表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史

白梅

作者: くるみ
掲載日:2026/05/07

山南敬助が戻らぬと知った夜、明里は島原の座敷にいた。


いつものように灯は入り、いつものように三味線は鳴り、客は笑った。世の中には、明日首が落ちる者があろうと、二度と逢えぬ人を待つ者があろうと、かまわず夜を明るくする場所がある。島原とは、そういうところであった。


明里は膝の上に手を重ね、ただ黙っていた。


山南はんは、もう来はらへん。


誰がそう告げたわけではない。けれど女には、ときに知らせより早く、胸に届くものがある。

あの人は、別れを言いに来るようなお人ではない。

そしてまた、別れを言いに来られるようなお人でもない。


新選組というものが、そういう場所であることを、明里は知っていた。あそこでは、人の情よりも掟が重い。涙よりも刀が早い。どれほど優しい目をした男でも、いったんその中に身を置けば、最後は武士として裁かれる。

障子の外に、白梅が咲いていた。


「これは、白梅どす」


いつぞや、そう教えたことがある。

山南はその花をしばらく眺めてから、少し恥じたように笑った。


「桜かと思いました」


武士というものは不思議である。人の急所は寸分たがわず見抜くのに、花の名ひとつ知らぬことがある。命を捨てる覚悟はできているのに、女の冗談には困った顔をすることがある。

明里はその笑顔を思い出し、唇を噛んだ。


泣いてはならぬと思った。

泣けば、客に見られる。

見られれば、笑いものになる。

笑いものになるくらいならまだよい。山南という名を、こんな座敷の噂にしてしまうことだけは、どうしてもできなかった。



同じころ、山南は屯所の一室にいた。

夜は静かであった。あまりに静かで、世の中から自分ひとりが切り離されたようであった。


文を書こうと思えば、書けた。

明里へ、ひと言だけでも残そうと思えば、残せた。

しかし山南は、筆を取らなかった。

書けば、残る。

残れば、あの人は読む。

読めば、泣く。

それだけのことが、今の山南には耐えがたかった。


人は死ぬとき、己のために何かを残したがる。名を残し、言葉を残し、心を残そうとする。だが、ほんとうに大事な相手には、何も残さぬほうがよいこともある。


山南は目を閉じた。

浮かんだのは、島原の灯であった。畳に落ちる影。袖で口もとを隠す明里の笑み。そして、白い花の名を教えてくれた、あの柔らかな声。

白梅。

ようやく覚えたその名を、山南は胸の内で一度だけ呼んだ。



翌朝、京の空は薄く晴れていた。

山南敬助は、乱れず座したという。最後の息をどう継いだのか、何を思ったのか、それを明里に伝える者はいなかった。


ただ、春が来るたび、島原には白梅が咲いた。

明里はその花の前で足を止める。誰にも聞こえぬほどの声で、そっと言う。


「山南はん、今年も咲きましたえ」


返事はない。

返事はないが、枝を渡る風が、ほんの少しだけ花を揺らす。

人はそれを、ただの風と言うかもしれぬ。

けれど明里には、そうは思えなかった。


あの人は、別れを言わなかったのではない。

言えなかったのである。

そして自分も、見送らなかったのではない。

見送ることさえ、許されなかったのである。


白梅は、今年も何も知らぬ顔で咲いていた。

白く、静かに、うつくしく。

まるで、逢えなかった二人のためにだけ、春がそこへ戻ってくるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