十五 未練
「身体をくれってどういうこと?」
焦る。いきなりそんなこと言われたら焦る。
まさか、私とそういう関係になりたいってこと……?
「そのままの意味です。私は春華さんの身体が欲しいです。これからは私が、春華さんとして生きていきたいのです」
「ますます言ってる意味がわからなくなったわ。美波が私として生きるですって? そんなこと、どうすればできるっていうのよ」
美波は顔色一つ変えようとしない。この状況で平気な顔をしていられる神経がわからない。次元のぶっ飛んだ話をされているような気がする。
「このお墓を見てください。ここに私の名前があります」
そんなまさかと思いつつ、私は墓標に目をやった。
なんと、そのまさかだった。
「ほ、本当だわ……。どうして美波の名前が?」
墓標には『大野美波』とはっきり刻まれていた。彼女だけでなく、他の人の名前も刻まれているのがわかる。苗字は皆『大野』となっているので、これが大野家のお墓であることは間違いない。ところが、どうして存命中の人物の名前まで含まれているのか。
「実は私、この世の存在ではないんです。もう十年近く前に死んでるんです」
「はい……? ふざけるのもいい加減にしてよ、美波。あなたがもう死んでるって、そんなわけないじゃない。さっきからどうしたの? 笑えない冗談ばっかり言ってさぁ……」
無意識のうちに私の脚は震えていた。背筋を汗が流れていくのを感じる。頬が引きつる。
もうやめてほしい。これ以上私をからかわないでほしい。
死人が目の前でこうやってペラペラと話すわけがない。だいたい幽霊なんているわけがない。そんな非科学的な存在、私は認めない。認めたくない。
悪趣味なジョークだ。あいにく私にはホラーやオカルトの趣味はない。やるならよそでやってほしい。
「冗談ではありません。本当のことなんです。どうか信じてください。十年前の今日、私は家族もろとも殺されてしまったのです。一人の男によって……」
美波は目に涙を浮かべていた。これが演技だとすれば、彼女は一刻も早く女優を目指すべきだろう。
だが、やがてその涙は瞳からこぼれ落ちていくのであった。抑えることができず、ただただあふれ出していく。もはやこれを偽りの涙と呼べるだろうか。
どうにも彼女は全て本当のことを言っているように見える。ひょっとすると、私が騙されているだけの可能性もある。が、しかし。今は一旦、彼女の話が真実であると仮定して話を合わせることにしよう。このまま泣かれ続けても困るからだ。
とんでもないことになってきた。美波の正体が幽霊だなんて信じられない。
私は深呼吸をして気を落ち着かせようとした。だが、そう簡単に落ち着くはずもなかった。心臓の鼓動は速くなったままだ。
「ねぇ、美波。もう一度最初から今日私をここに連れてきた理由を説明してくれない? あと、どうして私の身体をあなたが必要としているのかということも」
私は美波に事情の説明を求めた。頭の中を整理したい。まだ話が全く呑み込めていない。
「はい……。信じていただけるんですね?」
「ええ。信じることにするわ。だから正直に話してほしい。ちゃんと私が理解して納得できるようにね」
滅茶苦茶なことばかり言われても、私の理解力が追いつかない。それでは話にならないのだ。じっくり丁寧に話してもらいたい。
美波は口を開く。
「さっき言ったように、私は十年前の殺人事件で命を落としました。私の家族も一緒に殺されました。刃物を持った男に刺されたのです」
一家まるごと殺された十年前の事件……。
そうだ。確かにそんな事件があった気がする。
「まだ犯人は捕まってないんだっけ?」
「はい。今もまだ……」
未練、怨念、後悔。
美波からはさまざまな感情があふれ出していた。自分を殺した犯人が、まだ裁きを受けていないことに憤りを感じているみたいだ。
人生を他人の手によって終わらされる。それは私も絶対に許せない。誰にも人の命を奪う権利などないというのに。
「それで、私は何の関係があるの? どうして美波は私にこんな話をするの?」
別に私じゃなくてもいいはずだ。優秀な刑事さんにでも話せばいい。ひょっとしたら、犯人確保に繋がるかもしれない。
「ずっと探していたんです。私を見つけてくれる人を。私に気付いてくれる存在を……。それが春華さんだったんです。火曜日に駅のホームで私は初めて生きている人との交信に成功しました。春華さんは私の声を拾ってくれました」
そんな馬鹿な……。
「じゃあ、美波のことが見えているのは私だけってことなの……?」
「そういうことになりますね。今まで誰も私と目を合わせることすらしませんでしたから」
ということは、電車の中で美波と会話をしていた時、まわりの人間には私が独り言を喋っているように見えていたのか。だからあんなにジロジロと変な目で見られていたわけだ。
