ニヒル
すぐさま、部屋の外からドタドタと急いでかけてくる音が聞こえてきた。
「イグニスさん! 大きな声を出して一体どうしたんですか!?」
大きなノック音とともに聞こえてきたのは、幼く可愛らしい声が聞こえる。その声の持ち主はもちろんニヒルである。そこまで大きな声を出したつもりはなかったが、一階にまで響く声を出してしまったようだ。
これではまるで、一人事で怒鳴りつける頭のおかしな人間だ。いや、決して差別的な話ではない。これはあくまで僕の心の問題だ。
ともかく、変に思われないようにすぐにドアの鍵を開ける。
「やあ、ニヒル!」
なんとか、爽やかさで誤魔化そうと思ったが、先程まで大声で怒鳴っていた人物がそんなことをしても対して誤魔化すことは出来ない。親子が喧嘩していたところを目撃した子供より震えているニヒルに対してどのような言い訳をしようかと考え込むが、それがかえって恐ろしく感じたようだ。
「ちょっ、イグ、イグニスさん!」
どもった声で僕に語りかけてくるその様子はまるでアレのように、そうアレのようだった。どうやら僕自身も思考が追いついていないようだ。
「ちょっと落ち着いてニヒル! 別に怒ってるとかそういうんじゃないから……!」
彼女に対していった言葉はそのまま僕に当てたことばであった。それもこの小さく何もない部屋の中をこだまするように響き渡った。それだけでも自分がどれほど大きな声を出したのか思い知らされたが、ニヒルの様子を見るに自分が意識するよりも遥かに大きな声で怒鳴るように言葉を発したことは目に見えて明らかだ。
耳を抑えてしゃがみ込むニヒルだかと思うと、すぐに立ち上がりプリプリと頬を膨らませているニヒルはなんだか愛らしかった。
「もう! こんな朝早くから大声を出すなんて、イグニスさんは何を考えているのですか!?」
今度は僕がニヒルの声に圧倒される。彼女の声はおそらくだが、僕の出した声よりも大きかったのではないかと思う。彼女のその小さな体からは想像もつかないような声量だから、僕は動揺してそれについての文句を言いそびれてしまった。
「ごめん、ニヒル……」
さっきよりも大分声量を落とし、ご近所様の迷惑にならないように出来るだけ、小さな声でつぶやいた。
「いえ、正直な話ですが、大きな声を出していたことに関してはあまり気にしてません。ただ、どう考えても一人で話しているようではなかったので、少し様子をみにきたのですが、お相手の声が聞き取れなかったので、ちょっと気になってしまったというだけです。ほら、相手の声が聞こえない会話というのはかなり気になるものではありませんか? だからつい部屋の前まで来てしまったんですが……悪魔と言うワードが聞こえた気がして……」
そう申し訳なさそうにいうニヒルだが、考えても見ればそりゃそうだ。一人暮らししているはずの男の部屋から大きなひとりごとが聞こえてきたら、何事かと気になるのが普通だろう。まして、同じアパートで暮らしており、なおかつよく話す人物友なればなさらである。今回ばかりは僕の配慮が不足していたからこそ、彼女に重要な話を聞かれてしまった。これは僕の落ち度といえるだろう。
……うん、例え僕の中の悪魔に苛ついていたとはいえ、僕が悪いということにしておこう。
だが、聞かれてしまったものは仕方がない。どのあたりからどのあたりまで聞かれたのかはわからないが、ともかく彼女には事情を説明しておくべきだろう。
とはいえ、僕自身まだ状況を完全に把握できているわけではないし、彼女を全面的に信頼することも出来ない。
今まで最上級の信頼を置いていたやつが何をいうか、なんて思われるかもしれないが、敵かも知れないとなると話は別だ。いくらなんでも、疑わしい人物を信用しろと言う方が人間の心理的にはまともだろうが……それでも僕はニヒルは信用できる。いやどうしても信用しかった。むしろ彼女に裏切られたとしても僕はそれで良いのかもしれない。
「実は……」
そう僕が口をあけたところで、悪魔の考えが流れ込んできた。
(おい、本当にそいつを信頼するのか? 俺は悪魔だから、感情論抜きで考えるが、そいつは一応敵の協力者だぞ? もしベリアルと組んでなかったとしても、ベリアルこと火山に対して信頼を置いていたらどうする? お前の言葉を信用せず、お前を疑ったら?)
確かに悪魔の想像は的を大きく外しているわけではないだろう。もしかするとその通りなのかもしれない。だけど、彼女にだけは嘘を言うつもりははじめからない。本当のことを言った結果が、どれほど最悪な事態が待っていようとも、それを初めから予言されていたとしても僕は本当のことを話すつもりだ。
これは僕のわがままかも知れないし、悪魔を道連れにするのは気が引けなくもない。
だが、『彼女』と『彼』を救えていない僕は、彼女を守る意思すら見せないのでれば、僕の存在意義そのものがなくなってしまう。
ただそれだけのプライドのために話すのだ。まあ彼女を救いたいという気持ちがくだらないプライドによってもたらされたものかと言われれば若干違うのだが、今はまあそういうことにしておいてくれ。
(お前がそう言うなら止めないよ……)
僕は悪魔の言葉を同意と決めつけ、再び話始めようかと思ったが、彼女の不安そうな顔を見て少しだけ戸惑ってしまった。そんな僕を見た彼女は更に不安をつのらせ僕に問いかける。
「あの……。イグニスさん……?」
こんな表情のニヒルは初めて見た。だけど、僕は決意を決めた。それは揺るぐことがないだろう。
「多分なんとなく気がついているとは思うけど、僕達の他にもう一人このアパートには住んでいたんだ。『彼』の名前は堺。君ならきっと覚えていると思う」
僕の言葉をなんとなくではあるようだが理解しているようで、彼女は困惑しているようだ。
「堺……さん……?」
そんな彼女の脳に更に追い打ちをかけるように、僕は堺の特徴や独特な話し方などについて話した。
「そう、堺。あいつはいつも変な関西弁で話してきてさ……」
「変な関西弁? 似非関西弁ですか?」
彼女が言う似非という言葉は初めて聞いたが、なんとなくしっくりきた。
「うん、そんな喋り方だからさ、いつも笑いをこらえるので大変なんだ。しかも、そんな喋り方なのにいつも核心を突くようなことを言うんだよ。だからかな? 僕はそんな彼が好きだった。いや、もちろん友達としてだよ?」
そう友達。堺……フロンスは僕の親友だった。
「とても仲がよろしかったんですね……」
そう優しく呟くニヒルの目から一筋の雫がこぼれ落ちたような気がした。きっとそれは気のせいではないだろう。
「どうした?」
「……あれ? どうしたんでしょう? 涙が止まりません……何か大切なものを失ったような気がしてっ!」
最初ほど静かに涙するニヒルもだんだんしゃくりあげるようになくようになり、それをなだめるために僕が出来ることなど、ただ頭をなでてやることぐらいだった。




