19.一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う
(囮・本多真由)
黒い箱を開けたその瞬間だった。わたしの頭に衝撃が走る。今まで反響していたナノネット達の足音がパタリと止んで、そして急いで振り返ると祭主くんが痙攣しているのが見えた。その先の暗い廊下では、ナノネット達が同じ様に痙攣しているのが見える。
ナノネット達の何人かは、そのまま倒れてしまった。
山瀬さんが不思議そうにそれを見渡した。祭主くんは倒れかけたけど、なんとか持ち直すとそれからわたしを振り返った。わたしを心配してくれているのだろうか?
「何をしたの?」
そう言ったのは山瀬さんだった。多分、わたしに問いかけたのだろうけど、そう言われても分かるはずはない。その声には、代わりに男の人が答えた。ここでわたし達を待っていたあの男の人だ。
「罠を仕掛けておいたのですよ。その箱を開けると、ナノネットの結び付きが強くなる。“例のアレ”を手に入れるという目的の為に、本多さんにアクセスしたナノネット達はそれで一つになるはずです。いつもは、バラバラのナノネットがその瞬間だけは、全て結び付いた状態になるのですね。
そして、そのナノネット網を利用して、同時にデリートコードを流し、ナノネット達を消去したのです。ナノマシンだけが存在していても、そこにソフトがなければ、ナノマシン・ネットワークにはなれない。つまり、これでナノネットは消去されました」
わたしはその説明を聞いた後で、箱の中を覗いてみた。箱の中には、何も入っていなかった。ただの空洞だ。ナノネット達が欲しがっていた“例のアレ”なんて何もない。
「神原さん」
祭主くんが言った。それを見て、良かった彼は大丈夫そうだ、とわたしはそう思う。モップで叩かれたのはどうやら大した事はなかったらしい。ただ、その声には、何故か怒りの気配があって、わたしはそれに少しだけ不安を覚えた。
「初めから、このつもりだったのですか?」
“神原さん”というのは、多分、ここでわたし達を待っていた男の人の名だろう。
「何の事でしょう?」
「惚けないでください。あなたの計画には、どうしても囮役が必要になるじゃありませんか。あなたはその囮役を、初めから本多さんにやらせようとしていたのでしょう?
だから、あなたは僕に自分の計画を話さなかったんだ。反対されると思って」
「それは誤解ですよ。私は彼女をそんな危険な目に遭わせるつもりなどありませんでした。偶然にも、結果的にそういう事になってしまいましたがね」
神原さんという人の声を聞きながら、わたしはこの人がいつかわたしに忠告をしてくれた人だと思い出した。この人は、何故か寮生と話していて、そして“祭主くんを頼れ”とわたしにそう言って来たのだ。
「信じられません。僕はあなたを許さない。あなたは僕を利用するだけ利用して騙し、彼女を危険な目に遭わせたんだ」
どうやら祭主くんはわたしの事で、とても怒っているらしい。わたしはそれに少し喜んだけど、同時にそれを止めなくちゃとも思った。多分、彼は誤解をしている。この神原という人は、わたしを心配してくれていたのだから。
「祭主くん。前にも忠告しましたよ。少しの知る知らないの差が大きな違いを生む。まずはあなたは知るべきです。本当の事情を」
ただ、わたしが何かを言う前に、神原さんがそう言って、そしてそれと同時に別の声が上がったのだった。
「神原さんの言っている事は本当だよ。祭主君」
何処に隠れていたのか、その人は気付くとこの場に現れていた。その声には覚えがあった。室井沢先生だ。
「本当は彼女じゃなくて、私が囮役になる予定だったんだ。どうにも計画が違ってしまったけどね」
その声で祭主くんの動きが止まる。そしてそこで山瀬さんが戸惑った声を上げた。
「ちょっと待って。どういう事なのか全く話が見えないんだけど。どうして、そもそも囮役が必要なの?」
それを聞くと、神原さんはこう言った。
「分かりました。どうやら、このままでは皆、お互いにブラックボックスを抱えたままになってしまうようですね。断絶されたリンクで事情が見えない。私は、そこにいる女の子がどう関わっているのか知りませんし。リンクを結び付けるという意味でも、順を追って説明していきましょう」
