16.鬼ごっこ
(鬼役・本多真由)
山瀬さんとは教室で待ち合わせをした。教室はもう暗くて、わたしが行くと彼女は既にそこに来ていた。
「ふふふ。待ってたわ」
わたしが教室に足を踏み入れると、山瀬さんはそう言った。暗闇の中で、それが本当に彼女なのかわたしは疑ってしまう。でも、次の瞬間に灯りが来た。わたしは眩しさで目が少し痛くなる。彼女は懐中電灯を持って来ていたらしく、それでわたしを照らしたのだ。全身を照らしながら、彼女は何かを確認しているようだった。多分、わたしが濃い青色をしたものを身に付けていないか見ているのだろう。
「よし、合格。約束どおり、濃い青をしたものは何も身に付けて来なかったみたいね」
わたしはそれに何も返さなかった。元々言われなくても、濃い青色をしたものなんて、何も身に付けてはいなかったし。
それから山瀬さんは、「んふ。じゃ、プレゼントね」とそう言って、濃い青色をした髪飾りをわたしの髪につけた。
「え?」
思わず上げたわたしのその不思議そうな声に、山瀬さんはこう返した。
「これを身に付けていなさいな。これがなければ、あなたはナノネット達にとって、部外者になっちゃうから」
わたしは訳が分からずこう言った。
「だって、濃い青色をしたものを身に付けていたら、安全は保障できないって」
「そうよ。あなたが身に付けて来たら保障はできない。でも、あたしが用意する分には構わないの。と言うよりも、あたしが用意することにこそ意味があるの。今回の、催しものにはね」
意味が分からなかったけど、わたしはそれ以上何も言わなかった。言っても無駄なような気がしたから。きっと、何か反論しても強引にねじ伏せられてしまう。いつも彼女はそんなで、わたしがこういう口論で勝てた事は今までに一度もない。
「じゃ、そろそろ行こうか」
その次に山瀬さんはそう言って来た。
「行こうって?」
「やだな。ちゃんと言ったでしょう? 鬼ごっこに参加するって」
鬼ごっこ。
山瀬さんの言葉が本当ならば、それは例のアレを見つけた誰かを突き止めようという試みのはずだ。そして彼女は、わたしが例のアレを見つけたと思っている。本当は、そうじゃないけど。そう考えて、わたしは急に怖くなってしまった。彼女は、これから何をするつもりでいるのだろう?
「それに参加すると、何があるの?」
既に歩き始めてしまった彼女の後を追いながら、わたしはそう尋ねた。
「さぁ、何があるのかしらね。きっと、とても良い事があるわよ」
しかし、彼女はそうはぐらかしてそれには答えてくれない。一体、山瀬さんは何を企んでいるのだろう? それから、山瀬さんはこんな質問をして来た。
「ねぇ、そう言えば、祭主くんはどうしたの? アルバイトで話したりした?」
「してないわ。彼とは、少しもシフトが重ならないし、学校でもお互いに口を利かないし」
「あら、そうなの? もったいないわね。彼、無口だけど、けっこう良かったのじゃないかとあたしは思ってたのに」
そう言われて、わたしは無言になる。話したくても話せない事情があるんだ。山瀬さんは知らないかもしれないけど。しかし、それから彼女はこう続けてきた。
「冗談よ。真由には、彼は似合わないと思うわ。無口と無口が付き合ったら、だんまりなデートになっちゃうじゃない。もし結婚でもしたら、だんまり家庭のでき上がり。バランスが悪いわよ」
なんだかそう言った彼女は、とても機嫌が良さそうに見えた。いや、そもそもここで会った時から、彼女はずっと機嫌が良いみたいに思えるけど。ハイテンションで、自分を抑えられていないようにも思える。
「真由も彼も、パートナーには、もっとよく喋る人を選ぶべきだと思うのよね。例えば……」
それから彼女は少し悪戯っぽい視線をわたしに寄越してきた。
「例えば、あたしみたいな」
わたしはその言葉に仄かな戸惑いを感じる。それは、もしかしたら、彼女が祭主くんのパートナーになりたいという意味だろうか?
「とにかく、間違った組み合わせは、是正しなくちゃいけないわけよ。でも、安心して。今晩、それができるはずだから」
彼女のその言葉に、わたしはますます不安になった。本当に、山瀬さんは、一体何を企んでいるのだろう?
それから山瀬さんは、わたしを寮の前にまで連れて行った。何があるのだろう?と不思議に思っていると、少しの間の後で、寮生達がぞろぞろと出てきた。全員、何も喋っていない。間違いない。これは、ナノネットに意識を乗っ取られている状態だ。
個々の結び付きは感じられないのに、行動だけは一様に揃っている。それが、わたしには不気味に感じられた。
それから寮生達は、まるでわたし達を無視するかのようにそのまま通り過ぎて行った。山瀬さんはその様を当然のように見送る。どうも、彼女はナノネット達に慣れているようにわたしには思えた。そういえば、そもそも彼女はナノネットの存在を初めから知っていた。わたしは、一度も彼女にその存在を告げてはいないのに。どうして、彼女はナノネットを知っているのだろう?
