十九 運命
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学校から徒歩五分の距離にある公園へ向かう私と理央。その道中、再び雲行きが怪しくなってきた。
とても変わりやすい天気である。日が差したかと思ったら、またすぐに灰色の雲が空全体を覆うのだった。
それから間もなくして、ザッと雨が降り始める。
「うわっ。今日の天気、どうなってるの?」
理央が呆れ顔で言う。
私たちは手に持っていた傘を急いで差した。
「もう困っちゃうよね。早く梅雨明けしないかなぁ」
梅雨明けはもうしばらく先になると思われる。この地方では毎年、七月中旬頃に梅雨明けが発表される傾向にあるため、あと二週間程度はかかるだろう。
今から二週間も経てば、理央はもう死んでいるはずだ。よって、彼女が梅雨明け後の夏空を見ることはないだろう。
交差点に差し掛かる。ちょうど赤信号だったので、私たちは横断歩道の前で立ち止まった。
「今年も夏休みにプール行こうね。他の友達も誘ってさ。でも、その前に水着を買わなきゃ。今度一緒に選びに行こうよ」
夏の計画を話す理央。まだまだこれから、楽しいことが待っている。彼女はそう信じて疑わないのだった。
訪れることのない未来について語る姿ほど哀れなものはない。彼女が今思い描いていることはすべて実現しないのだ。もはや考えるだけ無駄である。しかし、私は彼女にその事実を伝えることはできない。
彼女はこのまま何も知らずに最期の時を迎える。だが、それでいい。今からそれを知ったところで運命は変えられない。どうすることもできない。ただ絶望するだけだ。
あと少しで吉原理央は死亡する。それが彼女を待ち受ける運命なのだ。しかし、私は死神である。死神の力を使えば、彼女を延命させることも不可能ではない。
これから理央の身に何が起こるかは知らない。だが、もし私が手を加えて、それが上手く行けば彼女の死を回避することができるかもしれない。
――馬鹿か。何を考えているんだ私は。
ここで我に返った。死にゆく人間の運命を変えてはならないと、チコ様にあれほど強く言われていたではないか。
運命を変えてしまったら、処分はさらに重くなる。出世ルートを完全に外れ、今度こそ私のキャリアは台無しになることだろう。
今はまだ挽回のチャンスが残されている。十年前の失敗を帳消しにするような活躍をすれば、再び這い上がることもできる。
たった一人の人間のために自分の将来を失うわけにはいかない。こんなことで血迷ってはならない。
理央には悪いが、彼女にはこのまま死んでもらう。
私は俯きながら足元の水溜まりを眺めていた。すると、今にも泣き出しそうな顔をしている自分の顔が水面に映っているのが見えた。
ギョッと驚いた私は、自分の目を疑い始めた。
これは本当に私の顔なのか? 私はどうして、そんな表情を浮かべている?