それから一拍子の間を置く。そして、
「事の起こりは、恐らく、この学園に潜むナノマシン・ネットワークが、女生徒を一人殺害してしまった事です。
どんな事情があったのかまでは、分かりませんが」
と、そう語り始めた。
「ここのナノネットは、あまり頭が良くない。それはもう皆さん、ご存知でしょう。だから、それが何を意味するのか正しく把握していなかった。しかし、ここにいる室井沢先生によって、その意味を理解させられてしまったのです。
室井沢先生は、偶然にも、その殺害現場に遭遇してしまった。そして、そこで警察に通報すると発言してしまったのです。当然の執るべき行動ですがね」
室井沢先生はそれに何も返さなかった。でも、その沈黙は、神原さんの話を肯定してもいた。
「それでナノネットは、その事実を慌てて覆い隠そうとしました。既に半分はナノネットに侵されていた室井沢さんに幻覚を見せ、そして身代わりを立てた。ナノネットに殺された女生徒は、鷺沼静というのですが、その娘と似ている家出娘を探し出して来て、身代わりをさせたのです。
この学校のナノネットは、教師達も複数人取込んでいます。それで、補導された女の子の一人を引っ張って来たようですね」
「ちょっと待ってください」
わたしはそこまで聞いて口を挟んだ。
「いくらナノネットが幻覚を見せたり、人を操れたりできるのだとしても、そんなに長い間、誰かに他人の振りをさせるなんて事ができるのですか?」
実は室井沢先生から、人が入れ替わっているのじゃないかと聞かされてから、わたしはずっと疑問に思っていたんだ。そんな事が、本当にできるのかどうか。それを聞くと、神原さんはこう返した。
「確かに信じられないかもしれませんが、できたのですよ。鷺沼静は三年生でした。周りの生徒には既にナノネットが充分に染みているはずです。だから、無関心でいるよう仕向けさせるのは可能でしょう。そして更に、当の本人もそれに積極的に協力していたのです」
「当の本人?」
「鷺沼静の身代わりをさせられていた本人ですよ。実は、ある知り合いの探偵が意外にも思った以上の働きをしてくれまして、その本人を探し出してくれたのです。怯えていましたが宥めつつ話を聞いてみると、ずっと忘我の状態にあった訳ではなく、本人にも意識があったと告白してくれました。
初めは、家出している事情から身を隠す為にと思って協力しようと思ったようなのですが、後は状況の異様さと、何より正体不明のナノネットに怯えて、ずっと黙って鷺沼静の振りをし続けたようです。もしばらしたら、何をされるか分からないと考えていたようですね。不思議と、周囲の人間は誰も自分に積極的には関わろうとしなかったから隠し通せたと語っていましたよ。因みに卒業後に彼女は無事に解放されたようです。不幸中の幸いですね」
そう神原さんが語り終えると、室井沢先生は少しだけ「うう、」と唸り声を上げた。
「さて。問題はここからです。これだけなら、事件はこれで完結していたかもしれません。しかし、この学校のナノネットには主体が曖昧という奇妙な特性があった。アメーバーのように不定形で、くっ付いたり離れたりする。そして、更に分裂したナノネットの一部は、この学校ナノネットの敵になる場合もあるようなのです」
そう言った後で、神原さんはわたし達を見渡した。
「もっともこの点も、皆さん既に分かっているとは思いますが。そして、この繋がりが弱いという特性こそが、このナノネットの一番厄介な点だったのです。デリートしようと思っても、崩れてバラバラになれば逃げられてしまう。そして、相手を追い込めばどんな手段に出るかも分からない。消し損なえば、凶暴な行動を執る可能性もある。実際、人を殺していますしね、ここのナノネットは」
わたしはそれを聞いて、さっきナノネット達が凶暴化して、わたし達に襲いかかってきたのを思い出した。
「話を元に戻しますか。
これは推測ですが、分裂したナノネットの一部、学校ナノネットに敵対するナノネット達は、恐らく殺人を犯したという事実を曝し、それで学校ナノネットを攻撃しようとしたのではないかと考えられます。そして、鷺沼静の死体を何とか見つけようとこの場にアクセスした。それには、鷺沼静自身のナノネットも含まれてあったかもしれませんが。