わたしは、もしかしたら、山瀬さんはナノネットに憑かれているのじゃないかとそこで少し思った。あの室井沢先生が骨を見つけた時には憑かれていなくても、それからナノネットに取り込まれてしまったのじゃないかって。しかし、そこで彼女はこう言って来たのだった。
「断っておくけど、あたしはナノネットに操られてなんかいないわよ。だから、安心して」
それから、くすりと笑う。
「本当。真由って、直ぐに表情で考えている事が分かるんだから」
どうやら、わたしの表情は曇っていたらしい。だけど、それを聞いてもわたしは少しも安心できなかった。ナノネットに憑かれていなくても、彼女が何を考えているのか分からない点は同じだから。
少し前までは、彼女はわたしの仲の良い友達であったはずだ。正体不明なところなんかなくて、少しだけ意地の悪い時もあるにはあるけど、基本的には気楽に付き合えていた。それが、今は少しも彼女が分からない。彼女の中に化物が潜んでいるようにすら思える。
ナノネット達のほとんどがわたし達を通り過ぎてから、山瀬さんはわたしの腕を引っ張ってまた歩き始めた。表情で、「追うよ」とわたしに言っている。それから、わたしの直ぐ傍に寄ってくると、彼女は小声で「ナノネット達ってね、凄い馬鹿なの」と、そう囁いた。
「あたし、あれらと一緒にいて、すぐにそれに気が付いちゃった。事情を知らなくても、簡単に誤魔化せるし聞きだせる。ちょっと言えば、簡単に乗せてやれる。便利よ」
それから、そう説明してくる。
「真由とか、祭主くんはあいつらを恐れているみたいだけど、多分、恐れる必要なんてないと思うわ。安心していい」
きっと、ナノネット達を追う形にして少し距離を取ったのは、この話をわたしにする為だろう。彼女はわたしが不安そうなのが、ナノネットの所為だと思っているらしい。そうじゃなくて、わたしは何より山瀬さん本人から不安を感じているのに。そしてわたしはその会話で、彼女がナノネットを少し軽く見過ぎているとそう思った。ナノネット達は人を殺しているかもしれない。祭主くんはそう言っていた。危険な存在だとも。
その説明の後で、彼女はわたしをじっと見つめた。「だからね……」と、そう呟く。しかし、それから何も言わなかった。ただ、少しだけ悲しそうな目をしていた。その視線に、わたしはまた彼女が分からなくなった。さっきまでは、あんなにテンションが高かったのに。
それからは彼女は無言のまま歩き続けた。ナノネット達に付いて行く。一階の渡り廊下の出入り口から校舎に入ると階段を上がる。特別教室がある棟だから、きっとその内の一つを目指しているのだろう。怪談の舞台にもなっている化学室かもしれない。
わたしの予想通りに、化学室のある階に辿り着くと、ナノネット達はその方向を目指して進み始めた。角を曲がり、廊下を行く。無言でゾロゾロと歩いていく。暗い廊下に足音だけが響き渡り、誰も何も喋らない。義務的にこなす何か正体不明の儀式のようにそれは思え、個人の意思が完全に失われているかのようだった。いや、本当に失われているのだと思う。そして、わたしも、わたし達も今その一つになってしまっているんだ。
通り過ぎる教室の外からは、わずかに街灯の光が漏れて来ていて、不気味なその集団を照らしていた。
目がうつろ。ただ真っ直ぐにその集団は化学室を目指していた。ある教室を通り過ぎた時、わたしは背後に誰かの足音を聞いた気がした。ただの気の所為かもしれない。たくさんの足音が反響していた所為で、わたしの耳は少しおかしくなっていたから。それで、わたしの耳が幻を拾ってしまっただけなのかも。この状況から助け出してくれる誰かを期待して。わたしは緊張のあまり後ろを振り返る事ができず、それを確かめられなかったから分からないけど。
やがて、皆は化学室に入っていった。その奥を目指す。その時に、誰かの手がわたしの髪を触った。驚いて見ると、それは山瀬さんの手だった。
「真由、ごめんね」
え?
彼女はそう言うと、自分がわたしに安全の為だと言って渡した、濃い青の髪飾りをむしり取ってしまった。
「痛っ!」
わたしは小さくそう悲鳴を漏らす。すると、化学室に入った全員の視線がわたしに集中した。
山瀬さんはその視線に乗るようにして、わたしを懐中電灯で照らすとこう言った。
「この娘よ」
どういう事?
わたしはその視線と懐中電灯の灯り、その状況の全てに竦んでしまう。それから、山瀬さんは更に続けて、こう一言。
「今回の“鬼”は」
わたしの頭は、混乱した。
どうして? どうして山瀬さん? どうして、こんな事をするの? もしかしたら、彼女は本気で祭主くんが好きで、それで邪魔者のわたしを消そうとしている?
