前編-6
燦々と照りつける太陽の光を浴びながら、僕は見知らぬ少女に腕を掴まれて走っていた。
波打ち際付近では既に海水浴客がちらほらいて、僕はそれを横目に見ながらも今前を走っている少女の顔を過去にも見ていなかったか思い出そうとしていた。
しばらく引っ張られ続けた後に、彼女が足を止めたのは、トイレと思われる小さな建物の隣にある、狭い雑木林のの中だった。
旅館からは百メートルほど離れていたため、付近にあまり人気はなかった。
結局、彼女が誰なのかを思い出すことはできなかった。
「ちょっと・・・いったいなんなの?」
肩で息をしながら僕は彼女に尋ねてみた。
しかし、彼女は僕に背中を向けたままで何も答えない。
だからもう一度、今度は問い詰めるように尋ねた。
「君、昨日も僕を見てたよね? 君は僕を知ってるみたいだけど、失礼だけど僕は君を知らない。君はいったい誰なの?」
振り返った少女は、意表をつかれたようにポカンとしていた。
「・・・そっか。それもそうね。私少し変わっちゃったから」
小首を傾げて頬に指を当てていた少女はなにか合点がいったようで、気を取り直したように訊いてきた。
「さっき姉さんが紹介してくれたけど、もう一度自己紹介、私は神原 美織。あなたの名前は?」
人違いかどうかは置いといて、僕の顔には見覚えはある。でも名前までは知らないということか。
「僕は城崎 春」
「じゃあ、早速だけど少しイメージして。黒髪のおかっぱ頭の私を。それで何か思い出せない?」
言われたように彼女・・・もとい、神原さんのいう姿を想像してみる。しかし、それでもわからない。
「・・・ごめん。やっぱり人違いだよ」
神原さんは残念そうに嘆息をついた。
申し訳ない気持ちになっていたのも束の間、神原さんは突然口火を切った。
「一年前、あなた森海線の電車の中でトイレ我慢してたでしょ?」
「ええ!? あ・うん、そんなこともあったような気がする」
「気がするじゃなくて、ホントにあったの。で、降りる駅のトイレに近い出口に行こうとして電車の中移動してたでしょ?」
「あ・ああ、そんなことしたと思う」
「その扉の近くに、今言った姿の私が立っていたの」
「え? そうだったの? 全然気づかなかった」
「・・・なんか腹が立つわね」
神原さんはぷくっと頬を膨らませた。
「仕方ないよ。多分我慢してて周りが見えてなかったんだよ」
さて、僕が通学で使っている電車の名前が出てきたということは、これで人違いではなく、僕と彼女は過去にすれ違っていたということになる。
しかし、ただすれ違っただけで、ごく平凡な一少年である僕を記憶に留めてくれるわけがない。
きっとその時に僕はなにかをやらかしたはずだ。
そう。例えば信じたくもないが、
「・・・もしかして僕、堪えきれずに・・・漏らした?」
「してない!」
ためらいがちにそう尋ねた僕に、顔を赤らめながら彼女は即答した。
そりゃそうだ。僕にも電車の中で漏らした記憶はないのだから。
じゃあなぜ僕が目についたのか、ますますもってわからない。
「助けてくれたのよ。その・・・痴漢から・・・」
ためらいがちに少女はぽつりと口にした。
「痴漢・・・?」
言われてみると、痴漢もいたような気がしないわけでもない。
「あなた、電車の中でこう怒鳴ったのよ。『邪魔だ! どけ!』ってね。そして痴漢の手を払ってくれたの」
その瞬間、僕の頭の中に一瞬だけ映像が流れた。
「ああ! そういえば、おっさんと女子高生がくっついてて邪魔だったから、ついカーっとなって何か叫んだ気がする」
「ちょうどそこで電車が駅に停まって、あなたは全速力で降りてった。痴漢はあなたの一声で気づいてくれた周りの人に捕まえられて駅員に渡された」
「・・・まじ?」
「こんなこと嘘ついてなんになるのよ」
「で・でも、こんなところで会うなんて奇遇だね」
取り繕うかのように僕は言ったが、声は上擦ってしまっていた。
「そうね。こんなところで会うのは奇遇ね。でも私、そのことがあってから毎日あなたと同じ車両に乗って通学してたんだけど・・・気づかなかった?」
「・・・いや、全然」
その返答を聞いた神原さんは呆れたように溜息をついた。
「あなたの周りに、さっきの二人がいつもいたから声かけられなかった。お礼も言えなかった。ちょうどいいから今言う。この前は助けてくれてありがと」
「いや、ちょっと照れるな・・・」
僕は照れくささから後頭部をかいた。
「じゃあ、私のこと思い出してくれたみたいだし、お礼もしたから、本題に戻ろうかしら」
「え? 本題・・・ですか」
彼女さんからいやな予感がひしひしと伝わってきた。
「今日一日、あなたは私に絶対服従なんだよね? じゃあまずは一つ目、水着に着替えてきて」
「・・・え?」
「遊びに行くのよ。海に」
「それは、ちょっと・・・」
実は、先ほどから波打ち際で女性の人影がこっちに手招きをしていたのだ。
深夜、砂浜で幽霊を見かけることはなかったが、やはり日中だと活発になるようだ。
今しがた二十歳過ぎの男性がトイレに入っていったり、母親とその娘がトイレから出てきたりしていたが、誰一人として女性の影には気づいてないようだった。
それもそのはずだ。見えていないのだから。
見えてない人に霊障が降りかかることは滅多にないが、見えてる人は別だ。
近づくと、何かを訴えてきたり、とり憑いてきたりと、大変な目にあってしまう。
「あ、そっか。もしかして泳げないんだ?」
しばらく黙っていたせいで、神原さんにそういう風に思われてしまったらしい。
「いや、泳げないこともないけど」
余談だが、プールの授業で武から言われたのだが、僕の泳ぎは泳ぐと言うより、浮いて進むと言った方が正しいらしい。それくらいスピードが遅いのだ。
「じゃあ、海が嫌いなの?」
「そういうわけでもないんだけど・・・」
仕方ない。本当のことを言おう。
せっかく僕なんかに言い寄ってきてくれてるけど、もう嫌われたってしょうがない。
「見えるんだ」
「・・・見えるって? 何が?」
怪訝そうに眉を顰める少女。
「・・・幽霊が」
その瞬間、神原さんの顔が青ざめた。
「え? ゆう・・・れい・・・?」
そう口にしながら一歩、また一歩と後退りする少女。
どうやら神原さんはこの手の話題に弱いようだ。
「・・・まじ?」
「まじです。今波打ち際の方で女の人が手招いてるし、あっちの砂浜にはにょきっと手が不自然に一本生えてるし、あっちには――」
と、指差しながら説明していると、彼女は青ざめた顔をしていたが、やがて、何かを振り切るように僕の前から全速力で走り去っていった。
ちょっとやり過ぎた気もするけど、事実を言ったまでだから仕方がない。
これでもう完全に嫌われただろうな。
長嘆息をついて旅館へと帰ろうとしたら、
「や! また会ったね」
神原さんと入れ違いに現れたのは、深夜の砂浜で出会った少年だった。