三 取引
桃としばらく喫茶店でお喋りをした。学園祭だけでなく、講義の内容についても話し合った。
私と彼女はミクロ経済学の講義に出席しており、今となっては隣同士の席に座って講義を受けている。まわりの人間からは、私たちは仲良しコンビとして見られていることだろう。
だが、これがまた面倒くさいことになってしまった。
桃は講義中、私の手を握ってきたり太ももを触ったりしてくるのだった。何がしたいのかはわからないが、とにかく鬱陶しいので、私は触られる度に彼女の頬をギュッとつねっている。すると彼女は「イタタタ!」と小さく声を上げるのだが、まわりの迷惑になるのですぐにつねるのをやめる。
あまり講義中にふざけたことはしたくない。あくまで私は真面目な優等生なのだから。
桃が構ってくるせいで講義の内容が頭に入らなくなる。このままでは成績が落ちてしまいかねない。そのような事態は絶対に避けねばならない。
だから私は、ここでガツンと桃に言っておくことにした。
「いい? 講義の間は大人しくしてて。あちこち触ってこないでちょうだい。勉強に集中したいの」
私は強く訴えた。それは切実な願いだった。この子のせいで成績を悪化させるわけにはいかないのだ。
「うん、わかったよ。もう春ちゃんの勉強の邪魔はしない」
すると、桃は意外にも素直に従う意向を示した。
なんだ、話せばわかってくれるじゃないか。これが友達というものよね。どうやら彼女は私の成績維持に協力してくれるようだ。
私は嬉しい気持ちになった。やはり持つべきものは理解ある友人だ。
「ありがとう。助かるわ」
「ううん、当然だよ。これからはちゃんと講義中は大人しくしてるね」
「桃……」
「講義が終わった後にイチャイチャすればいいもんね!」
いや、その理屈はおかしい。
違う。そうじゃない。誰もいちゃついてもいいとは言っていない。私にちょっかいを出してはならないのは、何も講義中に限った話ではない。私は講義の間は大人しくしてろと言っただけだ。それ以外の時間でも不愉快な言動は慎んでほしいのだけれど?
「今は放課後……。ということは、二人のラブを育む時間だね! 春ちゃん、桃とチューしよ!」
「アホなの?」
ああ、やっぱり桃は桃だった。
チューとかふざけてるのか? 誰がコイツにファーストキスを捧げるものか。
「イエス! ならば私とチューしようじゃないか、桃たん!」
どこからともなく岸和田由希子が現れた。
え? 何でここにこの人がいるの? というか、いつの間に?
「今日シフト入ってたんだね、ゆっこ」
桃が言った。
「そうなんだよ。でもまさか、桃たんがここに来てくれるとは思ってなかったなぁ~。そんなに私に会いたかったのかなっ?」
嬉しそうな顔をする岸和田。
「ううん。今日は春ちゃんとお茶しに来ただけだよ」
「チッ! また貴様か、姫柊春菜!」
岸和田は私をキッと睨んだ。
「柊春華です」
何ですかそのストラ〇ク・ザ・ブラッドのヒロインみたいな名前は。いい加減私の本名を覚えてください。
彼女はウエイトレスの格好をしている。シフトがどうとか聞こえたので、どうやら岸和田はこの喫茶店の従業員であるようだ。
彼女は黒いロングスカートのワンピースを着ており、その上には白いエプロンを身につけている。その姿はメイド喫茶にいるメイドさんを連想させる。
だが、メイドさんのトレードマークであるカチューシャは付けていなかった。一般的なメイドのコスプレとは少し趣が異なる。
それにしても、彼女はこの店の制服がとても似合っていた。さすがは私に劣らないレベルの美人女子大生だ。
私がその恰好をしてこの店で働けば、とても繁盛することだろう。たくさんの客でにぎわうことになるだろう。主に男性客が殺到するはずだ。やがて全国に名を知られる有名喫茶店へと成長してゆくに違いない。
それなのに、ただちにこの私をスカウトしないこの店の経営者は無能の極みである。こうやって二流経営者はビジネスチャンスを次々と逃してくのだ。
「どうぞお客様。これは私からのサービスだ」
岸和田はテーブルにシフォンケーキを置いた。しかも二人分。なんと私の分まで用意してくれたのだ。
それは抹茶風味のスポンジに白いクリームが塗られたケーキだった。
「いいんですか? 私まで……」
「ふ、遠慮するな」
結構いい人じゃないか。彼女には桃の件ですっかり敵視されてしまっているが、案外気の利くところもあるようだ。
コーヒーだけじゃ物寂しいと思っていたところだ。これはありがたい。
「これを食べたら桃から手を引け……。いいな……?」
岸和田は私の耳元でボソッと低い声で呟いた。
なるほど、このケーキは交渉材料というわけか。この人やっぱり黒いよ。
「わぁ、美味しそう!」
桃は感嘆の声を上げていた。
「桃たんのために私が焼いたんだ。ささ、早く食べて食べて!」
腰をくねくねとさせる岸和田由希子。私と桃とでは接する態度が全然違う。声のトーンに差があり過ぎる。
「いただきまーす!」
「い、いただきます……」
私と桃はケーキを一口食べた。
口の中に抹茶の香りが広がる。そして、それがクリームのほのかな甘さと混ざり合う。
こ、これは……!
