黒い女
「やっぱりあんただったのか……」
肌以外はすべからく黒い女性が、がっくりとしたふうに僕のほうには視線すら向けずにムトに素早く近づく。
僕は彼女の姿に見覚えがあった。
「まあ、私のちいさな魔法に気がつくのはあなたぐらいでしょうけど……実戦というにはちょっと実戦すぎるわね」
ムトも彼女を見てがっかりした様子だ。
二人の間にどのようなことがあったのか、他人の僕に知る由もないが、この場に流れる空気から二人が良好な関係を築けているとは到底思えない。むしろ険悪すぎるほどに険悪だ。
「それで、あの風の魔法士の次は……その子供ってわけ?」
邪悪な気配に満ち溢れた黒い女は、おそらく僕のことを子供と呼んでいる。僕のことを覚えていないようだが、それはかえってよかったかもしれない。
以前に見た彼女からは到底理解できないほどの敵意が僕たちに向けられているからだ。いや、敵意などという生ぬるいものではない――より正確に言うのであれば、『殺気にも近い魔力の流れ』だろう。
ともかく、今まで感じたこともないぐらい大きな魔力が彼女からあふれ出している。魔力の感受性とやらが高い僕であっても、相手が魔法を使うよりも前に魔力が感じられたのは初めてだ。僕が記憶する中では、そのようなことが起きたことはない。
僕は半歩ほど後ろに足をやる。あの女が僕のほうに近づいているわけではないということは理解できてはいるものの、顔からあふれ出る汗が心から余裕というものを吐き出し続けているようにすら錯覚した。
「あえて言うのであれば……違う。そもそも、堺にはもともと悪魔なんてついていなかったし、あいつの精神では悪魔に憑かれるなんてことはありえなかったはず。あいつはいつもいつも人のために……」
ムトは苦しそうに言葉を絞り出した。その言葉に、女は歩みを止めて悪魔のように笑い始める。しかし、その顔からは笑うなどという表情が一切読み取れないのが不気味で仕方がない。口では笑っているふりをして、実際は何も感じてはいないのではないかと考えてしまうほどに無表情で笑う。
「どのみち、あの魔法士程度では序列68位で神にも等しい彼を利用することなど不可能だけどね」
「神に等しい……笑えるわね。神の力を前に何もできない悪魔ごときにあいつが負けるわけない!」
彼女は彼女が堺を馬鹿にした時に僕が見せた怒りよりもはるかに強い怒りを表した。おそらく自分が馬鹿にするのはいいが、他人に馬鹿にされるのは嫌だということなのだろう。その怒りに圧倒され、僕はようやく一歩前に踏み出すことができた。
「お前は、あの時の女だろう?」
ようやく口を開いた僕を見て、女は馬鹿にしたような口調で言った。
「お前は私を知っているのね? でもごめんなさい、私は知らない」
きっと彼女からしてみると、僕は下等な人間の一人でしかないのだろう。それは彼女の魔力に怖気づいている僕自身が一番よく知っている。だが、今は違う。
「僕もお前のことなんか知らない」
「だったら黙って――」
女はそう口にしたところで、僕のほうに近づいてきてまじまじと僕の顔を見る。彼女の顔は近くで見れば余計に不気味で、表情筋がまるで機能していない人形をほうふつとさせた。
「――なっ!?」
あまりにも突然の出来事に、僕は驚きの声を上げた。しかし、僕よりも驚いていた人物がいた。それは僕の目の前にいる女だ。
「まさかこんなところで王に会えるなんて……」
小声で何かをつぶやいたかと思えば、女は僕からあっさりと離れた。
「いいわ、相手にしてあげる。あんたたちにはそれだけの価値があるだろうから……」
女は両目をつぶり、ゆっくりと構える。
「いいえ、遠慮するわ」
構えている彼女に大して、ムトはあっさりとそう言った。
いったいムトは何のためにあの女をひきつれてこんな場所に来たのだろうか……意味が分からない。明らかに彼女の行動は破綻している。
「ん……?」
女は表情は変わっていないものの、ムトの意図が明らかにわかっていない。女よりも先にいた僕ですらムトの考えがわからないのだから無理もないだろう。
「悪魔の中で一番話が分かるあなたと戦う理由がないじゃない。それよりもアスタロト、あなたの魔法を見せてもらってもいいかしら?」
「それは結局戦うのと一緒だろう?」
アスタロトと呼ばれた黒い女はこの時初めて表情を変えた。それもため息付きでだ。
「あなたとは戦わない……でも魔物とは戦ってもいいででしょう?」
