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合わせ鏡の列車

作者: TOMMY
掲載日:2026/02/28

プシューという空気が抜ける音。

それとともに車両のドアが開いた。


電車の中に足を踏み入れた瞬間、頭の中に稲妻のような違和感が走った。


ここは、いつもの通勤電車のはずだった。


プシュー。

背後のドアがゆっくりと閉まる。


外の景色が、ぬるりと動いた。

窓の景色は、まるでディスプレイに映る映像のように流れていく。

気味が悪いほど滑らかに。


私の耳はあるはずのものを探していた。


──車両の中に、音がない。


線路を滑る走行音も車両内の物音もない、無音の空間。

耳は音を探し続け、自らの鼓動を捉えている。キーンという耳鳴り。

それは、まだ耳が機能していることを私に伝えた。


人はいる。

けれど、意志のない人形のように見えた。


手すりに頭を傾げる人。

窓に頭を垂れる人。

背筋を正して瞑想する人。


みんな、目を閉じていた。


──生きては、いる。

かすかな肩の上下と肌に宿る体温は、かろうじて「生きた人間」だと語っていた。


ふと、目を閉じた乗客の一人の口元が、わずかに笑っている気がした。

その笑みは、揺れに合わせて機械的に上下していた。


私の足は、この空間を拒絶していた。

小さく震え、立っていることに焦れていた。


いつもように横長の青いシートに座る。

その座席は身体を包み込むようにわずかに窪んでいる。

座った瞬間、両側から支えられるように座席が動いたような気がして、ビクリと身体を震わせた。


座面が、ほんのわずかに脈打った。


……いつもと違う。

背骨が静かに熱を持った。


しかし、それ以上は何も起こらず、徐々に緊張した力は抜けていった。


背もたれは適度に硬い。

でも、ゆっくりと私の背中に合わせるように、形を変えていくのがわかった。


まぶたがとても重い。

視界が白くまどろむ。


私の身体の方が、この座席に馴染んでいくように思えた。


──心地よい。

座っただけなのに、どんどん力が抜けていく。


まぶたが重さに負けて閉じようとした刹那、鼻に違和感が通った。


ツンとしたアルコールのような匂い。

消毒液の記憶が蘇る。


私は重たい身体に無理やり電気を送るように立ち上がる。


「はぁ、はぁ」


重い呼吸が口から勝手に出る。

リラックスしていたと、思っていた。

いや、思わされていた。


私の身体は内側から冷え、記憶にない疲労が、骨の奥に沈んでいる。


どこか、前方に引かれる感覚があった。


車両を見回すと、全身の筋肉が暴れるように鳥肌が波打った。


──車両の奥が果てしなく続いている。


まるで合わせ鏡の中のように同じ車両が連鎖していた。

その終端はまったく見えない。


やがて列車はカーブに差し掛かった。


同じ角度、同じ周期で揺れる吊革。

その数は視界の奥へと増殖し、

狂いのない軌道で宙を往復していた。


するとその隙間から──

ぬっと、スーツ姿の男がひとり、私を見ていた。


揺れているのは身体ではない。

目だけが、私を追っている。


次の車両にも。

その次にも。


私はとっさに目を伏せた。


見てはいけない。

そう自分に言い聞かせた。

けれど、背中から禍々しい視線を感じてしまっていた。


私の首は、油の切れた歯車のようにぎこちなく振り返っていく。

その行動を頭が酷く拒絶している。

でも、首は止まってくれなかった。


そこには──


私がいた。


首を後ろに向けた私。

その奥にも、ぎこちない動作の私。

そのまた奥にも、列車に揺れている私。


呆気に取られながら、私は指をそっとズボンに触れさせた。


すると無限に複製された私の指たちは、

すべてズボンに触れていた。


私は目が離せなかった。

