もしもVR格闘ゲームが存在する世界だったら
――1――
空間を割るようにそびえ立つビルや飲食店といった建物。
黒いアスファルトの地面に上塗りされた白い線が、交差点を生み出している。
白昼の東京S谷にある交差点では、異常な光景が広がっていた。
交差点の中央を囲むように人だかりができており、車はクラクションを鳴らしながら止まっている。
交差点の中央では、二人の男が三メートルほどの距離を空け、堂々と立っていた。
男の一人は、無精髭を薄く生やしており、黒い短髪に白の半袖シャツ一枚。そして、紺のジーンズといった姿である。
それに対して、もう一人の男は、金色の角刈りに赤いシャツと背中に龍が描かれた黒のスカジャン。下は黒いジーンズで、年齢は髭を生やした男よりも若く見える。
「挑戦受領者、郡司小五郎。二八歳。身長一八五センチメートル。体重一〇二キログラム」
拡声器を通したように響く若い女の声と同時に、音声と同じ内容の赤い文字が、黒髪の男――郡司小五郎の頭上で輝く。
女の声は、人間味が薄く、機械のように淡々と読み上げるような口調であった。
小五郎の一〇二キロという体重は、小五郎の血と骨と臓物と、筋肉が生み出したものである。無駄な肉は、一つとして無い。
その証拠に、小五郎のシャツには分厚い胸板と腹筋の筋が浮き出ており、ジーンズは破けそうなほどパンパンに張っている。
「挑戦者、矢島亮介。十九歳。身長一七二センチメートル、体重七五キログラム」
女の声が同じように響くと、青い文字が、金髪の男――矢島亮介の頭上で光る。
矢島は小五郎に比べると小柄に見えるが、よく鍛えこんでいる身体であった。
「この試合は、トータル・ファイティング社の管理の下、設定されたオプションルールにのっとり行われます。試合終了後、点数の変動がオンライン情報に反映されていない場合は、お手数ですが、お近くのトータル・ファイティング社支部へご連絡ください」
女の声が響くと、しばらくの間が流れる。
その間にも、二人の男を囲む人々から歓声が沸き起こり、車のクラクションが鳴っていた。
矢島が、ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、鬱陶しそうにベッと地面に唾を吐く。
一方、小五郎はそんな雑音を意に介す様子もなく、矢島を見据えていた。
小五郎の目は、矢島の頭のてっぺんから足元までをゆっくりと動き、やがて顔へと戻る。
強くなれるな――
小五郎は、矢島を観察してそう思った。
小五郎が相手の将来に気をやるのは、相手が自分よりも遥かに若い場合である。それも、自分と似たニオイがする一部の者だけであった。
俺は強い。俺と闘え。俺が一番だ――
そういった想いを、同類だけが感じ取れるニオイとして、矢島は発していたのである。
小五郎は矢島のニオイを察知したが、矢島にその様子は無い。
小五郎がニオイを矢島に対してぶちまけるには、年を重ね過ぎていた。こういう場でも、よっぽどのことが無い限り、意図的に抑えるようにしているのだ。
「それでは、試合開始」
突如、重低音のブザーが鳴り響く。
それを合図に、小五郎と矢島の表情が急激に険しくなった。
「らあっ!」
矢島がポケットから両手を引き抜き、声を上げて小五郎に向かって走り出す。
同時に、小五郎が、両腕を縦に曲げた状態で前に構える。
矢島は、二歩進んで小五郎に攻撃できる間合いに持ち込むと、右の正拳突きのような動きを繰り出した。
小五郎は、これを右腕で払う。
左拳。
右拳。
左拳。
さらに、矢島の左右の突きが、勢いよく連続で襲う。
矢島の動きは形がだいぶ崩れているが、まともに食らえば鈍痛が走りそうなものばかりであった。
小五郎は、それらを全て左右の腕と手で払い、受け流す。
「しゃっ」
業を煮やした矢島の、右のハイキック。
小五郎は、矢島の足が浮いた瞬間に身を屈ませ、右の足で矢島の左足を払いつつ一回転した。
矢島の蹴りが空を切ると同時に、矢島の身体は一瞬宙を舞い、地面に背中から落下する。
矢島が起き上がるよりも速く、小五郎が矢島にまたがる位置で下段突きの構えに移行し、右拳を矢島の顔面目掛けて落とす。
矢島は、ギョッとした表情で両腕を交差させ顔面を覆うようにして防御の構えをとった。
重く砕けるような、気持ちの悪い音が鳴る。上のほうに重ねていた矢島の左腕内部から、それは聞こえてきた。
矢島は腕の隙間から苦悶の表情を浮かべているが、決して萎えてはいない。むしろ、さらに闘争本能をむき出しにした表情へと変わっていく。
小五郎は、わずかに口角を笑みの形に吊り上げ、一歩下がる。全力の下段突きを、今度は矢島の腹に落とした。
小五郎の右拳は、矢島の腹にめり込むように深く沈んでいく。
「――」
矢島の口から、声にならぬ音が漏れ、両足がピンと伸びる。
小五郎は、さらに右拳を矢島の腹部に打つ。