「魔物といっても私の魂の一部なんだぞ? それを冒険者の成長のために使えというのか?」
ムトが笑いながら言っているのに対して、アスタロトは明らかに怒りをあらわにしている。アスタロトの怒りは先ほどの殺意よりも明確に、ムトに対して向けられている。しかし、代わりに殺意に似た魔力は感じられなくなった。
僕はそんな二人を見ていると疎外感が感じられる。しかし、ここで口を開くのは憚られた。
「そういうこと。あなたなら納得してくれるでしょう?」
ムトの顔は比較的穏やかに、仲間に頼みごとをするかのようだが、その眼は明らかに敵を見る目をしている。もちろん、僕が見たうえでの印象で本当は違うのかもしれない。ただ、当事者でない僕でさえもそう感じているということは、アスタロトという女であってもそう感じているはずだ。――それはアスタロトが苦汁を飲んでいるがごとく渋い顔をしていることからもよくわかる。
しかし、それも僕の客観的意見に過ぎない。だが、強く握られたアスタロトのこぶしは今にもムトに向かっていきそうなぐらい力強さを感じさせた。彼女がその拳から脱力させるのはそれほど時間がかからなかった。
アスタロトは幾度目かのため息をついた。
「あんたは私を勘違いしているでしょう……私だって普通の人間と大差なく、死ぬのは怖い。そして、魂が完全になくなってしまっては死んでしまう。だからこそ、才能がある人間に対して魔法は使いたくないわけ……誰かが私に体を貸してくれるなら別だけどね」
そうしてアスタロトはムトのほうをちらりと見る。
「それが無理なのはわかっているでしょ? 私はもう憑依を許しているからね……あいにく悪魔じゃないけどね」
ムトは彼女の申し出に、少しだけ残念そうにした。それはつまり、何者にも憑依されていなかったとするなら、彼女の申し出を受けたということなのだろうか。それはそれで、僕にとっては恐ろしいことである。
悪魔の憑依がそう易々とおこなわれることが僕にとっては恐ろしいのだ。悪魔と長い間共存してきた僕だからこそそれがよくわかる。堺だってそうだ……悪魔と共存していなければ火坂などという二面性の持ち主が生まれることもなかっただろう。しかし、それでは僕とニヒルと堺が出会うこともなければ、この世界において僕が生き延びることすらできなかっただろう。その点においては、これでよかったのかもしれない。
だが、僕たちの話とは別で、悪魔を憑依することの危険性は別だ。
彼女たちが憑依の話を始めたところで、ようやく僕は重い口を開くことができた。
「憑依なんて、人間にとっても悪魔にとってもいいことなんてない」
二人の女性がこちらを見ている。それは皮肉にも悪魔を自ら憑依させた僕が自分を棚に上げたような発言をしたからというわけではないだろう。彼女たちは僕のことを知らない。
だとするなら、突然生意気なことを言い始めた子供に対して驚いたということなのだろう。二人はどう考えても僕よりも年上だから仕方のないことだろう。
「それもそうだね」
ムトのあまりにもあっさりとした返しに、僕は少しだけ釈然としない。というのも、最初からムトは僕のことを子ども扱いはしていなかったから、当然今も表面上は子ども扱いするはずもないということはわかっていたのだが、この世界において未成年というカテゴリーに含まれるであろう僕を子供の用に思っているのではないかと、僕自身が早合点していたからだ。
結局自分自身で自分を子供と思っていたわけになる。
「まあ、悪魔にとっても憑依というのは最終手段だからね」
僕が自分のことばかり考えているうちに、アスタロトが突然そう言う。だとするなら、彼女にとって今はそれほど追い込まれた状況なのだろうか。
「さっきのは彼女の冗談よ。悪魔は人間よりも人間らしいから」
ムトは僕の心の声に反応して、僕の疑問に答えた。
「勝手に心を読まないでくれるか!?」
極度の緊張感がとかれることによって、僕は膝が笑い始めた。今思えば、きょう一日……というよりもまだ半日にも満たない時に、すでに街中で引きずられ、三体目の悪魔に会い、魔法士に心を読まれとろくなことが起きていない。
こんな風にろくなことがない日の後半は、僕の経験上では前半以上にひどく殺伐としたような一日になる。
最初に僕の中の悪魔と会ったその日がそうだったなどと、思い出に浸りながら、僕は心を読む魔法士がいることを思い出して、再び憂鬱な気分になった。




