後編-5
三階から踊り場を経由して階段を上がりきると屋上へ通じる扉の前に着いた。鍵はかかっていなかったようでドアノブを回すとあっさりと扉は開いてしまった。
扉の外は真っ暗だった。時間帯は夜のようだが当然星空は見えない。まだ雨が降り続いているからだ。先ほどより雷雲は離れているのだろう。遠くの方から雷鳴が聞こえてきた。
僕は懐中電灯を出して扉の外を照らしていった。屋上には建物の端を囲うようにして胸壁があった。コンクリートの地面は一面染みになっていたが、なぜか扉の前には雨はかかっていなかった。扉から顔だけ出して警戒しながら頭上を見上げると、扉の上からはコンクリート製の屋根が少しだけ突き出ていた。
僕は先頭切って外に出た。手をつないだままなので夏姫さんも続く。その刹那、
「あっ!?」
夏姫さんが異変に気づいて振り返るが間に合わず、がちゃんっという衝撃音とともに扉が勝手に閉まったのである。僕はドアノブを掴んで何度も回してみたが開かない。鍵がかかっていた。
「くそっ!! 閉じ込められたんだ」
「やられました。主の仕業です。どうしましょう」
夏姫さんが悔しそうに顔を顰めたかと思うと、突然はっとして背中を丸めた。
「……寒い」
彼女がそうぽつりと漏らした瞬間、僕の全身を身震いが襲う。風は吹いてないが空気は凍てつくように冷たい。まるで季節が逆転したかのよう。この上雨にかかれば更なる体温低下に見舞われるだろう。
「この次元の季節は冬のようですね。どうやら建物の中では明りだけでなく暖房も動いていたようです」
「侵入者を明りと暖房で迎えてくれるとはなんとも親切な主だな」
自嘲気味に笑ってみせようとしたが顎が震えて思うように笑えない。
僕らが今着ているのは夏服なのだ。早く中に戻らないと凍え死ぬとまではいかないまでも風邪をひくだろう。いや、以前に夏姫さんは風邪をひくのか?
そんな疑問が浮かんだ瞬間、また雷雲が接近してきたのか真っ黒な空に稲妻が走り、轟音が空気を振動させた。
夏姫さんは反射的に身を縮めたが悲鳴はあげなかった。
「雨宿りできるスペースがあるんだし、ここで脱出方法を考えよう」
「そうですね」
電池がもったいないので懐中電灯を一旦切ると、扉横の壁に背を預けて腰を下ろした。夏姫さんも扉にもたれるようにして僕の隣に座る。
夏姫さんは寒そうに自分の身体を抱きしめた。雨宿りはできたとしても寒さまでしのぐことはできない。
「あの……よければもう少し寄ってもいいですか? とても寒くて」
「え? あ・ああ」
「ありがと」
夏姫さんは身体を寄せてくる。肩がぶつかった瞬間ドキッとしてしまった。いや待て。彼女は幽霊だぞ。でも幽霊だというのに密着したところから彼女の温もりが伝わってくる。この寒さには耐え難かったが、二人でくっついていれば暫くは凌げそうな気がした。
ふとその時、あることに思い至った。
「ねえ? 一旦元の世界に戻ることはできないの?」
ここに入った時のように次元の入り口を作ってもらって、そこから元の世界に戻れるのではないか、と思ったのだが。
「無理です。戻るには入る時に使った入り口を通らないといけないんです。それに次元の扉はそういくつも作れません」
「そうか」
しかし冬の夜の雨とはつくづく性質が悪い。この地方は南側に位置するために滅多に雪は降らない。地元のテレビの天気予報ではこのあたりの天気も教えてくれるが、雪だるまのマークがついていたことは今までに一度もなかったと思う。
その時ふと頭に過ぎった建物の呼び名。『師走の館』である。
師走、つまり十二月だ。師走の館という呼び名を誰かに付けられたためにこの次元の季節が冬になったのか。はたまた、季節が冬のこの次元に入り込んで無事生還できた人が名前をつけたのか。鶏が先か、卵が先か、それともまた別の由来があるのか。
とはいうものの、今ここの日付が十二月なのかどうかは不明であり、無事生還できた人がいるのかどうかも不明だ。それにこんな悠長なことを考えている場合じゃない。なんとかしてここから出なければ。