「美味しい……」
私は無意識のうちに言葉を漏らした。
「うん、いいね! 桃、抹茶大好きなの!」
桃にも好評だった。
美人なうえにケーキ作りまで上手だなんて……。
悔しいけど、これはただ褒めるしかなかった。
こんなに美味しいケーキをタダで食べさせてくれるなんて、岸和田先輩ってやっぱりいい人なんだわ。
「あー、そうそう。柊、貴様に頼みがあるのだ」
岸和田が言った。
「頼み事? 私にですか……?」
何だろう……。
「うん、それがね……。今度の学園祭、私は三日間ずっとバイトで忙しいのだ」
それさっき桃から聞いたな。私は本当に羨ましいよ、アンタが。
「それが何か……?」
「いやぁ、ホントは私も行きたかったんだけどね? だけど、どうしても都合が合わなくて……。学園祭三日目に知人がステージで漫才を披露することになっているのだが、私は彼からそれを見に来てほしいと言われたのだ。漫才の感想とアドバイスをくれと頼まれているのだよ」
「漫才のアドバイスですか? どうしてまたそんなことを……」
わざわざこの岸和田という女にアドバイスを求める漫才師は、一体どういうつもりなのだろうか。
「ゆっこは何でもできちゃうスゴイ人なんだよ! デキる女なんだよ! だから漫才のアドバイスもできちゃうの!」
と、桃が言った。
「お、大袈裟だなぁ桃たんは……」
デレデレと照れる岸和田。頬が緩んでいる。
「ゆっこに頼る人は多いよ。お料理とか、お裁縫とか。あと、お勉強も」
「そうなんだ……」
私は何とも言えない気分になった。
この人は本当にすごい人だった。美人で何でもできるスーパーウーマンだったのだ。
「まぁこんな感じで、色んな人から色んなことで頼られていることは、我ながら自覚してるいるが……」
彼女は他人から信頼や尊敬を得ている人物だったようだ。
これじゃあ、ますます気に入らない。美人で有能とか、天は二物を与えないんじゃなかったの?
「で、漫才が何でしたっけ……?」
「そうそう。そこでお願いがあるのだ。どうか私の代わりに漫才を見てきてくれないか? ビデオカメラも渡しておくから、漫才の様子をしっかり記録してきてほしいのだ」
「他に頼む人いないんですか?」
「うむ。いない」
即答だなぁ。
「こういうことを頼めるのは、もう貴様しかいないのだ」
岸和田は真剣な面持ちになった。
「な、なぜ私だけなんですか?」
「そんなの決まっているだろう……」
岸和田由希子は言葉を詰まらせた。
俯いたまま、一瞬黙り込んだ。
そして、こう言った。
「私には友達がいないからだ!」
衝撃のカミングアウト、いただきました……。
え? そうだったの?
友達、いないの……?
あんたは私なのか? 私なのか?
「でも、色んな人から慕われてるって……」
「ああ。だが、その中に友達と呼べるような存在は一人もいないのだ。みんな私とは『顔見知り』程度の関係なのだ」
岸和田は冷静な顔で呟いた。
有能美人女子大生、岸和田由希子。完全無欠のスーパーウーマンといえる彼女にも、唯一欠点があったのだった。
そう、彼女は正真正銘のぼっちなのである。
「貴様はそのケーキをすでに口にしている。これはつまり、どういうことかわかるな?」
岸和田は悪そうな顔をした。
「ええ、わかります。詐欺ですね」
「詐欺じゃないもん! ケーキの味はホンモノだもん!」
頬を膨らます岸和田。ぷくっとしている。
何気に可愛い怒り方だから反応に困るんですが……。アンタがそんな顔したら、むしろ気持ち悪いです。
「これは取引だ。ケーキを食べた以上、貴様には私の代わりに漫才を見に行く義務がある」
「はぁ……。わかりました。行ってビデオ録ってくればいいんですね?」
私は諦めた。折れることにした。
「ふむ。貴様が話のわかる奴で助かるのだ」
岸和田は満足した様子だった。
「わぁい! じゃあ三日目も春ちゃんと学園祭回れるんだね!」
桃が私の両手を握りながらはしゃいだ。ブンブンと私の手を上下に振る。
参ったなぁ……。三日目は家でゆっくりネットでもしたかったのに。
こうして、私は学園祭三日目も顔を出すことになった。