一発。矢島は、白目を剥き身体を震わせている。
二発。矢島の口から、赤い泡が浮かんできた。
三発目を打とうと構えたそのとき――
「試合終了。勝者、郡司小五郎」
重いブザーが鳴ると同時に、音声が流れる。
音声と同じ内容の赤色の文字が、交差点の上空に大きく光った。
小五郎は構えを解き、体勢を戻す。
矢島の身体が、どんどん透けていく。
周囲の人だかりも、車も、建物も色が薄くなり、透けていく。
ついには、小五郎の身体まで透けていった。
「勝者に一点追加されました。両者には、ポイントレートに沿ったファイティングポイントが支給されます。覚醒後、ご確認ください。この試合は、トータル・ファイティング社の管理の下、適切に行われました。ご不明な点がございましたら、お近くのトータル・ファイティング社支部へご連絡ください。本日は、ご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。」
音声が流れてから数秒後、小五郎と矢島の姿は、完全に消え失せた。
――2――
十畳ほどの洋室でエアコンの音が小さく響き、冷風を送る。
ライトに照らされた部屋の隅には、本棚が二つ。中央には、ちゃぶ台が一つ設置されている。
部屋の入り口のすぐ右にはテレビがあり、テレビと向かい合う場所に大きめの布団が一人分敷かれていた。
布団には、ランニングシャツとトランクスだけの大柄の男が、仰向けで指一本動かさずに寝転んでいる。
男は、いくつものクダが繋がれたフルフェイスのヘルメットのようなものを身に着けていた。
クダは、ベッドの右側のベランダに向き合うように置いてある机の脇の機械に繋がっている。
「むう……」
突如、男が低い声を上げてヘルメットを脱ぎ捨てる。
男の正体は、郡司小五郎であった。
小五郎がゆっくりと上半身を起こし、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取る。慣れた手つきで操作していくと、一つのページにたどり着いた。
VR格闘ゲーム“トータル・ファイティング”選手個人ページ――
小五郎は自分の点数の変動とポイントを確認すると、フッと息を吐いてページを閉じる。
「リアルでやりてえなあ……」
小五郎が、遠くを見るような目つきで小さく呟いたそのとき――
「小五郎!」
高い声と共に部屋のドアが勢いよく開く。
現れたのは、タンクトップにホットパンツ姿の十代後半といった若い女であった。女は腹筋が綺麗に割れており、引き締まった身体をしていた。
長方形のプラスチック容器を二つ両手に抱えていた。試合前に小五郎がトータル・ファイティング社の通販ページから注文した中華弁当である。
「アンタさあ、自分で注文したならちゃんと受け取れるようにしといてよね。女の子にこんな野暮ったいのを取りに行かせるなんて」
そう言いながら、女はちゃぶ台の前に座って弁当と割り箸を自分の所に一つ、反対側にもう一つを置く。
小五郎は、頭を掻きながら弁当が置かれた場所にのそのそと座った。
「俺が稼いだ分で買ったんだ。それぐらいやってくれよ」
小五郎が、軽い口調で言った。
「ゲームのポイントで買ったものじゃないの。こんな生活、いつまでも続けられるわけじゃないんだから、仕事見つけないと」
「バイトはしてるぞ。肉体労働の」
「定職を見つけなさいって言ってるの。もしくは、お金欲しいなら年末にやってる総合格闘技の大会に出るとかにしたら?」
女が言うと、小五郎は大きく息を吐き、
「スター性がない二八の男を必要とはしないだろ」
と、言った。
小五郎の顔立ちは、美男とは言いがたい。かと言って醜いというわけでもない。しかし、道を歩けば人目を引く男であった。
それは、スター性とは別の魅力である。
一流のアスリートが実際の顔立ちよりも魅力的な印象を与えるように、小五郎もそんな魅力を纏っていた。
「それに、あそこは俺には合わない。名誉が欲しくてやってるわけじゃないしな」
小五郎が、笑みを浮かべて自嘲気味に言った。
公式ページのリプレイで見ることが出来る小五郎の相手の都合を一切考えない闘い方は、インターネット掲示板でも時折話題となるほどであった。
試合で骨を折り、顔面を砕くのは当たり前で、チャンスがあれば金的や目突きを平気でやる。もっとも、金的や目突きといった危険なものは試合前のルールで禁止行為に設定できるので、その場合は小五郎も従っている。
小五郎はトータル・ファイティングの上位プレイヤーであり、常に挑まれる立場の人間であった。
というよりも、小五郎のような闘い方をする相手の挑戦を上位者は受けない場合が多い。
勝敗はギブアップを宣言するか気絶で決まるというルールの中で、無理をしてまで小五郎のような人間とやるのは得が少ないからだ。
上位者が下位者に負けると、持ち点が大幅に減少してしまうからである。