そしてそれが、“真夜中に自分の死体を求めて彷徨う女の幽霊の怪談”の原型になったのだと考えられます。それに対抗する手段として、学校ナノネットが執った手段は非常に滑稽なものでした。
学校ナノネットは、なんと類似の噂話を量産したのです。真実を隠す為に、嘘の話を捏造しまくった。それで、“死体が存在する”という事実を誤魔化そうとしたようです。何かを探しているのだけど、それが死体とは限らなくて、重要なものだという。それと同時に、寮生の誰かにその夢を見させて、その夢を餌にし、自分達と敵対するナノネットにアクセスさせ、見つけ次第消去する、というこれまた奇妙な行動も執っていたようです。邪魔者の排除ですね。馬鹿げた手段ではありますが、これは一応上手くいっていたようです。この夢の中で寮生達の親に電話をかけさせていたのは、殺人を嘘にしてしまうのが狙いだったようです。ただ、これはやり過ぎです。その所為で、必要以上に目立ってしまった。
そして、その過程で妙な副産物が生まれてしまったのです。それこそが“例のアレ”。正体不明の宝物……。つまり、“例のアレ”など本当は存在しないのです」
わたしはそれを聞いておかしいと思った。学校ナノネットは自分達で嘘の話をたくさん捏造したのだという。なら、“例のアレ”が嘘だとも知っているはず。そこで、祭主くんが声を上げた。どうも、彼もわたしと同じ疑問を思ったようだ。
「それはおかしくありませんか? 何故、学校ナノネットが作った“例のアレ”を、学校ナノネット自身が本物だと信じているのです?」
「忘れましたか? ここのナノネット達は非常に主体性が曖昧なのですよ。だから結び付きが弱く、ネットワークが一時的にでも途切れれば、遮断された側のナノネットに情報は正しくは伝わらない。ブラックボックスです。そして、分裂したナノネットを誘き出す為に、実際にそれを探す行為が行われる。更に、ここのナノネット達は不定形ですから、ある時には結び付きが希薄になり、情報の真偽が不明になる、という事を繰り返すはずです。そうして、やがては、その情報はナノネット達の中で真実に変わってしまった。まぁ、ここのナノネットの知能が低い、という要因もありますが」
そう神原さんが説明すると、山瀬さんが納得したようにこう言った。
「ああ、よく分かるわ。確かに、あの連中ならそれくらいやりそう。自分達の嘘に自分達自身が騙されるくらい」
彼女は長い間、ここのナノネットに触れて来ているみたいだから、それが分かるのかもしれない。神原さんが続ける。
「ここのナノネットは、シンプルなルールならばそれを保持できるし、護る事もできるようです。例えば、殺人を犯さない。鷺沼静の時の失敗により、それが危険な行為であると認識した彼らは、それを禁忌としていたようです。ただし、その理由までは十分に理解していた訳ではないようですが。だから、鷺沼静には関わらない、などの単純なルールも護る事ができたし、鷺沼静に関する質問を受けた場合のマニュアルのようなものを覚える事もできた。
ただ、嘘の情報を流して相手を騙す、というような高度な行為は恐らく行えません。だから、自分達の嘘に自分達が騙されてしまったのでしょう。そもそも、相手を騙すとは主客の差が明確でなければ行えない。その差が曖昧な彼らには不可能だったのかもしれません。
さて。“例のアレ”の存在を知った私は、これを利用しようと考えました。しかし、その為には、二つほど乗り越えなくてはいけない障害があったのです。一つは、ナノネットに“例のアレ”を、誰かが見つけたと信じ込ませなくてはならないという事。もう一つは、“例のアレ”に意識を集中させる為に、ナノネット達を一度バラバラに分解しなければならない、という事」
そこまでを語って、神原さんはわたしを見た。
「ここで私は本多さんに謝らなければいけないかもしれません。私は一時的にその“誰か”の役を本多さんに担ってもらおうと考えたのです」
わたしはそれを聞いて目を丸くした。
「どういう事ですか?」
「もう分かっているとは思いますが、ここにいる室井沢先生は私の協力者です。先生は、生徒を殺されナノネットに騙された経験から、ここのナノネットを消去しなければならないと考えていた。それで私は協力を要請したのですよ。