これではまるで、悲しみを堪えているみたいではないか。
込み上げる感情を押し殺し、もう一度水溜まりを覗き込む。
きっと私は元の顔に戻っているはずだ……。
「秋乃ちゃん! 危ない!」
ここで突然、理央が叫んだ。
視線を上げた瞬間、私は背中を押されるのを感じた。
不意に強い力をぶつけられ、フラッと体のバランスを崩す。だが、転倒することなく足に力を入れて踏みとどまった。
後ろを振り返ると、私の瞳は一台の乗用車が理央に突っ込む瞬間を捉えた。
ドン、という音と共に理央の身体は吹き飛ばされ、宙を舞う。それと同時に彼女の傘も高く舞い上がる。
一回転、二回転してから、彼女は頭から地面に叩きつけられるのだった。
車は停止することなく、そのまま理央の身体に乗り上げる。
彼女は車体の下敷きとなった。
胸の辺りをタイヤに圧迫された理央。ピクリともせず、助けを求める声すら出さない。
その代わり、彼女の体からは赤黒い液体が次々と溢れ出すのであった。それは川のように流れてゆき、私がさっきまで眺めていた水溜まりにたどり着くと、たちまち血の池を作り出した。
彼女のセーラー服は赤く染まっていた。また、私のローファーシューズは血混じりの雨水をたっぷりと吸い込んでいる。私はグジュグジュと靴下が濡れる感触を覚えた。
これが理央の最期であるらしい。
実にあっけない終わり方だった。
一瞬の惨劇に言葉を失った私は、呆然とその場に立ち尽くした。
雨脚がさらに強くなる。地面を流れる水には依然として血が混じっており、赤い池はどんどん大きく広がっていく。
「あーらあらあら。見覚えのある顔だと思ったらユーリアじゃない」
頭上から死神がフワリと下りてきた。
彼女は私の同期だった。名はエリス。現在エリスはこの地区で死亡した人間の魂の回収を担当している。
「聞いたわよぉ。アンタ、また何かやらかしたんですってねぇ。それで、罰として人間のフリをしながら人間界で暮らすことになったとか。……ぷくく! 変なお仕置きね。もしかして、その恰好は人間の物真似ってところかしら。うん、超似合ってる。アハハ!」
三日月のような目で私を見ながら彼女は嘲笑った。
かつて自分の部下だった女に見下されるのは耐え難い屈辱である。
「今日のターゲットはこの子。吉原理央、十四歳。雨でスリップした自動車に轢かれて死亡」
死亡予定者リストを見ながら、エリスは呟いた。
その直後、理央の魂が肉体からスッと抜け出した。エリスは空気中をフラフラと彷徨う理央の魂をサッと右手で掴み取ると、そのままケージの中へ格納するのだった。
「はい、捕まえた♪」
ああ、理央が連れて行かれてしまう。このまま冥府へ行ってしまう。
今すぐ彼女の魂を力ずくで奪い返さなければ……。
いや、無理だ。私は武器を持っていない。返り討ちにされるだけだ。
それに、他の死神の任務を妨害すれば私の評価はもっと悪くなる。
「回収完了。じゃあね、ユーリア。バイバーイ」
任務を済ませると、エリスは天に向かってゆっくりと飛び立つのであった。
悔しいことに、私はそれをただ見上げることしかできなかった。
気づくと私の周りには人だかりができていた。また、遠くからはサイレンの音が聞こえてくる。きっと誰かが救急車を呼んだのだろう。これから理央を病院へ運ぶつもりのようだが、今さら遅い。もう彼女は死んだ。
事故が起こると大きな騒ぎになるものだ。あちこちから野次馬たちがやって来て、彼らは変り果てた理央の姿を見ながら「これは酷い」「大変だ」「マジかよ」などと各々の感想を自由に述べている。
「君、怪我してないか? この子のお友達かい?」
誰かが私に言った。大人の男の声だった。彼も野次馬の一人だろう。
私はその人物の顔を見ずに「はい。そうです」と力なく答えるのであった。
結局、理央を救うことはできなかった。死の運命を変えることは不可能であった。
彼女は私を庇って死んだ。あの時、私が避けなければ彼女を暴走車から守ることができたかもしれない。私の腕力ならば、あの車の動きを食い止めることができたはずだ。
だが、もうすべて過ぎてしまったことだ。終わった後で何を言っても意味はない。
理央は死んだ。その事実だけが残る。
私は泣いていた。涙が止まることなく流れ続けている。いや、これは涙ではなく雨が頬を伝っているだけかもしれない。きっとそうだ。私は泣いてなどいない。
「これも運命なのです。だから、あなたが気に病む必要はないのですよ」
いつの間にか私の隣にはチコ様が立っていた。
彼女は傘を差し、その中に私を入れる。
傘が雨を遮っているはずなのに、私の頬には雫がまだ流れている。
「気にしていません」
今の私はそう答えるだけで精一杯だった。
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