後編-1(H25改)
19時半を過ぎた頃、旅館のとある一室に僕はいた。直ぐにでも師走の館に駆け出したい衝動を抑えて座椅子に座っていた僕は、手にしていた地図から目を離した。
テーブルを挟んだ向かいの座椅子には夏姫さんがいた。服装は男装のままだ。青いスポーツキャップもかぶっていて、肩まであった髪はその中に収められていた。夜中に出会った時と同じマドラスチェック柄の半袖シャツに、濃いグレーのハーフパンツの恰好だった。
この部屋の造りは僕の宿泊部屋と同じだった。夏姫さんは僕らの宿泊している部屋の隣に泊まっていたのだから。部屋の中央にあるテーブルとそれを囲む座椅子、壁際の小さな液晶テレビと、配置もほぼ全て同じだ。そして薄暗くなった海を一望できる広縁には椅子が二つと小さな漆塗りの丸テーブルが一つ。片方の椅子の上には旅行用の大きな手提げカバンが置いてあった。
僕は視線を目の前のテーブルに戻すと、そこにあるものを口にしていった。
「懐中電灯に軍手、虫除けスプレーに救急箱、方位磁石に建物内部のマップ・・・って、このマップよく用意できたね?」
「これはネットカフェに寄ってパソコンで印刷したんだ」
「パソコン・・・?」
この人、確か死人だったよね? 今更だけどお金とかどうしてるんだろうか?
「ところで、なんでまだ男の声真似を?」
そう。彼女の口調も声色も戻っていた。正体がばれたのだから男装だってもうしなくてもいいというのに。
と、思ったのも束の間、
「え? 戻してもいいのですか?」
ちょっと違和感があった。ボーイッシュな少女と思えばいいかもしれないが、そのか細い声は似合わない。
「この恰好で普段のしゃべり方するとおかしいかなってね。ついでに言うと、普段着は男物しか準備してないんだ」
つくった声でそう言うと夏姫さんはすっくと立ち上がった。広縁の椅子にのせた旅行バッグへ寄り、中を漁りだす。
「でも、寝巻きはちゃんと女物ですよ」
元の声でそう言って、ピンク生地に灰色斑模様の寝巻きを僕の前に翳した。
「さいですか。てか見せなくていいし」
「あ・・・」
頬を赤らめて慌ててバッグに戻す夏姫さん。
「とりあえず、早く準備しよう」
「そうですね」
夏姫さんは照れ笑いしながら隣の座椅子に座った。
僕はテーブルの傍らにあったリュックに、準備していた物を収めていった。リュックのチャックを閉めて、持ち上げてみる。うん、思ってたより軽い。
「しかし、これだけで大丈夫かな?」
「どうだろうね? 何せ、本物のお化け屋敷なんて入るの初めてなものでね」
と、また声をつくって返答する夏姫さん。てか、あんたもお化けだろ。
「そうだった。城崎君、ちょうど長ズボンだな。僕も長ズボンに着替えるから向こう向いててくれないか」
苗字で呼ばれたのがなぜか新鮮で、ちょっと戸惑いそうになった。でもって、少し意地悪もしたくなって、
「え? なんで? 男同士だろ?」
「ええ!? そんなー! じゃあいいです別に。このまま着替えます。幽霊の下着姿なんて、見たいだけ見ればいいです」
と、夏姫さんは自棄になってハーフパンツを脱ぎ始めた。
「う・嘘です! 見ません!」
僕は慌てて背を向けて嘆息した。
ここで、砂浜で男装の恰好を解いた夏姫さんと再会した後のことを振り返ってみることにしよう。
あの後も頑なに拒んでいた夏姫さんだったが、ようやく心が折れたらしく、協力的になってくれた。しかし、いきなりそんな危険な場所に踏み込むなんてことは危険だというので、彼女の部屋で準備をしていたのだ。
ちなみに今警察が動いている。僕が部屋を飛び出して間もなく麗奈さんが通報したのだそうだ。さっき武からそう連絡が入った。しかし、夏姫さん曰く、
