前編-11
日が暮れていく中、僕は人気の少なくなった砂浜を駆けていた。
そして荒い呼吸をしながら行き着いた所は、午前中に神原さんに連れてこられたトイレの傍にある雑木林の前。
辺りはもう薄暗かった。空では一番星が小さくも力強い輝きを放っているのが見えた。
僕は肩で息をしながら周辺を見渡した。
人気は確認できない。やっぱりいるわけがないか。
もしかしたらここにいるのではないか? と思ったのだが。
がっかりしながらも雑木林周辺を歩いてみる。
トイレのすぐ傍らには街灯が一本立っていた。あと数分もすれば明かりが灯されることだろう。
・・・帰ろう。
街灯に背を向けて旅館の方角へ振り返ったその時だった。
砂浜の上を歩く一つの影が接近してきた。
薄暗いからよくは見えない。知人なのか、それとも見知らぬ他人なのか。
砂浜を歩く足音がぴたっとやんだ。影は僕の5メートルほど先で立ち止まっていた。
まるで影の正体を照らし出すかのようなタイミングで、遅れてトイレ横の街灯に明かりが灯った。
「冬夜!!」
僕の目の前に立ちはだかっていたのは霜月 冬夜だった。
「こうなるとは予想していなかった。反省してるよ」
冬夜は唐突にそう切り出した。
どこで情報を知り得たのかはわからないが、神原さんがいなくなったことを知っているようだ。
僕は胸の底から沸騰水が沸き上がるような感覚に襲われた。
「確かにこれはあんたのせいだ。だけどそんなことはどうだっていい! 今は神原さんを探すことが――」
「彼女はもうこの世にはいないよ」
彼に遮られた瞬間、体中を駆け巡っていた熱湯は急激に冷えていった。
「なん・・・だって?」
このまま体中が冷え切って心臓が止まるんじゃないかと思った。
「お前・・・それ、本気で言ってるのか!? この世にいないって、それはつまり、神原さんは死んだってことなのか!?」
「いいや、言い方が違ったか。こう言えばいいかな。彼女は今別の次元にいる」
「別の次元? よけい意味がわからんよ」
「率直に言えば彼女はまだ生きている。でも、こっちの世界にはいない」
「ますますわからん! じゃあ神原さんは今パラレルワールドにでもいるっていうのか?」
「ご名答だ」
冬夜はふっと不敵に笑ってみせた。
しかし、僕は食ってかかったりはしない。
彼の正体は人間ではない、先ほどそう決めつけたからだ。
「説明してくれよ」
冬夜は閉口したままで頷くと、徐に口を開いた。
その唇は少し重そうだった。
「まだ日が暮れてない頃、彼女はここに訪れた」
「何をしに?」
「気分転換かなにかだろう。これを見てみなよ」
冬夜は今いる場所から雑木林の方に向けて数メートル先の砂上を指差した。
そこに近づいてみると、
「これは・・・血!?」
街灯が照らし出す砂浜に2、3枚のコインが散らばったように、複数の小さな黒ずみができていた。
「彼女の血じゃない。彼女をさらった男の血だよ」
「さらった? 神原さんは誘拐されたのか?」
「そうだ」
「神原さんは財閥の娘とかなのか?」
「いや、彼女が大金持ちの娘かどうかは知らないが、そんな理由で誘拐されたわけじゃないだろう」
冬夜は雑木林の中に目をやりながらトイレの建物を指差した。
「トイレの中にある仕掛けがされていた。彼女はそれを見つけてしまったんだ」
「何を見つけたんだ?」
「ついてきてもらおう」
冬夜は雑木林の中へと入っていった。
僕は黙って冬夜の後に続いた。
雑木林に踏み入ってすぐは車二台分ほどあった幅が、少し進んだだけで人が二人横並びできないくらいにまで狭くなった。
雑木林がトイレの裏側にまで続いてるからだ。右側にトイレの壁、左側はコンクリートで固められた急勾配の斜面になっていて、その上には国道が走っている。
狭い茂みの中で冬夜は足を止めたので、数歩後ろで僕も立ち止まった。
今ちょうど僕の右隣にはトイレの壁がある。
よく見ると壁には縦に稲妻のようなヒビが入っていて、ヒビの中心あたりには子供の拳大の穴が開いていた。
「覗いてごらんよ」
冬夜に促されて僕は中腰になって穴に目をあてたが、そこから見えたものに飛びのいてしまい、危うく尻餅をつきそうになった。
「これって・・・盗撮か!?」
中は普通の和式トイレの個室だったが、冬夜が言う仕掛けられたものがそこにあった。
低めの三脚にのせられたビデオカメラだ。
おそらく隣の個室がある壁に穴が開いていて、それを撮っているのだろう。
