届かない コトバ
チョークを強く黒板に押し付けてしまった時。
激しく引きずったヤスリ。
そんな音の入り交じりが、不意打ちに頭の中に流れ込んできたら、どうしますか。
わたしは自転車の運転中だったのでフルブレーキを掛けました。
《ギチィ……》
『 ワタシ を 忘れないで』
《ギキィイイイイイ……!》
コレが痛みと共に聞こえ、ソレを打ち消すような摩擦音を感じ、戻ってきた感覚と身体を落ち着ける。
ザラザラとした『声』だ、そうか、声なのか、と理解した。
「誰に、忘れないでと…… 言いたかったの?」
痛む頭に届くいつもの騒音が、言葉として意味を持っていただなんて…… ホラー映画にそんな特殊な聴覚のお話を見つけるまでは想像もしていなかった。
わたしは自転車を停めて、再び聞こえたその『聞こえない声』に引き寄せられて、フラフラと進む。
聞こえてくる先には大きな家。
古びた玄関を潜って、ふと我に返った。
「わっ、わたし、何しようとして……!?」
不法侵入だ。
気づいたら塞がれていた門の板の隙間から、カバンを置き去りにしてまで入り込んでいた。
声の『感情』に振り回されていた。
……いいえ、まだ、気持ちは揺さぶられたままだ。
聞こえた『声』は増えている…… 助けて、来ないで、忘れないで、雑音に紛れた声は大きくなっていく。
ソレは女の子の声、だった。
わたしと同じくらいの、でも、もっとしっかりしたお姉さんみたいな、覚悟を持っている女性のような。
……どこから聞こえるのかを知りたくて、廃墟とも思える草木の繁茂した邸宅の庭に侵入した。
その『声』を頼りに進むと。
「物置小屋、だったのかな?」
板材など朽ちて倒壊したモノの山、その下から聞こえていた。
まだ『声』は聞こえているのに、でも内容は全然ハッキリしない。
《ウォブゥウウウウウウ……》
『助けて は、助けて』
《ギャザザザザザザザ……》
『 ワタシが 来ないで、イヤ、来るな 』
《シャサササササ……》
この意味を知りたい、けれどこの声だけでは何も分からない。
睨むように地面を見ていると、本物の声が掛けられた。
「そこに居るのは誰だ?」
「あっ!? す、スミマセン、わたし……」
言い訳が思い付かない。
……仕方なくあったコトのすべてを伝えると、その五十代なかばの男性は深く溜め息をついた。
彼は、お隣の家のご主人だった。
「つまり? 仕事帰りの途中で奇妙な声を聞き留め、侵入してしまった、と」
「はい。初めて『聞き取れた』というのもなんですが、そのコトバの意味するトコロが、中身が気になってしまいまして…… わたしはずっと漢方薬を飲んできましたが、治らないと思っていた、この、たまに聞こえていた幻聴に感情があるなんて…… うう?」
また『声』が繰り返される。
閑散としているというか平和な、そんな場所で頭に響いたコトバが『忘れないで』とはなぜなのか。
「その、聞こえるというのは、死者の声とか、そういうコトなのかね」
「聞こえたばかりで、分かりません。でも、たぶん」
幼い頃からの付き合いである、ストレスからくる『難聴』と診断されていた自分の聴覚は、もっと頻度が高かったらメニエール病と指定されるトコロだった。
処方された漢方薬は落ち着くモノなのでキライじゃなかったけれど、長く飲み続けてしまって効果はもう感じない。
「その声が、そこから聞こえる、と言ったね?」
「はい、忘れないで、と。ほかにも誰かを助けて、とか、来ないで、とか…… 聞き取れない場所もあって」
「……ここは、心を悪くした女性の持ち家だった。母屋は平屋の年季の入った木造建築だったんだが見る影もない。ずっと親族が見つからず手も加えられず、見ての通りになったんだ。まぁ親族が見つかっても遠すぎるとかで、巡りめぐって私が面倒を見るハメになった厄介なボロ屋さ」
男性に話を聞くと、家の持ち主は夢遊病のような状態で徘徊し、事故で亡くなっており、親族との折り合いが悪かったのか誰とも連絡が取れなかったそう。
お子さんがひとり居たと言うが、彼女は行方不明だった。
「せめてあのおとなしい娘さんと連絡ができたならなぁ…… こじれもせず、どうにかなったんだが」
邸宅は放置されてきたが、遠くに住んでいる親族が見つかり、しかし気まぐれな意思表示をするので取り壊すコトもできない。
誰のモノともできない状態が続き十年以上このままだった。
「そのボロ屋に、死者の声…… か。お嬢さん、その声って女の子、だと言ったね? いくつくらいだと思う?」
「わたしと同じくらい、かな。もう少ししっかりしてるイメージですが」
「失礼、キミは何歳?」
「二十歳になりました」
年齢を聞いた男性は再び黙り…… 行方不明だという女の子が、ちょうど二十歳前に居なくなったと呟きました。
「彼女と同じくらいの女の子が、奇妙な声を聞いた、か……」
彼は、ソレ以上なにを言うコトもなく出ていくように指示だけをして立ち去りました。
残されたわたしは、まだ納得できる答えがなく、モヤモヤして考えました。
「……もし、もしも。行方不明の女の子が、この廃墟のどこかで殺された、というのなら」
最初に聞こえた『忘れないで』は、自分の名前、存在を忘れてほしくなかった?
