仮面
電車に揺られて、はや数時間。
この電車には誰も乗っていない。世界に居るのは僕だけだ。
僕はただ外の風景を眺めていた。頭を空っぽにしていたから何処に行くかも決めていなかった。
まるで撮る為だけに用意されたムービーカメラの様に、何を追うことも無く。大きな景色だけを目に映していた。田舎街の田んぼが広がるつまらない映像が、流れては途切れていく。
いつまで経っても、この殺風景は変わらない。
暫く眺めていると、低い声で車掌が「トンネルに入ります」と案内放送をする。
その言葉通り、窓が一瞬にして真っ暗になる。
長いトンネルの始まりだ。鼓膜がぐっと押し込まれるような違和感と共に窓にもうひとつの世界が映し出される。
僕は、窓に映った自分を見る。
窓に映る僕はニッコリと笑っていて、とても楽しそうだった。酷く滑稽に見える程に。
黒一色の窓を眺めていると、音もなく近づいてきた男性に声を掛けられた。
「君はどこに行くんだい」
少し細身のスーツ姿のお兄さんと言えばいいのか。その男性は酷く頬がこけていてとても健康的には見えなかった。
僕は少し考えて、忘れかけていた事を口にする。
「何処かに向かう訳では無いんだ、ただ変化のない風景を眺めているだけでさ」
それを聞いた彼は、何処か安心した表情でニコッと笑った。
えくぼが出来て、細い唇が歪む。
笑っているはずなのに何処か人のそれとは違った無機質なもので気味が悪かった。
「そうか、ここは心地がいいものだしね。私もよくそこの席で一思いに耽っていたよ」
彼は、僕の隣に座ると「ふぅ...」と膨れた風船から空気が漏れるような溜息をした。
僕も、席上の荷物の数を数えながら溜息をする。
荷物の数は、全部で五つだった。
「君は、何処に向かいたいんだい」
少しすると、彼は細い声で訊いてきた。
───僕は何も言わなかった。
「はは、じゃあ僕と同じか」
何か察したのか彼は軽く笑うと、窓に映ったもうひとつの世界を見て語り始めた。
「君。窓に映った世界が、並行世界だと考えたことはあるかい?
私が見ている窓に映った自分は、本当に私なのだろうか?あちらが本当の私なのだとしたら、この身体は本当の私だろうか?とかさ。いつも電車に揺られながら考えていた。君が座っている席でね。だけど答えは一向に出ないままここまで来てしまった。
だけど、この数年間でこれだけは分かったんだ。
この世界に本当、本物なんて言葉はないんだ。この窓だってこの世界にある鏡だって本当に自分の顔を映してくれるかどうかも分からない。僕達人間は、自分の本当の顔を知らずに死んでいく」
「.....じゃあ、この世界は本当なのですか」
尋ねると、細身の男はまたニコッと笑う。
僕は少しこの男性が恐ろしいものと思えてきた。
「それは誰にも分からない。本当でも虚偽でもない。ここでは相反している。それが私達の世界なんだ。
────さっき君は、向かう先が無いと言っただろう。あれはね表現としては少し違う。
君は自分自身でさえも信じていないだけなんだ。ここに居る君は本物か、はたまたこの窓に映る君の仮面が本物か。さて一つ質問だ。君の本物はどちらだい?」
───僕は何も言えなかった。
言い終えると満足したのか彼はすっと立ち上がる。
「では、私はこれで。君の心の世界はとてもじゃないが居心地が悪いものでね、また会えるのならその時は本当の君を見せてくれよ」
そう言い残して、彼は消えてしまった。
僕は、緊張の糸が切れたように深く椅子に背中をあずける。
人間界において人間は本物という概念に感知できない。本物は人それぞれにあり、時間によって絶えず濁流の様に変わっていくものだから。
だから、確かな本物というものは無い。
この窓に映った俺と今ここに存在する自分。
他人と触れ合う自分と自分自身。
やはりそこには一種のズレが生じる。
外界に触れる自分と身体の中の自分。
一体どちらが本物の自分なのだろうか。
──まもなくこの電車はトンネルを抜けて、何処かの最終点に向かうだろう。
僕が被っていた仮面も剥がれ落ちて、また僕が顕れるだろう。
でもそれは、本物なのだろうか。
その思考は本物なのか。他人に映る僕は本物か。
なぁ、僕が見ている君は本物なのだろうか?