ナノネット達は、それからわたしを取り囲み始めた。わたしは化学室の奥に追い込まれていく。山瀬さんは既に懐中電灯の灯りを消していた。急速に光を奪われて、わたしの目はそれに追いつけず、暗闇の中で逃げ場を探す事もできなかった。
山瀬さんはそこで、こう言った。
「ほら、パンを食べさせなくちゃ。用意して来たのでしょう? 彼女を、我々の内に取り込むの。例のアレが手に入るわよ」
竦んでいるわたしを見て、彼女は恍惚とした表情を浮かべている。
その言葉を受けると、ナノネット達はポケットや鞄の中から、パンを数個取り出した。そして、それを千切るとわたしを押さえつけ、口に無理矢理に押し込め始める。抵抗したけど、抵抗し切れなかった。祭主くんが随分前のアルバイトの時、この学校のパンは食べない方が良いと忠告してくれていたのを、そこでわたしは思い出した。あの時も、彼はわたしを心配してくれていたんだ、とそう思う。この学校のパンにはナノマシンが入っていて……。それなのにわたしは、彼を不気味に思ってしまっていた。わたしはなんて悪い女なんだ。わたしは、わたしは、
山瀬さんが嬉しそうな顔をして、そんなわたしを見ているのが目に入った。先と同じ様に恍惚としている。そして、その背後。
その背後から近付く影があるのにわたしが気が付いたのだ。暗がりの中、涙でぼやけた視界でもそれが誰なのかが分かった。祭主くんだ。わたしは驚きつつも、これで助かると期待した。彼は、ナノネットに対してはかなり強いはずだ。本人がそう言っていた。しかし、それから祭主くんは何も動かなかったのだ。
なんで、助けてくれないの?
と、わたしは思う。
もしかしたら、彼はわたしを見捨てる気でいるのかもしれない。わたしは散々、彼を邪魔してしまった。彼の方が正しかったのに、彼の事を責め立てた。彼がそんなわたしを見限っても、無理もない。
わたしは、悪い存在だから。
パンがわたしの口に無理矢理にねじ込まれていく。わたしは抵抗する気をなくして、それを受け入れた。これは、当然の罰なのかもしれないとそう思いながら。そして、意識が徐々になくなり始めた。辺りが霞む。暗くなる。必要以上に、暗く。ナノネットに憑かれた人の意識がなくなると言うのは、こういう事なのかとわたしは思った。
ごめんなさい。祭主くん。
意識がなくなっていく中で、わたしは最後にそう思った。
………。
目が覚めると、祭主くんの顔があった。彼はとても優しそうな顔でわたしを見つめていた。そして、少し申し訳なさそうにしているようにも見えた。
それから祭主くんは、わたしの意識が戻った事に気が付いたのか、「ごめんね。本多さん」とそう言って来た。わたしはそれを聞いて不思議に思う。どうして、あなたがわたしに謝る必要があるの?
その時、背中に温かさを感じた。それで気が付く。わたしが彼の腕に抱かれているのだと。彼はわたしを抱きかかえていた。まだ朦朧とした意識の中、わたしはその事実にとても安心していた。
ああ、彼はわたしを許してくれるんだ、と。
朦朧としているわたしに向けて、祭主くんはこう言って来た。
「僕の能力は、複数のナノネットに同時に試した事がないんだ。だから、ナノネット達が君を調べようとした時に、君を通じて一つの塊になるのを待った。それなら、全員の動きを封じられるからね。それで助けるのが遅れてしまった。
本当は、君が無理矢理にパンを食べさせられている時に助けたかったのだけど」
わたしはそれを聞くと首を振った。そんなのは全然、気にしなくて良いと。そしてそれから、思わず顔を彼の腕にうずめた。
なんだか、とても嬉しかったからだ。彼と話せて、彼がわたしを見捨てていなくて。彼に謝らなくちゃいけない。
祭主くんは、わたしのそんな行動に少し驚いたようだった。その動揺を誤魔化す為か、妙に事務的な口調でこう言った。
「君の中のナノマシン同士の繋がりは除去したけど、ナノマシン自体はまだ生きている。ナノネット達がアクセスしようと思えば、直ぐにでもアクセスできる状態だ。早くにこの場所を離れた方が良いから、直ぐに移動するよ」
わたしは頷くと彼の肩を借りて、立ち上がった。気付くと、そこはまだ化学室で周囲にはナノネットに憑かれいたのだろう寮生達が倒れていた。
「大丈夫。気を失っているだけだよ。今なら、まだ僕の支配下にいるし」
祭主くんはそう説明してくれた。
そのまま彼の肩を借りて歩き、化学室を出ようとした。その時に彼はこう言った。
「一階の休憩所まで行くよ。あそこに人が待っているんだ」
しかし、その時だった。
ビュンッ
と、何かが空を切る音がしたかと思うと、祭主くんがその場で倒れてしまったのだ。そして声が、
「あたしの真由を、何処に連れていくつもりだ、この邪魔者!」
その声は、山瀬さんのものだった。