十六 本性
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村松は依然として震えていた。彼は私を拷問すると言ったが、まだ決心はついていないものと思われる。
教え子を傷付けたくないという気持ちが彼の邪魔をしているのだった。そもそも、彼はそんな惨いことができるような性格ではない。愛する妻のためとはいえ、温厚な村松教授には拷問する度胸などないはずだ。
「まずは爪をはがす……。きっとすごく痛むだろう」
右手に握ったペンチを使うらしい。村松はカチカチとペンチを鳴らす。
震えた指先で爪をはがすことなどできるのだろうか。
「教授……。どうか正気に戻ってください。奥さんを助ける方法は他にもあるかもしれません。それを一緒に探してみませんか?」
私は交渉に入る。何とかして教授に拷問をやめさせたい。
「妻を助ける他の方法……? そんなもの、一体どこにあるというんだね。妻は末期のガンだ。もう手遅れなんだ。どんな治療法を試しても、回復することはなかった。日に日に弱っていくばかりなんだよ。悠長なことを言っている暇はないんだ」
病気が治る見込みはないらしい。教授の奥さんはいつ死んでもおかしくはない状態にあった。今は延命することで精一杯なのだという。
「私が死んで奥さんが助かれば、教授はそれで満足なんですか?」
「満足……か。いいや、そうはいかないだろうね。きっと私は永遠に苦しみながら生きていくことになる。君を犠牲にしたことに対する罪の意識を一生背負っていくだろう」
村松は悟ったような顔を見せた。彼は罪から逃れるつもりはないのだという。
覚悟はしている。しかし、まだ勇気が出ないといったところだ。私を殺す覚悟はあっても、行動に移すことはできない。彼の良心がそれを踏みとどまらせているのだ。
「私はもっと長く妻と一緒にいたいのだよ。どんな苦しみが待っていようとも、妻を失うことに比べれば遥かにマシだ……。もちろん君には申し訳ないと思っている。理不尽なことを押し付けてしまって、本当にすまない」
私と奥さんの命を天秤にかけたとき、教授にとっては後者の方が圧倒的に重いのだ。私を生贄にしてでも、彼は奥さんと過ごせる時間を延ばしたいと考えている。
これが愛の力というものなのか。村松教授は自分の苦しみと引き換えに、愛する妻の寿命を引き延ばそうとしている。誰かを殺してでも、殺したことによる罪の意識にもがくことになるとしても、彼は愛を優先したいと願うのだった。
「覚悟はいいね……? では、始めるよ……」
村松は私の目を見ながら言った。同時にそれは自分自身に言っているようにも聞こえた。彼は自分の心に問いかけている。「罪を犯す覚悟はあるか?」と。
ひじ掛けに固定された私の両腕。離れたくても離れられない。
村松が私の右手を持った。そして、ペンチで人差し指の爪を挟む。
「くっ……! 許してくれ、柊くん!」
ペンチを握る手に力が入る。そして、村松はその手を上に捻った。
メリメリメリ! という音がする。
私の右手人差し指の爪はネチャネチャと音を立てながらはがれてゆく。
「あああああ! 痛い! 痛い! あああああああ!」
強烈な痛みに叫び声を上げる私。
目に涙がにじむ。呼吸ができなくなるような苦しみに襲われる。
爪が完全に剥がれ落ちると、指先は血で染まっていた。鉄の匂いが漂ってくる。
これが拷問か……。本当に死にたくなってくる。
「まだまだこれからだ。次は中指だ」
「ま、待ってください……。痛いです……もうホントにやめてください……」
ギブアップだ。これ以上は耐えられない。残りの爪はどうか勘弁してほしい。
「ならば……大人しく天国へ……」
「それは……」
「じゃあまだ続けるしかないようだね」
大粒の汗を流す村松。
二本目の指に手を付ける。今度は右手の中指だ。
ペンチが爪をホールドする。
「痛あああああああ! 痛いぃぃぃぃ!」
中指の爪も逝った。こちらの指先からも血が噴き出す。
泣き叫ぶ私。教授も目を逸らしていた。もう見ていられないという様子だった。
ひじ掛けは私の指先からあふれ出た血で汚れていた。ベットリとした感覚が右手の指先にまとわりついている。
「お願いします……! 許してください、教授ぅ……!」
ポロポロと涙をこぼしながら許しを請う。
それでも村松は引き下がらない。
「薬指だ……」
「ひっ!」
ぺチン!
今度は容赦なく爪をはがされた。
「っつ! ああああ!」
「痛いだろう。もうやめてほしいだろう」
「はい……」
「あの世へ行く気になったかね?」
「いいえ……」
死ねるか……。こんなところで死ねるか……。
拷問には屈しない。神に負けたりはしない。
私の人生はまだ終わらない……。
村松は短く息を吐いた。
彼も相当参っているようだ。骨を削るような思いで私の爪を剝いでいるに違いない。
こんなのお互いに苦しいだけだ。誰も得しない。不毛な争いだ。
「教授……」
「何かね?」
これだけは言っておこう。
「私、教授の奥さんには負けませんから」
「どういう意味だね」
「譲る気はないってことです……。私の未来を」
「くっ……!」
だいたいおかしいでしょ。どうしてこの私が赤の他人のために命を譲らなきゃいけないわけ? 意味不明なんですけど。
それに、教授の奥さんなんてどうでもいいし。会ったことも話したこともない相手がどうなろうと、私には関係ないじゃん。
「いっそのこと、私に乗り換えちゃいませんか? 私ってまだ若いですし、きっと教授のことも満足させてあげられると思うんです」
「何を言っているのかね! 私が他の女性に心移りするわけがなかろう!」
村松は激怒した。頭に血がのぼり、顔が真っ赤になっている。
「ほら、だって私こんなに可愛いんですよ? 正直、奥さんより私の方が綺麗でしょう? お肌もスベスベで張りも弾力も……」
「一体どうしたんだ、柊くん。君はそんなことを言うような子ではないはずだ……。そうか、きっと痛みで頭がおかしくなっているんだね。だから心にもないことを言ってしまうんだ。そうだろう?」
痛みで頭がおかしくなっている……。それは確かにそうかもしれない。通常の私なら、大人の前では絶対にそんなことは口に出さない。もっと利口ぶったことしか話さない。
だが、今のセリフは本心だ。「心にもないこと」が口をついて出てしまったのではない。頭がおかしくなったあまり、ついつい本音がこぼれてしまったのである。
そうだ。私はクズな女だ。若さと優れた容姿だけが取り柄のどうしようもない女である。日頃は偽善者ぶってるだけのゴミ。
「私、教授になら養ってもらってもいいかなって思います」
「ああ……本当に申し訳ない、柊くん。君がおかしくなってしまったのは全て私のせいだ。君に痛みを与えてしまったからなんだ……。どうかこの私を許してくれ。そして、早く楽になってくれ。もう君は苦しむべきじゃない。天国へ行くべきなんだ……」
村松は泣いて謝った。どこまでも自身を責め続けるつもりのようだ。
私がおかしくなったのは教授のせいではない。これは元からなんだ。私は最初から狂っているのだ。
ついに本性を見せたまでの話である。
だが、私のクズっぷりを覚醒させた村松の罪は重い。これは責任を取ってもらうしかないようだ。
私の思考はますますおかしくなっていた。
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