「そう。この中は女子トイレだ。カメラの仕掛けられていた個室の扉には『故障中』という張り紙があったよ。彼女はこの場所でこれを見つけてしまい、更に運の悪いことにカメラを仕掛けた男に見つかってしまったんだ」
僕は絶句したまま冬夜の説明を聞いていた。
「彼女は逃げようと抵抗した際、男の顔面に肘うちをいれた。さっき砂の上にあった血はその時出た男の鼻血だよ」
僕はぎろっと冬夜を睨みつけた。
「なあ? なんでそんな詳しいんだよ!? まさか近くで見てたんじゃないのか? どうして助けなかった!?」
「その権限は俺にはない。だからこうして君に伝えてるんじゃないか」
我関せずと、冷めた目をして答える冬夜。
権限とはどういう意味なんだとも思ったが、問わない。訊く必要はないからだ。
「もう気づいてるんだろ? 俺の正体」
途端に彼の目つきが鋭くなり、ぎろりと睨み返してきた。口元には不気味な微笑が浮かんでいる。
向こうさんから答えてくれるようだ。
「じゃあ、やっぱりお前は・・・」
「そうだ。俺は如月 冬夜だ」
返ってきた答えに僕は呆れた。
むっとしたので、おそらく眉間にはしわが寄っていることだろう。
「茶番はもうやめようよ」
「なん・・・だとっ!?」
虚を衝かれて目を見開く冬夜。
「もういいよ。夏姫」
その瞬間、冬夜と名乗っていた少年は凍りついた。
俯いたのか、帽子のつばが影になり、少年・・・いや、少女の表情は見えなくなった。
「・・・いつから気づいてました?」
聞こえてきた声は、今までの少年の声とは違う、幼さの残る柔らかい少女の声。
それは僕にとっては懐かしい声だった。
「砂浜で君の名前を叫ぶ少し前に部屋でカバンの中を漁ったんだ。その時、入れた覚えのないものが入っていた」
「そっか。見つかってたんですね」
夏姫は残念そうに呟いたが、その顔にはほっとしたかのような微笑を浮かべていた。
先ほどカバンの中で見つけた、入れたはずのないもの物・・・それは以前夏姫と一緒にゲームセンターで取った猫のぬいぐるみだった。
あくまでも推測だが、夏姫はこの人形にのりうつって僕の周りをうろついていたのだと思う。
「もう帽子は必要ないですね」
夏姫は帽子をとった。すると中に詰めて隠していた、烏の濡れ羽色と表現できるセミロングの黒髪が広がった。
思わず見惚れそうになったので、大きくかぶりをふって思考をリセットさせた。
この際、なぜ夏姫がここにいるかは置いといてだ。
「神原さんはどこに連れていかれたんだ?」
「そうでした。でも、それが・・・」
険しい面持ちで言い渋る夏姫。
「あまりあなたを連れて行きたくはない場所なんです」
「師走の館なんだろ」
「ええっ!? 知ってたんですか?」
「やっぱりか」
「あ・・・」
口元をおさえるあどけない仕種には、目を奪われるものがある。それが可笑しくて、こんな事態に不謹慎だが少し笑ってしまった。
「行こう! 神原さんを助けに行かなきゃ!」
夏姫に背を向け歩き出そうとしたのだが、
「待って下さい!」
彼女に呼び止められて足が止まった。
振り返って彼女に向かい合わせになる。
「私があなたを連れて行きたくない理由・・・それは、あそこには主が住み着いてるからなんです」
「主・・・?」
「そう。強力な悪霊がいるんですよ! 最悪、あなたは命を落とすかもしれない。だから行かせたくないんです!」
「なんだよそれ! じゃあどうすればいいんだ!?」
「だから私も考えてるんです!」
僕は気づけば夏姫の前まで戻ってきていた。無意識の内に歩いていたらしい。
「行こう! 迷ってる暇なんかない!」
「そんな!?」
「人を殺せるような化け物がいるんじゃ尚更急がなきゃ!」
勢いあまって夏姫の両肩に手を置くと、彼女はビクッと身体を揺らした。
「君だって神原さんを死なせたくないだろ!」
僕はそれだけ言い置くと、駆け足でその場を後にしようとした。
「ねえ! 行ったらだめですってば!」
背後では夏姫が喚いている。でも、踏みとどまってはいられない。
と、思ったのも束の間、早速僕の足は止まってしまった。
「行くのをやめてくれたんですね!」
「違う。館の場所がわからない」
背中を向けたまま答えると、
「絶ーーーーーっ対に教えませんから!!」
と背後で叫ぶ夏姫。
しかし目的の場所は界隈では有名なお化け屋敷だ。
「いいよ。誰かに聞くから」
「うぇぇー、そんなー!」
不満たっぷりの声を上げる夏姫を無視して僕は旅館へ向けて駆け出したのだった。