九 自己
キーホルダーをくれた男子学生の名を尋ね忘れてしまった。来週の講義でまた会えると思うので、その時に聞こうと思う。だがしかし、自分から話しかけるのは少しためらってしまうものだ。
他人から話しかけられた時はまだ大丈夫なのだが、誰かに自ら話しかけるとなると、まず何と言って声をかければいいのかわからないものだ。これはコミュ障の辛い所である。
どうか彼の方から声をかけてきてくれないだろうかと、私は他力本願なことを考え始めていた。
本日全ての講義が終わり、私は家に帰ることになった。もちろん今日も一人で帰路に就くわけだが、私にはアニソンがある。おかげで帰り道は退屈しないのだ。
今日はどの曲を聴こうか。最近ダウンロードした曲は、ここ数日何度もループしまくって聞き飽きてしまったので、二年ほど前の曲を聴いてみたいと思う。つまり、私が高校二年の時に放送されていたアニメの主題歌である。
歌は当時の記憶を鮮明に蘇らせてくれる。あの頃は何に夢中だったのか。何に悩んでいたのか。過去を振り返るきっかけをもたらすのが、思い出の歌というものである。
私は大学の最寄り駅に着くと、耳にイヤホンを装着し、スマホでアニソンを再生した。
久々に聴く曲だった。改めて聴くと、やっぱりいい曲だなと思えてくる。
二年の月日はあっという間に過ぎてしまうものだ。二年前はとても懐かしい過去である。
だが、あの頃と私は何も変わっていなかった。少し年を取ったくらいである。身長も変わっていないし、アニメの趣味や味の好みも変わっていない。
このことから、私は私であり続けていると確信が持てるのだった。
ところで私とは一体何者なのだろうか。そんな疑問がふと浮かんできた。
自分が何者であるのか。その答えを知り得るまでには、長い年月を要することだろう。もしかすると、一生わからないままの可能性もある。だけど、自分という人間は変わらずに存在している。それは疑いようもない事実である。
だが悲しいことに、私の存在を認識してくれる存在は極めて少ないのであった。家族や親戚くらいしか、私のことを知らない。中学や高校時代のクラスメイトたちは、私のことなどもうすっかり忘れ去ってしまっていることだろう。今でも連絡を取り合っている者は一人もいない。同窓会などに呼ばれたこともない。私が知らない間に開かれていたりするのだろうか。
ここで私は一つだけ誤りに気付いた。
私を認識している存在は、親族だけではないということだ。
私には美波という友人がいるのだ。そして、今日キーホルダーをくれた男子学生も、私の存在に気付いている。
バイト先の同僚も同じだ。近所のおじさんも、田中さんちのポチも、皆私を知っている。
私は一体何を悲観する必要があるというのか。
少しは自分という存在を誇らしく思ってもいいのではないか。
私は前向きな気持ちになっていた。
ホームに電車がやって来る。
電車に乗ってばかりの日々。しかし、それが私の生きる道なのだ。
生き方に正解などない。存在に理由など必要ない。そう思うことで、人は生きていけるのだろう。
私はこれからも、私なりの生き方で、私のまま生き続けたい。