誰に、忘れて欲しくなかったのか、といえば母親だろう。
心を悪くしたというのは、認知症の言い方だ。
親しいヒトが、自分を忘れるだなんて、苦しいコトだもの。
では、そのあとの『助けて』と『来ないで』は?
言葉に間があったから、誰か別のヒトを指してるのかも?
瞬間、足元を黒い虫が駆け抜けました。
声にならない声を上げ、わたしは逃げました。
でも、その瞬間にまたあの声がしたんです。
『来ないで!』
虫に、反応したように思えました。
彼女は死ぬ間際、この虫に悩まされていたのでしょうか。
わたしの耳には、この家を出るまでずっと様々な声が聞こえていたのです。
☆
帰宅してから、ふと思い返しました。
あの黒い虫を、怖がるなら。
「なぜ『来ないで』という言葉になったの?」
あの時、残骸の山を蹴るか踏んでしまったせいで焦げ茶色の虫が走った。
瞬間、声が『来ないで!』と…… たぶん娘さんだろう声が避けていたのは虫、で間違いない。
「幽霊でもGがキライなのか、なんて思ったけれど…… それならおかしい言葉なのよね」
声の主がGを避けていたのなら、来ないで、ではなくただ逃げているだけだろうから。
スマホで流していたホラー映画にそんなシーンがあって、声の反応に重なった。
「『来ないで』となるのは逃げられないから。そう言った理由は、地下室などに『閉じ込められ、かつ、ソレが徘徊しつづける暗闇に取り残されていた』からじゃないと、来ないでとは言わない……」
彼女は閉じ込められて、そのまま衰弱死したのではないか?
……でもソレが解ったからといって、ソレはきっと昔のコトで、今さら誰も救われない。
なのに、あの『音』はわたしに聞こえた。
助けを求める『届かなかった悲鳴』は、耳に残っている。
この話を警察への投書にまとめ、わたしはコレを忘れるようにした。
思い返し、また不法侵入するワケにはいかないもの。
しばらくして、あの邸宅の地下からふたりの遺体が発見されたというニュースがスマホに流れた。
ひとりは女性、そしてひとりは乳幼児。
わたしの耳に入り、ソレがあの邸宅だとイメージが繋がるまで時間がかかって…… 大学の構内だというのに、あの女の子の『忘れないで』という切ない声と、合間に挟まっていた雑音の正体が赤ちゃんの声だと気づいて、不意に涙になって流れた。
たぶん、おとなりの男性が動いてくれたのだろう。
自分の投書だけで発見になったとは思わない。
「……助けてって、赤ちゃんだったんだ。守りたかったんだ。だから、逃げられなくて、くるな、来ないでって……!」
わたしはたぶん、顔も知らない彼女たちの夢を見るだろう。
母親に忘れられたくない気持ちも、赤ちゃんを助けたい気持ちも解らないけれど、虫を嫌がる気持は解る。
なんとも情けない弔いの心だけど。
「だけど、見付けてもらえて、良かった、よね……」
……終わり?
不意打ちの音 誰に向かって 鳴り響く……




