十七 手段
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右手が血まみれになっている。血糊でベタベタとして気持ち悪い。
爪を剥がされた指は感覚が麻痺していた。アドレナリンが分泌されているせいか、痛みを感じなくなっていた。
村松は血の付いたペンチを握りしめたまま、狂った私を残念がるような目で見つめている。彼は私を狂わせてしまったことを詫びているようだった。
爪がある指は左右合わせてまだ七本残っている。あと七回も爪を剥がされる苦しみを味わう必要があるので、気が滅入ってしまう。
ところで、全ての爪を剥がされたら、今度は何をされるのだろうか。そこから更なる拷問が待っているものと思われる。
この痛みから逃れるには死を選ぶ以外他にない。生き返っても再び拷問されるだけだ。私は肉体を捨てるしかない。
カーテンの隙間から日が差している。私は長い間拘束されているが、まだ外は明るいままである。
それもそのはずだ。時間がずっと止まっているのだ。太陽の位置は変わらないままだ。雲の流れも風もぴったりと止んでいる。
「少し休憩しようか……。君も私も一旦落ち着くべきだ」
村松はペンチを置いた。そして、拷問が行われているこの暗室から出て行った。
椅子に固定された私だけが残される形となった。
「うっ……。やっぱり痛い……」
指先に電流が走るような感覚に襲われる。興奮状態が切れてしまったようだ。痛みがぶり返してくるのがわかる。出血もおさまらない。
私は大量の汗をかいていた。初夏の昼下がりが部屋の温度を上昇させるのだった。
喉が乾いてきた。このままでは拷問によるショック死よりも先に脱水症状で命を落としかねない。
喉の渇きと指先の痛み。二つの苦しみが私に生き地獄をもたらしている。早く死んで楽になりたいと思わせる作戦が効力を発揮していると言える。
しばらく悶絶していると、村松が部屋に戻ってきた。彼はペットボトルとグラスのコップ、それから洗面器を手にしていた。
「喉が渇いただろう。まずはこれを飲みたまえ」
コップに水を注ぐ村松。そして、その水を私の口に含ませてきた。
私はそれをゴクゴクと飲み干した。勢いのあまり、水が口から少しこぼれてしまった。
こぼれた水が首筋に垂れる。ヒンヤリとして気持ちいい。
「ぷはっ」
「まだ飲むかい?」
「はい……」
村松はもう一度コップに水を注ぎ、私の口に押し当てる。
ガブガブと飲む私。みっともないくらいに執着する。
教授が用意してくれたミネラルウォーターは喉に潤いを与えてくれた。
洗面器には水が張られていた。教授はその水でハンカチを濡らす。
そして、水が浸ったハンカチを軽く絞り、血で汚れた私の右手を拭き始めた。
「痛かっただろう。すまないね……」
謝りながら私の指先の血を拭き取る教授。おかげで乾き始めていた血の跡が綺麗に落ちた。
その反面、彼のハンカチは血に染まっている。汚してしまって申し訳ない気持ちになる。
村松は汚れたハンカチを洗面器の水に漬け、揉み洗いをする。すると、洗面器の水が赤く濁ってしまった。
汗と血の混じった生々しい匂いが部屋中に漂っている。私は思わずむせてしまいそうになった。
「どうしてここまでしてくださるんですか……?」
「どうしてって……。このくらい当たり前じゃないか。君をこんな目に遭わせたのは私なのだから……」
拷問して殺す相手に気遣いなんて不要だろう。水を飲ませる必要もないはずだ。遠慮せず爪を剥がし続ければいいものを……。
やっぱり教授は優しい人だった。他者への甘さを捨て切れていなかった。心を完全に鬼にすることなどできなかったのだ。彼はどこまでも紳士だった。
「どうやら私は間違っていたようだ……」
「教授……?」
村松は涙を流していた。ハンカチを洗う手が止まっている。
血で染まった水に手をつけたまま、彼は言葉を続けた。
「柊くんに罪はない。妻を救うためとはいえ、君を犠牲にしてもいい理由にはならないことはわかっていた……。それなのに、私は自分のエゴを優先してしまった。柊くんの死のおかげで自分が生かされていることを妻が知れば、きっと彼女は悲しむだろう。私は悪に手を染めた男だ。そんな私を妻が愛してくれるわけがない」
村松の涙が洗面器の赤い水面に落ちる。落ちた涙は波紋となって広がった。
「天国へ行くべきなのは君ではない……」
「え……」
「この私が行こう」
「……ど、どうしてそうなるのですか?」
耳を疑う発言だった。村松は自分が死ぬと言い出したのである。
それでは彼の奥さんは救われないだろう。何も意味がない。
「これからもずっと、妻と一緒にいる方法を見つけたんだ。私も妻と同じ場所に行けばいいんだよ」
「そんなのダメです。どうか早まらないでください」
「私が妻の後を追う。これで全て解決だ。私たちはあの世で夫婦生活を続ければいい……」
「自ら死を選ぶなんて間違っています。考えを改めてください」
「柊くん……。君にはまだわからないだろう。人は愛のためならば何でもする気になってしまうのだよ。だから私は君を死なせることを一度は考えた。だけどそれは間違いだった。だから他の手段を選ぶことにした。永遠の愛を手に入れる方法……それが後追いというものさ」
私には理解できない。私は愛など知らない。愛は自分が死んででも手に入れたいものなのか。愛にはそれほどの価値があるというのか。
誰かを愛したことがない私には、教授の心境には到底辿り着かないだろう。理解不能。意味不明。
「あとは時を待つことにした。妻が息を引き取るまで、私は彼女のそばにいよう。そして、あの世で再会したい。すぐに追いついてみせるさ」
村松は私を縛るロープをほどき始めた。もう拷問はおしまいにするそうだ。
私は剥がれた爪を気にした。お風呂に入ったらすごく沁みるだろうなぁ、なんて考えたりしていた。
爪はアンネリーゼの魔法で治してもらおう。彼女ならなんとかしてくれるだろう。
……そうか! 魔法があるじゃないか。
「今日のことは永遠に許してもらう気はないよ。君への罪は償いきれないと思う。いくら謝っても足りないだろう。だけど、何度でも言わせてほしい。本当にすまない、と……」
村松は土下座をした。額を床にこすりつけたまま、ピタッと動かない。
よくも痛い目に遭わせてくれたものだ。このまま頭を足で踏んでやりたい気分だ。だが、今はそんなことをしている状況ではない。
「頭を上げてください、教授……」
「いや、できない!」
「もういいんです。それよりもっと重要なお話があります。もしかしたら、教授の奥さんを助けられるかもしれません」
「そ、それはどういう……?」
村松は顔を上げた。頬には涙の跡が付いている。
「私の知り合いに魔女がいるんです」
「魔女……?」
「ええ。今からご紹介します。だからとりあえず、時間を動かしてください。元に戻してくれませんか?」
「わ、わかった……。それで、その魔女というのは? 一体何者なんだね?」
「詳しいことは後で説明します。魔女は大学にいますので、今から会いに生きましょう」
私は教授を連れて大学へ戻ることにした。
アンネリーゼならば、どんな病気も魔法で治してくれるはずだ。これで教授の奥さんは救われるはず……。
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