白梅
山南敬助が戻らぬと知った夜、明里は島原の座敷にいた。
いつものように灯は入り、いつものように三味線は鳴り、客は笑った。世の中には、明日首が落ちる者があろうと、二度と逢えぬ人を待つ者があろうと、かまわず夜を明るくする場所がある。島原とは、そういうところであった。
明里は膝の上に手を重ね、ただ黙っていた。
山南はんは、もう来はらへん。
誰がそう告げたわけではない。けれど女には、ときに知らせより早く、胸に届くものがある。
あの人は、別れを言いに来るようなお人ではない。
そしてまた、別れを言いに来られるようなお人でもない。
新選組というものが、そういう場所であることを、明里は知っていた。あそこでは、人の情よりも掟が重い。涙よりも刀が早い。どれほど優しい目をした男でも、いったんその中に身を置けば、最後は武士として裁かれる。
障子の外に、白梅が咲いていた。
「これは、白梅どす」
いつぞや、そう教えたことがある。
山南はその花をしばらく眺めてから、少し恥じたように笑った。
「桜かと思いました」
武士というものは不思議である。人の急所は寸分たがわず見抜くのに、花の名ひとつ知らぬことがある。命を捨てる覚悟はできているのに、女の冗談には困った顔をすることがある。
明里はその笑顔を思い出し、唇を噛んだ。
泣いてはならぬと思った。
泣けば、客に見られる。
見られれば、笑いものになる。
笑いものになるくらいならまだよい。山南という名を、こんな座敷の噂にしてしまうことだけは、どうしてもできなかった。
同じころ、山南は屯所の一室にいた。
夜は静かであった。あまりに静かで、世の中から自分ひとりが切り離されたようであった。
文を書こうと思えば、書けた。
明里へ、ひと言だけでも残そうと思えば、残せた。
しかし山南は、筆を取らなかった。
書けば、残る。
残れば、あの人は読む。
読めば、泣く。
それだけのことが、今の山南には耐えがたかった。
人は死ぬとき、己のために何かを残したがる。名を残し、言葉を残し、心を残そうとする。だが、ほんとうに大事な相手には、何も残さぬほうがよいこともある。
山南は目を閉じた。
浮かんだのは、島原の灯であった。畳に落ちる影。袖で口もとを隠す明里の笑み。そして、白い花の名を教えてくれた、あの柔らかな声。
白梅。
ようやく覚えたその名を、山南は胸の内で一度だけ呼んだ。
翌朝、京の空は薄く晴れていた。
山南敬助は、乱れず座したという。最後の息をどう継いだのか、何を思ったのか、それを明里に伝える者はいなかった。
ただ、春が来るたび、島原には白梅が咲いた。
明里はその花の前で足を止める。誰にも聞こえぬほどの声で、そっと言う。
「山南はん、今年も咲きましたえ」
返事はない。
返事はないが、枝を渡る風が、ほんの少しだけ花を揺らす。
人はそれを、ただの風と言うかもしれぬ。
けれど明里には、そうは思えなかった。
あの人は、別れを言わなかったのではない。
言えなかったのである。
そして自分も、見送らなかったのではない。
見送ることさえ、許されなかったのである。
白梅は、今年も何も知らぬ顔で咲いていた。
白く、静かに、うつくしく。
まるで、逢えなかった二人のためにだけ、春がそこへ戻ってくるように。