扉が木造なら何度か体当たりをすれば破ることができるかもしれないが、僕らの進路を塞いでいる扉は鉄製だった。この扉ばかりにとらわれずに考え方を変えてみよう。別の出口か脱出方法があるかもしれない。
僕はまた懐中電灯をつけて屋上を照らしてみた。屋上は建物の中とほぼ同じ広さだ。見たところ後ろの出入り口となっている小屋以外なにもない。
もしロープがあればどこかにくくりつけて降りることができるかもしれない。が、仮にあったとしてそんな度胸が自分にはあるのか? 以前に夏姫さんから手を放すことができないのだ。
とりあえず胸壁から下を覗いてみることにしよう。もしかしたら階下に手ごろな足場があって飛び移れるかもしれない。例えばバルコニーのようなものがあればいいのだが。
「夏姫さん? ちょっとついてきてもらっていい?」
「あ……はい」
僕は腰を上げた。この際雨に濡れるのは仕方ない。持ってきていたのが防水性のある懐中電灯でよかった。夏姫さんも立ち上がると懐中電灯をつけて僕に続いた。
建物の裏側にあたる胸壁に駆け寄り、懐中電灯で下を照らしてみたが足場のようなものは見当たらなかった。
「ねえ? 仮に屋上から飛び降りたらどうなるの?」
「死にますよ。この次元でも現実世界と同じです」
「やっぱりそうか」
全身に冷たい雨を浴びながら胸壁に沿って屋上をぐるっと一周してみたがやはり足場はなかった。
再び屋根の下に戻ってくると、先程と同じように背後の壁に背中を預けて僕は腰を下ろした。夏姫さんも鉄製の扉にもたれるようにして座った。
「ごめん。びしょぬれになっただけで何も見つけられなくて」
「謝ることないですよ。それに何も見つからなかったわけじゃないです」
「え?」
「残念ながら脱出方法ではないのですが、主が隠れていると思われる場所を見つけました」
「そうなの?」
「はい。ですが屋上を出ないことにはどうすることもできませんよね」
その時だった。
夏姫さんの身体が支えを失ったように後ろに傾いていく。夏姫さんの背後には鉄製の扉があった。だがこの扉は屋上側へ開くようになっている。もし扉が開けられたなら夏姫さんは前のめりになるはずだ。
しかし夏姫さんの身体はどんどん背中から傾いていく。
まずい! 手が放れる!
手を放すまいと倒れこんでいく夏姫さんを追う。
「夏姫さんの手を放さなければいいんだろ!!」
僕は右手で夏姫さんの右手首を掴んだ。そしてつないでいた左手がねじれそうになったので放す。
何も起きない。右手で夏姫さんの手首を掴んでいるから大丈夫なようだ。
それでも踏ん張るには間に合わない。夏姫さんに身体ごと引っ張られていく。その時尻目に見たものに唖然とした。今までそこにあったはずの鉄製の扉が消えていたのだ。残っていたのは扉と同じ色をした鉄製の枠だけ。
夏姫さんの背中が床に着く。そして、
「ひゃんっ!!」
僕は夏姫さんの上に倒れこんでしまった。彼女の悲鳴とともにかぶっていたスポーツキャップが床に転がり、肩まである髪が広がった。
「わっ!? ご・ごめん」
慌てて身体をどかそうとした時思わず夏姫さんの手を放しそうになったが、
「ダメ!!」
大声で叱咤されて放しかけた手に無意識に力が戻る。
「主の狙いはあなたと私を切り離すことのようです」
僕は彼女の手首をつかんだまま夏姫さんの右隣に倒れこむと足の爪先の方を見やった。扉が綺麗さっぱり無くなっていた。
「夏姫さん? 怪我はない?」
「大丈夫です」
僕は先に立ち上がり、つかんでいた手を引っ張って夏姫さんを立ち上がらせた。そして改めて手をつなぎなおした。
「主はこの次元の支配者。扉を消すことも容易です」
僕と夏姫さんは同時に扉のない出入り口を見やった。
「まさかこんな方法で襲ってくるなんて思ってもいなかった。だけどこれで活路が開いたわけだ」
「はい。これで主が潜んでいた場所に行くことができます」
「で、その主が潜んでいる場所って?」
「裏手の納屋です」