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四 失踪

感想をお待ちしております。

 かき氷を完食した桃は約束通りテスト勉強を始める。教科書とノートをテーブルの上に広げ、シャープペンシルを手に取った。


 とりあえず勉強する態勢に入ったものの、何から手をつければいいのか見当がつかないらしい。頭を抱えて「うーん」と唸り声を上げている。


「どこがわからないのか、それすらもわからないようね」

「えへっ。そうかも」


 これは勉強ができない人あるあるだ。


「仕方ないわね。じゃあ、今からテストに出そうな箇所を説明していくから真面目に聞きなさい。いいわね?」

「はーい」


 講義中の桃はノートに落書きをしたり、ウトウト居眠りするなど、全然集中できていなかった。後で私に聞けば何とかなると思っているからだろう。でも、それではいけない。甘やかしてしまう私も悪いのだが、どうか彼女が自分から意識を改めてくれることを願う。


 私は自分がまとめたノートを見せながら、これまでの講義の内容をざっくりと説明した。こうやって誰かに教えていると、自分にとってもいい復習になるので一石二鳥である。


「……という感じかしら。ここまで大丈夫? 何か質問はある?」

「ないよ。春ちゃんの解説、すごくわかりやすいもん」

「そう。ありがとう。じゃあ、『パレート最適』について簡単に説明してみて」

「えーっと、何だっけ? パレード? お祭りかな?」


 ダメだこりゃ。まぁ、たった一度切りの説明で理解しきれないのは仕方ないか。


「絶対的貧困と相対的貧困の違いは?」

「すごく貧乏な人とちょっとだけ貧乏な人……?」

「うん。もう一回説明した方がいいみたいね」


 これはかなり苦労しそうだ。長い戦いになることを覚悟しておこう。


 偏差値が低い落ちこぼれの生徒を難関大学へ合格させた塾講師の有名なエピソードを思い出した。もし桃が無事に単位を取ることができたら、メディアは是非ともこの私を取り上げてほしいものだ。私と桃の奮闘記がノンフィクション映画として全国上映されるのも悪くない。


「ごめん、その前にちょっとトイレ」


 そう言ってそそくさと席を立つ桃。

 このタイミングで? 怪しい。


「……逃げちゃダメよ?」

「に、逃げないよぉ。すぐ戻ってくるからぁ」


 ちゃんと帰ってくるとは思うが、念のため牽制しておく。


「桃たん、トイレかい? 私が手伝ってあげようか?」

「ううん、大丈夫。ゆっこは仕事してていいよ」

「まだいたんですか。あなたは早く仕事に戻ってください」

「うるさいぞ、ヒララギ。貴様は大人しく下剤入りコーヒーを飲んでいればいいのだ」


 本当に入っていたりしないわよね?

 もう半分くらい飲んでしまった。この人のことだから、本気でやりかねないから困る。

 あと、いい加減に私の名前を覚えてほしい。


 私はため息を吐き、それからスマホの画面を見た。

 そろそろ四限目が終わる時間だ。美波たちもここへ呼ぼうかしら。


 皆で話し合って夏休みの予定を決めないといけない。ということなので、今日の勉強会はここまでのようだ。


 桃は上手く逃げ切ったわね。でも明日はそうはいかないから。空きコマの時間にみっちり勉強させるつもりだ。


 講義が終わったら喫茶店まで来るよう、メッセージアプリで仲良しメンバーのグループトークに連絡を入れる。


 グループに参加しているのは私と桃、それから美波、城田さん、林さん、アンネリーゼの6人だ。


 アンネリーゼは魔法を使って遠くにいる人と会話することができるため、スマホを持っていなくても特段困ることはない。が、人間の技術が凝縮された「オブジェクト」自体に興味があるということなので、最近になってわざわざスマホを購入したのであった。


 今の時代だと、携帯電話を持っていない若者は極めて珍しい。「普通の留学生」を演じるためにはスマホを持っていた方が都合はいいのかもしれない。


「……遅いわね、桃」


 すぐ戻ると言っていたが、あれからもう五分くらい経過している。


 急に具合が悪くなって動けなくなっているのかもしれない。ボリューム満点のかき氷を一人で全部食べたのだ。お腹を壊しても不思議ではない。


 彼女の様子を伺うため、私もトイレに向かうことにした。


「待て。どこへ行く気だ? 食い逃げは許さないぞ」

「桃がトイレから戻ってこないので、ちょっと見に行くだけです」

「ならば私が代わりに見てくる。貴様はそこを離れるな」


 私、そんなに信用されてないの? 食い逃げなんてするわけないでしょうに。


「今行くぞ。桃たん!」


 謎の使命感に駆られた岸和田先輩は急ぎ足で桃のところへ向かった。

 何もなければいいのだけれど……。


「大変だ! 桃たんの姿が見当たらないぞ!」

「ええっ?!」


 岸和田先輩が血相を変えて戻ってきた。


 噓でしょ? 桃ってば、本当に逃げ出しちゃったの?


 トイレの出入り口はレジ横にあるドアの一つだけだ。さっき、桃は確かにこの扉を開けて中に入っていった。しかし、彼女がそこから出ていく姿を私も岸和田先輩も見ていない。


 考えられるのは、トイレの窓から逃げたパターンである。そこまでするのか、と言いたくなるものだが、よっぽど勉強が嫌なのだとすれば、あり得なくもない。小柄な体格の桃ならば、窓をくぐり抜けるなどして外へ出ることも不可能ではないはずだ。


 にわかに信じがたい事態が起こっている。私もレジ横のドアを開けて中へ入ってみると、そこにはもう一つドアがあり、この奥に男女兼用の和式トイレが設置されていた。


 トイレの中はもぬけの殻だった。壁の上部には換気用の小さな窓があるのだが、外側が鉄格子に覆われているため、いくらスリムな人間でもここを抜けて外へ出るのは不可能だといえる。たとえ身体を鉄格子の隙間にねじ込むことができたとしても、最後に頭の部分が引っかかるだろう。


「ああ、桃たん! どこへ消えてしまったのだ!」

「このお店って、一般客の知らない『隠し扉』でもあったりするんですか?」

「はぁ? そんなものあるわけないだろう。頭大丈夫か?」


 アンタにだけは言われたくない。

 もしかしたら、という話をダメ元で尋ねてみただけだ。別に私は変な妄想を膨らませて事件の謎を楽しんでいるわけじゃない。


「トイレからの出口はこの扉だけだ。それ以外は考えられない」


 岸和田先輩は冗談ではなく真剣な口振りでそう言った。

 やはりここを通らずに脱出するのは不可能であるらしい。


 それはそうと、こんな状況で逃げ出しても意味はないと思うのだが。桃は席に荷物を置いたままなのだ。財布もスマホも残されている。何も持たずに姿をくらませても、逃亡生活は長続きしないだろう。


「そのうち戻ってくるでしょう。もうしばらく待ちます」

「う、うむ……。今、この店に他の客はいない。誰かがトイレで待ち伏せしていたとも考えにくい。事件に巻き込まれた可能性は低いだろう」


 もしかすると、かくれんぼでもしているのかもしれない。きっと退屈凌ぎのために私をからかって遊んでいるのだ。ここは挑発には乗らず、気長に待つことにしよう。


 しかし、その後も桃が戻ってくることはなかった。講義を終えた美波たちが喫茶店に着いた頃になっても、桃の行方はわからないままだった。


お読みいただきありがとうございます。

感想をお待ちしております。

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