『無駄ですよ。例え警察があのお化け屋敷を捜索しても絶対見つけられない。さっきも言いましたけど、美織さんは別次元にいるんです。警察がいってもすれ違うだけです』
ということらしいのだが、それでは僕たちも行ったところでどうにもならないことになる。
『そこはおまかせあれ。私と一緒なら美織さんのいる次元に入ることができます』
と夏姫さんは胸を張っていた。
「もういいですよ」
と、ちょうどいい頃合で許可が下りた。
夏姫さんは言っていた通り、デニム生地のロングパンツに着替えていた。廃墟の中をうろつくにあたり、肌の露出はあまりしない方がいいのだろう。
僕は座椅子から腰をあげてリュックを背負うと、まだ収めてなかった懐中電灯と方位磁石をポケットに入れた。
「じゃあ、行きますか」
「ああ。行こう」
夏姫さんも立ち上がると、またもつくった声で返答した。
壁のスイッチで明かりを消して部屋を出る。と、そこで予想だにしない人物に遭遇した。
「あれ? 君の部屋ってこっちじゃあ・・・」
僕たちが今出てきた部屋の隣の宿泊部屋を指差して立っていたのは麗奈さんだった。
初めて出会った時は浴衣姿、二度目は水着だったので、今回の私服姿の麗奈さんを見るのは初めてだった。茶髪のサイドポニーは今は解いていて、背中に流してあった。それはストレートというわけではなく、軽くウェーブがかかっていた。そして紺のカットソーにデニム地のショートパンツという恰好だ。
「えっと、この人・・・冬夜君の部屋です。さっき知り合って」
無言のまま怪訝そうに男装した夏姫さんを見下ろす麗奈さん。
「さっき、心当たりの場所を思い出したので飛び出したんですけど、やっぱりいなくて。でも、ちょうどそこに彼がいたんです。わけを話すと探すの手伝ってくれるって」
納得したらしく麗奈さんがほんの少し微笑を浮かべて頷いた。でも、すぐに微笑をやめて、
「そう。気持ちはありがたいけど、外は真っ暗だし、もう警察も動いてるんだから後は警察に任せましょう。それに、あなたたちにこれ以上迷惑はかけられない。明日からは普段通り、自分たちの旅行を満喫してほしい」
突き放すように麗奈さんは言った。
「そんな・・・」
他人行儀な言い様に僕は愕然とした。確かに他人かもしれないが、それでもやりきれなかった。
「あなたにそのことを伝えたかったの。後の二人にはもう伝えてあるから」
返す言葉が見つからなかった。どうしようもなくて、隣を見れば夏姫さんが面食らったまま固まっていた。腑に落ちないのは夏姫さんも同じなのだろう。
「用件はそれだけ。じゃあ、いずれまた。おやすみなさい」
そう言い置いて麗奈さんは僕たちの前から去っていった。
麗奈さんの悲しそうな顔が脳裏に深く刻まれた。そんな気がした。
通路を曲がって麗奈さんが見えなくなってから僕ははっとした。いつのまにか、右手に握り拳をつくっていた。
まだだ。まだ僕にはやるべきことがある。
「・・・落ち込んでる時間なんてないんだ。行こう!」
「は・はい」
出端を挫いたせいか、夏姫さんは元の声で返事した。が、
「ああ!!」
階段手前になって、突然悲鳴を上げたのである。
「な・なに!? どうしたの!?」
「鍵忘れた。あはは・・・」
面目なさそうに夏姫さんは笑った。宿泊部屋は全てオートロックなのだ。
「大丈夫。僕が持ってるから」
僕らが部屋を出る際に夏姫さんが先頭切って出ていった。だから僕が出る間際に確認がてら部屋を見渡したら畳の上に鍵が置かれっぱなしだったのだ。いや、テーブルから落ちていたと言った方が正確かもしれない。
夏姫さんは感心したように目を丸くして、
「ありがとう。助かりました」
そして僕らは旅館を発った。時間は20時を過ぎた頃だった。