十 来店
感想をお待ちしております。
行きつけの喫茶店へやって来た。私はカウンターの席へ案内された。今までここに座わったことは一度もなかった。
カウンターにはマスターである初老の男性が立っていた。彼はいつも穏やかな表情を浮かべている。
「いらっしゃい。今日は何にされますかな」
マスターが注文を聞いてくる。
「ブルーマウンテンでお願いします」
と、私は答える。これがいつも飲んでいるものだった。
「かしこまりました」
コーヒーの準備に取り掛かるマスター。
平日の午前中であるためか、今の店内はとても空いている。私以外の客は後方のテーブル席でおしゃべりをしている四人組の主婦くらいだった。
「なんだ。今日は一人なのか、柊春華」
カウンターの奥から岸和田由希子が出てきた。この店の制服であるエプロン姿だった。どうしてこんな時間からシフトに入っているんだ、この人は……。
「就活はいいんですか?」
「何を言っている。今は何月だ? まだ五月だぞ。慌てるような時間じゃない」
鼻で笑う岸和田。余裕を感じさせる物言いだった。
「五月なら、そろそろ内定をもらっててもおかしくない時期でしょう……」
「ははは。私は大器晩成型なのだよ。それにだな、こんな早い時期に就活を終わらせる義務などない。じっくりと時間をかけて優良な企業を探す。それが私のやり方だ」
ただの言い訳にしか聞こえないのは気のせいだろうか。ただ単に面倒くさいからサボってるんじゃないの?
志を高く持つことは良いことだ。企業選びにこだわることも大切だと言えるだろう。入社できるのは一社だけだ。就職先が今後の人生を左右するかもしれないのだから。
だけど、彼女は現実から逃げているだけなのだ。戦う意志を持つことができないのだ。
嫌なことから逃げているだけ。岸和田はただの臆病者だ。自信家のように振る舞ってはいるが、本当はかなりヘタレな部分もある。去年の学園祭で私を追い詰めきれなかったのも、彼女に覚悟が足りなかったからだと言える。
しかし、私にはそんな岸和田を批難する資格などない。私もまた現実から逃げている。覚悟も度胸も足りていない。
私たちには弱虫という言葉がお似合いだった。
「岸和田先輩はどんな仕事がしたいんですか……?」
「うむ。私の才能が十分に発揮される職業がいいな」
彼女の答えには具体性がなかった。ビジョンというものが見えてこない。
岸和田は現実だけでなく、未来さえも見失っているのだった。
「ならばこの店を継いでくれないかのう、岸和田くん。君なら活躍できると思うのじゃ」
コーヒー豆を焙煎しながらマスターが言った。
「マスター……。ご冗談ですよね?」
苦笑いの岸和田が言った。
「いいや、私は本気で言ったつもりじゃ。今のところ、この喫茶店の後継者はいない。私には娘が一人いるんだが、もうよそ家に嫁いでしまってのう……」
マスターは少し寂しげな顔をしていた。
喫茶店の後継者がいない。それは深刻な問題だ。私もこの店がお気に入りだ。マスターの代で潰れてしまうのは嫌だ。これからもずっと長く続いてほしい。
「私でよければ継がせてください、マスター」
真剣な目をしながら岸和田は言った。
マジですか。あんた本気なのか。
「本当かね! じゃあこれからもよろしく頼むよ、岸和田くん」
「はい、マスター!」
二人は手を取り合った。
こんな軽く決めちゃっていいのか? 本当にいいのか?
「というわけだ。私の就職先が決まったぞ、柊春華」
「よ、よかったですね。おめでとうございます……」
私は頬を引きつらせながら愛想笑いをした。
「あー、これでやっと就活から解放されるなぁー」
アンタ今まで何もしてなかったでしょうが。
この人、やっぱりただ者じゃないな。思考が凡人のそれとかけ離れている。
人生は何があるかわからない。まさかこのような形で内定を得るとは……。
「私がこの喫茶店を世界へ進出させて見せるぞ」
「やる気になってきましたね」
ま、せいぜい頑張ってくださいな。私も楽しみにしているわ。全国チェーンになれば、どこでもこの店のコーヒーが飲めるようになるし。
「いらっしゃいませー」
別の店員が言った。他の客が来店したようだ。
「あ……」
私はその来客を見て声を漏らした。
入ってきたのは山之内翔平だった。彼は神の手下であり、私と契約を結んだ能力者だ。
彼がこの店にやって来るなんて思ってもいなかった。
「おや、柊さんではありませんか。奇遇ですね」
山之内はカウンターへ来て私の右隣の席に座った。どうしてわざわざここに座るのよ。他にも席はあるじゃない。
「マスター、ブルーマウンテンをお願いします」
彼は私と同じコーヒーを注文した。まさか、真似をしたわけじゃないでしょうね? これは偶然よね?
神の手先であるこの男のことだ。私の行動を読んでいる可能性もある。今日このタイミングでこの喫茶店へ現れたのも、私がいることを知っていたからではないのか。
私をからかいに来たのだろうか。魔女に翻弄される私を笑いたいのだろうか。だとしたら、非常に腹立たしいわね。
「君はいつもそれだな、山之内」
岸和田が言う。
「ええ、ここのブルーマウンテンは美味しいですから」
山之内は微笑んだ。
この二人、かなり親しげだな。神の手先どうしで繋がりがあってもおかしくはないが。
会話の様子から山之内がここの常連であることがわかる。ということは、今日ここにやって来たのは私がいるからではないのかもしれない。
そして、彼が私と同じコーヒーを注文したのは彼がそれを好んでいるからだった。どうやら私に合わせることが目的だったわけではなさそうだ。
私も彼もブルーマウンテンが好きだったということだ。コーヒーの味の好みが一緒だったとは……。
「お待たせしました。ブルーマウンテンです」
マスターが私の前にカップを置く。先に注文したのは私だった。だから山之内よりも先にいただくことになった。
「あなたもお好きなんですか? ブルーマウンテン……」
山之内が言う。
「そうよ。だって美味しいもの」
「ですよね」
「お先にいただくわ」
私はテーブルに置かれたツボから角砂糖をピンセットでつまみ上げる。
マスターや山之内の前では、さすがに十個入れる気にはなれない。半分の五個で我慢しておこう。
コーヒーの香りを楽しむ。
いい香りだなぁ。とても落ち着く。
さて、味の方はどうかな……。
私がティーカップに口を付けようとしたその時だった。
「近いうち、あなたは裏切り行為に遭うでしょう。覚悟はしててくださいね」
「え?」
山之内が私にしか聞こえない声で言った。
裏切り行為ですって?
まさか、今のは山之内からの「ヒント」だった……?
また……また降りかかろうととしているのか。
神による災いが……。
お読みいただきありがとうございます。
感想をお待ちしております。