スポーツマンシップだとか、試合として節度ある行為だとかを主張する者さえいる。
それに対して、挑まれた試合は時間の都合が合う限りどんな相手だろうとやるのが、郡司小五郎のやり方であった。だから、相手が何をしてこようと、文句をつけたりはしない。自分がやりたいことは、相手もやりたいだろうと小五郎は考えていた。
「大川が出てくるわけないじゃない。もう五〇過ぎてるんでしょ、あのオッサン」
女が語気を強くして言う。
大川龍雄――
小五郎がトータル・ファイティングの試合で唯一敗北した相手の名前であった。
大川龍雄は、実際に当てる空手を教える“雄拳会”の館長をやっている男である。
十年前、トータル・ファイティングの普及と同時に道場を盛り上げるため自ら参加するほどの猛者であった。
大川は連戦連勝を重ね、あっという間に世界ランク一位となり、それを維持し続ける。
その実績が認められ、今ではトータル・ファイティングと提携して世界各国に支部が置かれていた。
小五郎が大川と試合をしたのは、十八の時であった。骨を、歯を砕かれ、現実なら将来に重大な後遺症が残るであろう負け方をした。
小五郎は、それから五年間トータル・ファイティングの試合を休止し、現実の世界でアルバイトをしながらトレーニングを続ける。
ガムシャラに身体を鍛えた理由は色々あったが、大川と再戦して勝つというのが一番の理由であった。
だが、小五郎が大川相手でも勝てると思えるようになるころには、大川はトータル・ファイティングの試合から姿を消していた。
小五郎が復帰したのとほぼ同時期に、大川は一切の試合をしなくなったのだ。
空手の大会には顔を出していたりするので、死んだとか、事故にあったとかでは無い。
小五郎がそれでもトータル・ファイティングの試合にこだわるのは、大川がいつか試合に戻ってくることを信じていたからだ。
五年前、大川が試合をしなくなった理由を聞かれたとき、
「ああ、アレ面白いよね。まあ、私も色々忙しいし、いつかまた……ね」
と、腹に響く低い声で楽しそうに言ったのだ。
これを聞いた当時の小五郎は、心を強く燃え上がらせた。
それから今までの間、小五郎の心に燃えていた炎が小さくなっているのを小五郎自信も感じていたが、大きな根っこの部分は変化はない。
むしろ、大川でなくとも、強敵が現れればいつでも心をそのときのように燃やす事ができるまでになっていた。
「いただきます!」
女がそう言ってプラスチックのフタを外し、割った箸を左手に、弁当を右手に持って中身を口へ入れる。
小五郎は、大胆に飯を食う女の姿を見て大きく息を吐き、容器のフタを外す。それから、右手に持った箸で白米を口に入れる。
「そうだ、小五郎。私、明日の夜は出かけるからご飯いらない」
「デートか?」
「うん」
「そんなヤツがいたのか」
「最近通ってるジムにいる人から誘われたの。別に彼女になるとか、そういうのじゃないけど」
「お前がそういうの許すってことは、強いんだろうな、そいつは」
「うん」
「――」
「だめよ!」
小五郎が考え込むような表情を見せた瞬間に、女が声を荒げて言った。
「別に、何もしないさ」
小五郎が、小さく言った。
「ウソ。今、試合してみたいとか思ったでしょ。そういう顔してたもん」
「まあ、少しはな。お前が認めるくらいだし。名前は?」
女は少しの間を置くと、
「ヤジマリョウスケ」
と、言った。
「っ!」
小五郎は、それを聞いた瞬間に大きく咳き込む。小五郎がたった今闘った相手の名前が出てきたからだ。
「なに、どうしたの?」
女が、少し慌てた口調で言った。
偶然だ――
と、小五郎は、大きく咳払いをしながら思った。
ヤジマリョウスケという名前は一人だけの名前ではないだろうと考えたからである。
「そいつの写真あるか?」
小五郎が、言葉を詰まらせながら言った。
「うん。見せてあげる」
女がそう言うとポケットから携帯電話を取り出し、小五郎に画像を見せる。
そこには、金髪の角刈りに黒のトレーナー姿でファイティングポーズをとっている矢島亮介が映っていた。
しばしの沈黙が流れると、
「こいつとさっき試合したぞ」
と、小五郎が言った。
「マジ?」
「嘘ついてどうする」
「そう。それはよかったわね」
女が早口で言うと、会話を切り上げて食事に戻った。
「会いたいんだが」
「――」
「明日の夜だったな」
「――」
「話をつけといてくれないか」
女は小五郎の話を無理やり聞き流すように、飯を口に入れる。
「嫌なら今後はジムの月謝を肩代わりしてやらんからな。飯代も払ってもらう」
小五郎が小さく呟いた。
「卑怯者……」
女がジッと小五郎を見て言った。
それを聞いた小五郎は、口角を吊り上げてニヤリと笑う。
会話が止んだ部屋では、エアコンの音がよく響いていた。
いつか書きたいと思ったものをちょっとだけ書いてみました。続くかもしれません