後編-6
「納屋だって?」
僕は目を見開いて聞き返していた。
「はい。さっき屋上をぐるっと回った時に旅館の裏側にあるのを見つけました」
「いや、それならここへ来る時に裏側から来てるんだから気づけるはずなんじゃあ?」
「そうですね。でも来る時は何もありませんでしたよね。なぜならここは別の次元だからなんですよ」
僕ははっとした。そうだ。ここはパラレルワールドなんだ。
「おそらくこの次元は過去の旅館を再現した世界。主はこの旅館に何か思い入れがあるのかもしれません。そして、あくまでも予想ですけど、来るときに通ったあの茂みの中には、昔納屋があったんだと思うんです」
「なるほど……え? でもそういえば、さっき探し回った時は旅館の裏口の扉は見あたらなかったよね?」
「今起きたこと考えて見てください」
僕はほんの少し前に目の前で起きたことを思い出して、思わず息を呑んだ。
「夏姫さんがもたれていた扉が……消えた!?」
「そうです。主はこの次元では建物の扉を自由に出したり消したりできるんですよ」
「なんてこった!!」
僕らは階段を一気に駆け下りていった。
館の主はこの建物の扉を自由に出したり消したりできる。僕らが最初に来た時は裏口の扉を消していたのだ。主が一度ここまで上がってきたというのであれば、今ならきっと一階に裏口があるはずだ。例え見つけられなかったとしても外に出て裏に回ればいい。
一階に着くと裏口があると思われる建物右側の通路へと走った。が、
「止まって!」
通路の途中で夏姫さんが叫んだ。と同時に足にブレーキがかかり、二人同時に立ち止まる。
どうしたんだ、と問おうとした時だ。
通路の先にある角から微かな物音が聞こえてきた。きゅるきゅるとなにやら金属でもこすっているような音だ。
「まさか……主?」
小声で尋ねると夏姫さんはこくりと頷いた。
音は遠ざかることも近づいてくることもなく、一定の距離を保っているように聞こえた。
手をつないだまま忍び足で角まで行き、そこからそっと覗いてみる。だが、そこには誰もいなかった。ただ、直前まで誰かがペダルをこいでいたかのように赤い三輪車が惰力で動いていた。
「なんで三輪車が? いや、それよりも」
さっきこの通路に来た時は、角を曲がった先にも宿泊部屋がいくつかあったはずだ。それがどういうわけか左右の壁から扉が全て消えていたのである。通路を挟む壁は一面真っ白だった。そして最初に来た時にはなかった突き当たりの壁に扉があった。
「やっぱりあった! あれが裏口の扉か」
「はい」
三輪車をよけて突き当たりまでやってくると、扉のドアノブを回してみる。それはあっさりと開いてしまった。初めて建物の裏側に来たときはこの扉のドアノブは動かなかった。この次元ではちゃんと扉の役目をこなしているようだ。
扉から外を少しだけ覗いてみると、やはり裏口のようである。地面は砂利だが平たくしっかり地ならしされていて、来るときにあった腰まで生い茂った草原はなかった。奥には森があった。それは元いた世界と変わらず、深い闇を纏って不気味な様相を呈していた。
そして草原があった場所の真ん中辺りのところに、夏姫さんの言う納屋があった。現実ではこの納屋はとうの昔に全壊していて草原にの中に埋もれているのだろう。
その時、ふと目尻に何かが映った。それは犬小屋だった。よく見かける木製のものだ。こちらも来る時にはなかったものである。ここの住人は昔犬を飼っていたようだ。また、首を捻って旅館の方を見てみると、こちらも建物内同様新築のように綺麗だった。窓ガラスにも壁にも傷はおろか汚れ一つ見あたらなかった。
僕らは靴を履いたままなので、そのまま外に出て納屋へと近づいてみた。大きさは駅のホームでよく見かける待合室と同じくらいだろうか。頑丈そうな瓦屋根が印象的だ。木造の壁の真ん中には鉄製の扉があった。
「開けてみるよ」
「はい」
夏姫さんから返事をもらうと、ドアノブを回して納屋の扉を開けてみた。
中は暗くて何も見えない。また懐中電灯の出番である。しかし納屋の中を照らしてみたが何もなかった。地面はセメントで固めてあって、扉を開けたちょうど真向かいには、地下らしき場所へと続く階段だけがあったのである。
「地下室でもあるのか」
階段の先を照らしてみたが、結構深いのか光は届かない。
夏姫さんに懐中電灯を預けて、扉の近くにあった石ころを拾い、放り投げてみた。崖じゃないからどこまで深さがあるのかはわからないが、最後に聞こえた石の着地音は耳を澄まさないと聞こえない程小さかったので、かなり下まで続いていることがわかった。例えるなら、百段近くある神社の階段の上から石を投げて聞こえてきた感じだ。でもいくらなんでも、地下室を用意するのにこれほど深くする必要があるのだろうか?
