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君と待ち合わせて。

作者: 柚野はな



「あのさ、」



あの時は

君の名前を呼べなかった



「かりん。」



振り返る君は

ばかって僕のこと叩くかな?


でもね

君には届かないはずだったんだから

こんな君との時間は 覚えていたいって思うんだ








「はぁーー...」



気の抜けたそれは、仕事を終えた合図だった。

時刻は20時を過ぎた頃。閑散とした小さなオフィスに不釣合いな煌々とした蛍光灯を見上げて、ブルーライトに疲れた目をぎゅっと瞑る。白い光が瞼の裏をぼんやりと明るくしてじんわりと広がる微かな痛みが、開いた視界を緩く滲ませた。

一緒に格闘したパソコンの電源を落として、席を立つ。随分前に眠気覚ましに淹れたコーヒーは、飲み切られることもなく湯気を立たせることを忘れてすっかり静まり返っていた。一気に飲み干して、そのままマグカップを給湯室に置く。きっと明日の朝、気の利いたよくできる後輩が洗ってくれることを信じて、帰り支度を早々と済ませて会社を後にした。



『おつかれさま〜』


帰りの電車に乗った頃、君からのメッセージを知らせる通知がスマホを震わせた。


『今どこー?』


『今電車乗ったとこ。』


君が読んだことが分かって、なんとなく君からの返事を待つ。


『じゃあ、待ってるね。」


たったのこれが、僕の気持ちをあったかくして、今日1日なんだかんだいい日だったような気持ちになる。そんな君もきっと大変だったんだろうけど、


『うん』

『待ってて。乗り換え急ぐね。』



そうやって、君もおんなじだったら嬉しいと思うよ。



長い電車に揺られて、最寄駅の改札をくぐる。すぐに君は僕の視界に入ってきて

目が合った君はその目を優しく緩ませた。



「おかえり。」


くすぐったい。


「ただいま。」


でもこれも、悪くないな。


「重たい?」


君の左手にぶら下がるスーパーの袋はきっと時間を持て余した君が駅前で買ったものだ。


「うん、重たい。」


「持って欲しい?」


君は、意地が悪いと言うように僕を見つめて、ぷいっと横を向いた。


「いいですぅー。」


全く君は、言えばいいのに。


仕方なくその手から奪おうとすると、君はその手を引いたので、伸ばした僕の手は残念に空中を切っただけだった。そんな君に遊ばれる情けない手に笑みがこぼれて君の顔を見る。


「ハルが好きなおじゃがさん、たくさん買ったよ。」


満足そうな君の顔にため息をつきながら、

ゆっくりとそのまま君の腕に跡を作る袋を取ろうとする。君は何も言わずに、器用にその腕を袋の持ち手穴から静かに抜いた。


『おじゃがさん』

じゃがいもって普通に言えばいいのに君の独特な言い回しはいくつになっても直らない。

ちらりと見た顔は嬉しそうだった。

それなのに、まんまとかわいいと思ってしまう僕もいくつになっても変わらない。



「ありがと。なんか、かりんのポトフが食べたいかもしれない。」


「じゃあ今日はちょっと遅いけど特別に作ってあげよう!」


君の足が小さく跳ねて、僕の先を行く。

あの時も今も君はあまりにも変わらない。

変わったとすれば、それは君が僕の名字を名乗るようになって、君は僕の奥さんになったことだ。

例えば、僕の名字を名乗って受話器を取る姿にも慣れたし、人から「奥さん」と呼ばれる姿にも慣れてきて、「おはよう」と僕を起こしてくれる朝も当たり前になり、「おかえり」とこうして僕の帰りを駅で待つような愛しさも覚えた。

きっといつか、こうして君と待ち合わせをして一緒に帰るような時間も無くなっていってしまうんだろう。君の存在が当たり前になって、そんな君との生活に欲が出て、君と喧嘩することだってあるんだと思う。

君が作るご飯を「食べてきたから」なんて手をつけない日が来て欲しくは無いけれど、君の「おはよう」に「おはよう」を返さなくなって、君に背を向けて寝る日々が続くことだってあるのかな。



「ハルー?」


前を歩く君が僕の名前を呼ぶ。


「なに?」


これまで何度も君にあげた笑顔を向ける。


「なに考えてたの?」


君が僕の隣に戻ってくる。

こうして明日も明後日も来年も、君と喧嘩をした日だって、僕の隣が君の戻ってくる場所であってほしい。


「んー?」


僕を見上げる大人になった君は、出会った頃よりもずっと美しい。


「なに考えてたの?って。」


そんな君が首を傾げる。


「聞こえてるよ。」


そんな君にくつくつと笑う。


「ポトフたのしみだなーって、考えてた。」


そうすると君は、ふふっと眉を下げて笑う。


ああ、

なんかもう先のことはどうでもいい。


「おいしく作るね。」


「大丈夫、いつもおいしいよ。」



君と待ち合わせ、君が僕の隣を歩く。

片手には、君がこれから作るおいしいごはんの材料を持って、

空いたもう片方は、愛しい君の手を。



「なにー? さてはろくなこと考えてなかったな?」


「ふはっ、なに、照れてるの?」


そういえば、君と手を繋いだのは久しぶりだった気がする。


「うるさいばか!ハルのその笑顔は好きじゃない!」


君が勢いよく手を振って、僕の手を振り払おうとする。そうはさせまいと、手をぎゅっと強く握って引き寄せる。


「ふーん? 嫌いなの?」


そうすると君は、困ったような顔をする。

僕はそんな君の顔が好きだけどね、


「じゃあこれは?」


君にぐっと顔を近づけて、君のことを想って笑う。


知ってるよ、

君は僕のこの顔に弱い。


君が、握る手にぎゅっと力を込めたのを合図に、そのまま君の頬に短くキスをする。何でもなかったように君から離れれば、僕の腰のあたりに、強い衝撃が来る。


「いてっ、、ちょっと、俺の手だぞ、痛いの。」


「ふふ」


僕の手を繋いで隣を歩く君が嬉しそうだ。

いつか来るかもしれない君との悲しい日々は

今のところ考えられないから、

約束するよ、

そんないつかの日が来たらまたこうして君と待ち合わせをして、

なんでもない今日みたいな日を思い出して、

君の隣にいられることを幸せに思うよ。



「ハルー、今週のお休みは一緒にお買い物だからね!」



「はいはい」



楽しくなりそうな週末に、自分らしくない笑顔がこぼれた気がする。




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