七 恐怖
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三限目の英語の講義が終わった。今日は全く集中できなかった。
今日は火曜日。夕方からバイトが入っている。これから家に帰り、バイト先の本屋へ向かわなければならない。
だが、こんな心理状態で仕事に身が入るのだろうか。私の意識は美波のことに集中している。バイトどころではない。
まわりの人間が美波に関する記憶を失っている。誰も彼女のことを何も覚えていないことが判明したのだった。また、写真からも美波の姿だけが消えていた。まるで最初から彼女が写っていなかったかのように……。
この状況に困惑しているのは私だけだった。他の皆はいつもと変わらない様子で日常を送っている。本当に彼らは美波のことを覚えていないのだと確信させられる。
それにしても、美波はどこへ消えてしまったというのだろう。彼女は今、どこにいるのだろう。誰が何のために、彼女を隠してしまったのだろうか。
これは神の力を持つ能力者の仕業である可能性が高いと思われる。能力者が神の力を使って、美波の存在を消し去り、人々の脳から彼女にまつわる記憶を消去したのだと、私は考えている。
岸和田が学園祭で起こした事件でも似たようなことがあった。彼女は人の行動を操る能力を持っている。学園祭に来ていた人々を操り、私を追い詰めたのだった。
しかし、彼女は私を操ることはできなかった。なぜなら、私もまた神の力を持つ能力者の一人だからだ。
能力者には神の力が作用しない。今回、私が美波の記憶を失っていないのは、そのためだと考えるのが妥当だろう。つまり、人々の脳から記憶を消去する力を持ったその能力者は、私の脳からは美波の記憶を消すことができなかったのだ。
おそらく、能力者である山之内や岸和田も美波の記憶を失っていないはずだ。あの二人なら、美波を覚えているかもしれない。
講義室を出て、キャンパス内の女子トイレに向かった。私は個室に入り、スマホを取り出した。
心を落ち着かせたい。だから、一人になれるトイレが最適なのだ。
深呼吸をする。冷静になろう。岸和田なら……。彼女なら、きっと美波を覚えているはず……。
私は意を決して、岸和田にメールを送ってみた。あまりあの変人とは絡みたくないのだが、今となっては彼女だけが頼りだ。山之内は私にヒントしか与えてくれない約束なので、今朝のメールよりも詳しいことは教えてくれないだろうし。
『突然すみません。一つお伺いしたいことがあります。あなたは大野美波という人間を覚えていますか?』
「送信」の文字をタップする。
岸和田は今、メールを見られる状況だろうか。もしかすると、忙しくしている可能性もある。
四回生の彼女は就活をしなければならない時期だ。今日は大学には来ていないかもしれない。直接会って話がしたいところだが、居場所がわからない限り、メールで質問するしかない。
すると、意外にも彼女からの返信は早く届いた。私がメールを送ってから、ものの数分といったところだ。すぐに返事ができるということは、もしかして今は暇してるな? ちゃんと就活しなさいよ、就活生。
岸和田からのメールは以下の通りだった。
『覚えているぞ。貴様の連れのことだろう? その女がどうかしたのか?』
岸和田は美波のことを覚えている……!
個室の中で、ガッツポーズをする私。
予想通りだった。能力者である岸和田は美波の記憶を失っていなかった。
希望が湧いてきた。美波は私の幻想なんかじゃなかった。彼女は確かに存在していたんだ。
素直に嬉しかった。私は正しかった。美波は本当にいるのだ。
警告のメールを送ってきた山之内は、今のこの事態を把握していることだろう。彼の言う「神隠し」とは、美波が行方不明になることを意味しているとみて間違いない。
これは私に対する神からの「災い」なのだろう。学園祭の事件と同様に、神は手下の能力者に命令して、私を困らせようとしているのだ。
では、肝心の能力者はどこにいるのか。神の指示を受けて、美波の存在を消した人物を特定する必要がある。その者を説得して、美波を返してもらおう。今すぐこんなことはやめさせないと。
私は岸和田に、『なんでもありません。答えていただき、ありがとうございました』と返信しておいた。
美波は能力者によって消された。それがわかっただけで、私は一歩前に進んだ気がした。
絶対に彼女を取り戻す。私たちは二人で一つなのだ。失ったままでいるわけにはいかない。大切な友人を魔の手から取り戻して見せる。
今夜のバイトも頑張れそうな気がしてきた。なぜだかわからないけど、美波はもうすぐ私の元へ帰ってきてくれるような気がするのだ。
私には根拠のない自信があった。美波を取り返せそうな予感がしている。
だって、二度の死を乗り越えて現世に戻ってきたこの私に、不可能なんてないはずだから……。
この絶望的な状況に、わずかな希望の光が差し込んできた。
私はドアを開け、個室から出ることにした。
今はとにかく進もう。希望は前に進むんだ!