ああ、恥ずかしい。もうあの車両には乗れない。今度から車両を変えるしかない。
「でも、どうして私にだけ見えているのかしら? 別に私は霊感とか強いわけでもないし……。幽霊自体信じてないのに」
霊感が強い人なんてもっと他にたくさんいるだろう。
「共鳴したからだと思います。春華さんから放たれる波長と私の波長が一致したのです。これはラジオと似ていると思います。ラジオの電波は世の中に向けて発信されていますが、周波数を合わさなければ放送を聴くことはできません。それと同じで、春華さんは私の波長をキャッチしてくれたんです」
私には波長というものがよくわからない。私は意図的に美波と波長を合わせようとしたわけではない。波長の合わせ方など知らない。
これは偶然の結果というべきだろう。波長なんて考えたこともなかった。
「まぁいいわ。で、私をここに連れてきたのは何故かしら?」
「私の本当のことを知っていただくためです。お墓を見せれば、事件のことも信じてもらえるかなと考えました」
「そう……。まぁ、とりあえず信じるわ。で、知ってもらってどうする気なの? 犯人を捕まえろってことかしら?」
犯人像について様々な憶測が世間で飛び交っていたが、現時点では性別が男であるということしか判明していない。しかもそれは被害者本人である美波の証言だ。
「私ならできます。犯人を捕まえてみせます。でもそのためには、春華さんの身体が必要なんです。身体がなければ、警察を呼ぶことも犯人を捕らえることもできませんから」
美波には実体がない。彼女は肉体を持たない。だから私の身体を乗っ取り、捜査を進めるとでもいうのか?
「私が身体を譲るわけないでしょう。私は私として生きている。誰にも私の代わりはできない。私として生きることができるのは、この私だけだから」
一体自分は何者なのか。そんな疑問がふと脳裏に浮かぶことがある。その答えはまだ見つかっていない。だが、私が私であるということは事実だ。この事実を捻じ曲げることは誰にもできない。誰にもさせない。
「ですよね……。譲っていただけるわけないですよね。そんなことくらい、最初からわかってましたけど」
切ない笑みを浮かべる美波。
少しは期待していたのだろう。もしかすると、私が「イエス」と言うかもしれないと。
だが、それはできない相談だ。私は自分を誰にも差し出す気はない
「悲しいなぁ、悔しいなぁ……。私も女子大生になりたかったなぁ。憧れのキャンパスライフが待っているはずだったのになぁ。受験を乗り越えれば、華やかな生活が始まると思っていたのになぁ。どうして私は、あんなところで死んじゃったのかなぁ」
美波は涙目で声が震えている。怒りと悲しみと、呪いを込めた言葉だった。
「綺麗で華やかな女子大生として生きる春華さんが羨ましいです。私はずっと憧れていました。初めて春華さんを見かけた時から、ずっと……。最初は憧れの気持ちだけでした。ですが、だんだん『好き』という想いが強くなり、それは愛へと変わっていったのです。とても愛しくて、一つになりたい存在。春華さんのような人になるのではなく、春華さん自身になってしまいたい。そう思うようになってしまいました。愛って、死んじゃった人間の心まで狂わせることもあるんですね……」
愛、か……。
それは今の私に足りていないものだった。私には他者への愛が足りていない。私は自分ばかりを愛している。自分が可愛くて仕方がなかった。
それがいつの間にか、他人を愛で狂わせてしまっていた。美波がこうなってしまったのは私のせいでもある。そして、彼女の気持ちを理解してあげられるのは私しかいない。
こうなれば仕方がない。私には罪がある。美波を狂わせ、悲しませた罪が。
だから私はその罪滅ぼしとして、彼女を「救済」してみせる。
「美波」
「はい……」
「あなたは成仏するべきだわ。いつまでもこの世にいてはいけない」
「ですけど……」
「ええ、わかってる。もちろん今のままじゃ成仏なんてできないでしょうね。だったら私が手伝ってあげる」
私は微笑みながら言った。
「手伝うって……成仏を、ですか?」
「そうよ。私があなたを殺した犯人を牢獄……いいえ、死刑台に送って見せるわ。そうすれば、成仏してくれるかしら?」
犯人に裁きを受けさせる。それが私にできる最大の弔いだと思う。憧れの女子大生になることができなかった美波の未練が晴れることはないかもしれない。だけど、そろそろ美波はケジメをつけるべきだ。
私は十年の呪縛から美波を解放してみせる。彼女の魂を死の世界へ送り届ける。
「そんなこと、できるんですか……?」
「やってみなければわからないわね」
確証はない。未来は見えないものだ。だから私が成功できるかはわからない。それでも、何もしないよりは、ずっと成功の可能性は高いと思う。
困ってるときは助ける。それが友達ってものでしょ。