「どうする? 下りようか?」
「この先に絶対主がいるはずです。行きましょう」
夏姫さんが懐中電灯を照らしながら階段を降りていく。つながれた手に引かれて出遅れた僕は早足で彼女の横に並んだ。
天井は階段を下りていくとともに高さ二メートルくらいを保って下がってくる。幅は三人並んでは歩けないくらい。手すりはないがそれほど急な階段ではなかった。
幸いなことに、この納屋に入った瞬間から、先程までの寒さは和らいでいた。
そうして階段を下ること数分、ようやく平坦な場所に出た。数えながら下りてみたが、段数は百段を裕に超えていた。
階段から先は洞窟のような道が続いていた。幅は階段よりも広がり、車一台分が通れるか通れないかくらい。天井までの高さはやはりニメートルくらいだろう。
夏姫さんが懐中電灯を照らしながら洞窟のような地下通路を進んでいく。納屋の中に入った時も暖かかったが、地下は納屋よりも更に暖かかった。それに湿気ていた。地下通路は左右と天井がごつごつした岩壁で続いていた。岩壁には所々にしみがあった。近くを水脈が通っているのか、そこから漏れてきた水が雨漏りのように天井のあちらこちらから滴り落ちてきていた。岩壁に見つけられるしみもその一部だろう。足元は砂利道だが落ち葉もたくさん紛れ込んでいた。いったいどこから入り込んだのだろうか?
しばらく歩いていると、
「え? な・なに?」
夏姫さんが不安げに顔を上げた。その時僕も頭上を何かがわさわさと舞っている気配を感じとった。
「きゃっ!!」
夏姫さんが中腰になって頭をおさえながら悲鳴をあげる。
「ちょっと貸して」
夏姫さんの持ってた懐中電灯を奪うと、気配のする方へ照らしてみた。そこには三匹のこうもりが飛んでいた。
「しばらく頭を下げて歩こう」
「そ・そうですね」
腰を曲げて低い姿勢を保ったまましばらく歩いていると、こうもりはどこかへ飛んでいったのか、いつのまにやらいなくなっていたので、程なくして姿勢を戻した。
それにしてもこの通路はどれほどの距離があるのだろうか。もう百メートル以上は歩いているはずだ。山中の旅館にこんなに深くて長い地下通路なんて必要なのだろうか? 階段を下りる時にも違和感を感じたが、やはり明らかにおかしい。このままどこかにつながっているのだろうか? それともここは防空壕のようなものなのか?
それから更に歩く。どれほど歩いたかわからないくらい距離を進んだが、やがて、
「行き止まり……?」
僕の懐中電灯に照らし出された、眼前に広がる岩壁。土砂崩れや地殻変動で通路がふさがれたようには思えなかった。元々ここが行き止まりのように感じた。
「そんな!? ここにいると確信してたのに」
夏姫さんが悔しそうに声を荒らげる。その時僕は行き止まりの岩壁の隅に何かを見つけた。
「夏姫さん? 何か落ちてる?」
「本当ですね。なんなんでしょう」
ライトで照らしながら近づいてみる。それはここに落ちてることが到底似つかわしくない物だった。ノートと鉛筆だった。ノートには名前を書く部分があったが、そこは空白だった。
「中、開けてみましょうか?」
「あ・ああ」
その場で一緒に膝を曲げてしゃがむと、砂利の上に置いたまま夏姫さんがノートの表紙をめくった。隣で僕が灯りで照らす。
「なんだこれ?」
思わず声に出してしまった。ノートは罫線の全くない自由帳だったが、そこには平仮名の練習書きをした跡があった。左がお手本の字、右が練習した字、それがページ一面にいっぱい並んでいたのである。左の字はお手本ではあるが、子供が書いたような丸みのある字だった。そして右の字は幼稚園児が書いたような、釘でも並べたかのような字だった。つまり、このノートは二人で使われていたわけだ。
「字を教えてたみたいだな」
「なんでこんな物があるんですかね?」
「わからない。ページをめくってみて」
夏姫さんがページをめくると、平仮名の練習書きの続きがあった。更にめくるとカタカナの練習書き、そして数字の練習書き、その後には小学校低学年で習う簡単な漢字の練習書きもあった。練習を積み重ねた成果が如実に出ていた。最初のページでは幼稚園児のような字だったが、漢字の練習書きではかなり綺麗な字になっていた。それも左の手本の字よりもだ。
しかし、漢字の練習書きはノートの半分くらいのところで止まっていた。その後のページは新品同様真っ白だった。
「なんでこんな物がここに。それにこれを使っていたのはいったい……」
僕が思案している間、夏姫さんがさらにページをめくっていたが、ノートの残り半分は全て白紙だった。やがて最後のページを開いて、ノートは閉じられた。
「このノート、どうしましょうか?」
「持っていこう。カバンの中に入れてくれる?」
「わかりました。ついでにこの鉛筆も入れておきますね」
夏姫さんがノートと鉛筆を拾い上げて、僕の背負っていたリュックへと収めた。そしてチャックを閉めたその瞬間、どさっという何かが落下した音が背後からした。
夏姫さんが、ひっと小さく悲鳴を上げた。
「何? 今の音は?」
振り返ってライトで音のした方を照らすと、なんと一匹の蛇が通路のど真ん中にいたのである。
僕と夏姫さんは顔を引きつらせたまま凍りついた。