。
つまりは『意味なし』という事だ。
意味ありげな絵に見えて、タイトルで否定しているのだ。
意味なし、と。
それと同時に俺はとある事を理解した。
山名豊香はこのアナグラムに気づいている。
『いさにみ』という4文字をはっきりと発音して俺に聞かせてきたのが、その証拠と言える。
その上で、俺にこの絵の意味を解くように言ってきたのだ。
山名豊香には他に何かしらの意図か企みがあると見るべきなのだろう。