そして、まずはあなたに働きかけて、鷺沼静の死体を発見する役割を演じてもらうよう頼んだのです」
“演じる”。
わたしはその言葉を聞いてハッとなった。恐らく意図的に神原さんはそんな言葉を使ったのだろう。室井沢先生が、わたしを誘って鷺沼静の死体を掘ったあれは、実は全て演技だったんだ。
「あの時のあれは嘘だったのですね。先生は指の骨なんか見つけていなかった」
それからわたしは、室井沢先生を見ながらそう言った。すると先生は、あっさりとそれを認める。
「うん。その通りだ。騙して悪いと思っているよ。あの指の骨は私がもともと用意していたもので、あそこで掘り起こしたものなんかじゃない。ナノマシンのカプセルを飲んだというのも嘘だ。
あの時の重要だったのは、君があの機械を持って何かを発見するという点だったんだ。あの機械は、ナノネットを撹乱する。ナノネットにとってみれば、何か異常な事が起こっているのに、それが何なのか分からないという状況下に陥る。
しかも、指の骨を発見したという君が感じた状況は、胡乱な情報のままナノネット達にもわずかばかり届く。後は、“例のアレ”を誰かが発見したという噂を流しさえすれば、容易にそれと結び付くって訳だ。もっとも、明確に君だと分かる訳じゃないけど」
そこで祭主くんが口を開いた。
「どうして、それが本多さんである必要があったんですか?」
そう質問する。やっぱり彼は、わたしを心配してくれているみたいだ……。
「それを決めたのは私です」
神原さんが応える。
「そして、理由は簡単ですよ。一つは、ナノネットに侵されていない人間を選ばなければならなかったから。彼女が合格なのは、君が観ているからほぼ確実でしょう。そしてもう一つは安全の為に、強力な者に護られている人間を選ぶべきだったからです」
そこまでを言って、神原さんはわたしと祭主くんを交互に見た。
「言うまでもなく、あなたは本多さんを見守っていました。その意味では、恐らく本多さんはナノネットに対して、この学校で一番安全な位置にいた。例え敵だと認識されても、祭主君が守っているのなら安心です。
更に言うのなら、実は私達は危険が及ぶ気配が少しでもあった時点で、“指の骨”を発見したのが本当は室井沢先生であるのを本多さんはナノネットにばらすと思っていたのですよ。ところが、私達の予想を超えて、本多さんは優しい子だったようで、それをやらなかった。室井沢先生を庇っていたのでしょうね」
祭主くんはそれを聞いて黙った。わたしも何も言えない。少しだけ頬が火照ってしまう。そこに口を挟んだのは、山瀬さんだった。
「初めから、室井沢先生がその役をやれば良かったじゃないですか」
その声には、少しだけ不機嫌な響きがあった。
「いえ、その前にまだ先生にはしてもらわなくちゃならない事があったので、時間稼ぎが必要だったのですよ。ナノネット達を騙す為には、先生はナノネットに敵対する何者かになってはいけなかったし、“例のアレ”を見つけた誰かになる訳にもいかなかった。だから、その間の“繋ぎ”を本多さんにしてもらおうと考えた訳です。
多分あなたも気付いているのじゃないかと思いますが、青色のアクセサリーや服などを身に付けている事を、ナノネットである目印にする、あのルールを設定させたのは、室井沢先生ですよ。その他にも、殺人を禁忌とするルールを強化させたりね。
そのルールを設定してもらった上で、私は青色をしたものを纏い、ナノネットに関与し、様々な情報を集めたり、働きかけをしたりしたのですが」
それを聞いてわたしは、神原さんが寮生と話していたあの日に、神原さんが濃い青色のジャンパーを纏っていたのを思い出した。あれは、そういう事だったのか……。
「さて。もちろん、準備はこれだけじゃ足りません。もう一つ、ナノネット達をバラバラに分解し、情報伝達を断つ、という事が必要だった。それにより接触し易くなるし、ナノネット達を互いに疑心暗鬼に陥れ、“例のアレ”への関心を強くさせる事ができます。また、“見えなくなる”事で“例のアレ”が本当に存在すると思わせ易くもなる。その為には、祭主くんが調査してくれた例のスポットが大いに役に立ちました……」
わたしが邪魔していたあの調査だ……。わたしはそれを聞いて少し恥ずかしくなった。