ゴポゴポ……。
「な、何……?!」
私は後ろを振り返った。
突然、さっきまで私が入っていた個室から奇妙な音がした。
何だろうと思い、もう一度個室の中に入る。洋式トイレの蓋が閉まっており、この中から音がしているのがわかった。
自動で水が流れるタイプのものなのかしら。でもこのトイレ、そんなに新しくもない設備だし……。
ガタガタガタガタ……!
「ひっ!」
今度は蓋が音を立てながら震え出した。
蓋の下で何かが起こっている……?
不気味だ。気持ちが悪い。
便器の蓋を開けて中を確認したいという気持ちよりも、恐怖の方が勝っていた。だから私は、この個室から逃げ出すことに決めた。
「あれ? あ、開かない!」
ところが、ドアが全く開かないのである。鍵をかけたわけでもないのに。
ガチャガチャとドアノブを捻るものの、扉が動く気配はなかった。
おかしい。このドア壊れてるんじゃないの?
私は繰り返しドアノブを捻った。扉を押したり引いたりもした。しかし、それでも扉は開かない。
マズい、完全に閉じ込められてしまった。
こうなったら、壁をよじ登って上から出るしかないか……。でもどうやって登ろう? 便器を踏み台にしたいものだが……。
便器の中からは変わらず奇妙な音が鳴り続いている。あれを踏み台にはしたくなかった。
ガタガタガタガタ!
何かが出てこようとしている。この便器の中に、何かがいる。
「誰か! 誰かいませんか! 開けてください!」
私は叫んだ。助けを求めた。
恐怖が襲いかかる。
閉鎖された空間から抜け出せない恐怖。背後に迫る謎の影。
ガンガンガン! と中からドアを叩く私。しかし、誰も気づいてくれない。
誰か来て……。ここから出して……。
便器が音を立てている。蓋が開こうとしている。
まさか……。ついに便器の中にいる何かが、正体を現そうとしている……?
「誰か! 誰か助けて! 誰かぁ!」
私は泣きながら叫んだ。
もう、どうして開かないのよ! なんでこのドア、びくともしないのよ!
そして、恐怖はさらに加速した。
ギィイイイイ……。
ゆっくりと、便器の蓋が上がっていく。
蓋を押し上げるようにして、中から黒い手が出てくるのだった。
何これ……。何よこれ……。
黒い手はニュルッ、ニュルッと私の方へ向かって伸びてくる。
「いやあああああああ! やめてぇ! 来ないでぇ!」
ぬちゃ……。
手は私の右足首を掴んだ。
水に濡れたような手だった。きわめて気持ち悪い。
「は、離して!」
私は便器の方へ引きずられる。ドアノブにしがみつき、必死に抵抗する。
すると、黒い手はさらにもう一本、便器の中から出てきたのだった。
その手は私の左腕を掴んだ。
まだ手は出てくる。たくさん出てくる。
私は頭や首、太ももなどを掴まれ、完全に抵抗できなくなってしまった。
そしてそのまま、便器の中へと引きずり込まれていったのだった。
やがて、個室の中には誰もいなくなった。
日当りが悪くて薄暗い昼下がりの女子トイレは、再び沈黙を取り戻した。
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