私の背中を見続け、頭を少し傾げた。


「……ん!?」


視線の先の私の動作は、まるで波打つようにちょっとずつ遅れているように見えた。


試しにゆっくりと手を上下させてみる。

すると視線の先の私の手は、何度も波打っ

てみせた。


私はある仮説を立てた。


そこに恐怖などなかった。

あるのは、確かめたいという好奇心だけ。


私は次の車両に向けて歩き出した。

磨かれた床は外の光を反射させている。

けれど、踏みしめた足音だけは、跳ね返さなかった。


無音な空間を歩き、次の車両に移動する。


そこにはさっきと同じ、横長の青いシートに、違う人々が目を閉じていた。


思っていた仮説は崩れ落ちた。

過去と未来の狭間に、私はいるのだと思っていた。

でも、違う。仮説は間違っていた。


私は振り向いてさっきの車両を見つめた。

きっと少し遅れて動く私が、連なっているのだろう。

そう思って、油断していた。


──ギロリ。


……スーツ姿の男性が私を睨んでいる。


全身の神経が瞬間的に切断されたようだった。


ひと車両にひとり。

揺れに合わせて波打つ男性たち。

視線だけが私を追いかけてくる。


……その顔はどこか私に似ていた。


すると突然、視界が明滅した。

青いシートに人が増えた。


そこに、私がいた。


私は呼吸のやり方を忘れ、その光景を凝視する。


身体をビクリとさせる私。

どこか力が抜けていく私。

そして、まどろんでいく私。


そこには先刻の私がいた。

ついさっきの出来事が繰り返されている。


──しかし、

どれだけ待っても、

その私は目を開けなかった。


頭の中を疑問が駆け抜ける。


この私は、”いつの私”なのだろうか?


頭に砂が詰まったように、思考が軋む。


──プシュー。


頭の空気が抜けたのかと周囲を見渡して、ほっと息を吐く。


車両のドアが開いた音。

久しぶりに聞いたその音で、私は意識を取り戻した。


頭のどこかで記憶が明滅する。

そこは、私が降りるべき終点だった。


ドアの向こうからスーツ姿の男が口を開いた。


「また、ここで降りますか?」


光が差し込む。

白い。

眩しいほどに白い。


その色に、私は一瞬だけ目を細めた。


消毒液の匂い。

無機質な天井。

規則的な電子音。


白い光の下で、私は何かを強く願っていた。


──あのとき。


胸の奥が軋む。


ここで降りれば、あの白の続きが待っている。

降りなければ、別の続きが。


私は男の瞳を見つめた。

そこに映っているのは、私だ。


割れた鏡のように、ひびの入った私。


だめだ。


私は男の手を引き、電車の中に強く引き込む。

男は床に膝をついた。


私は、シートに座る私を揺り起こした。

続けざまに前方の車両に走り、その中の私を引き連れた。


男は懐からナイフを取り出した。


銀色の刃が、無音の車内でわずかに光る。


「あなたは、毎回ここで死にます」


その声は揺れなかった。

けれど、その瞳の奥に、わずかな焦りが滲んだ。


男の瞳には、怒りではなく安堵があった。

私が繰り返す限り、彼は存在できるのだ。


次の瞬間、刃はシートに座る私の胸へ沈んだ。


目を閉じた私は、びくりと震え、

血が青いシートに滲んでいく。


世界は、何も反応しない。


また同じだ。

また繰り返す。


そのはずだった。


「起きろ!」


私は、刺された私の肩を掴んだ。


「終わらせるぞ!」


その声は、自分でも驚くほど静かだった。


閉じていた瞼が、震える。


もう一人の私が、男の腕を押さえ込む。


「あなたは、願いの残骸です」


男がそう言った瞬間──


刺された私は、目を開いた。


初めて、この世界で。


その瞳は、私と同じ怒りを宿していた。


三人の私は、同時に男を押し倒す。


無限に続いていた車両の奥から、

幾千もの私が立ち上がる。


吊革が激しく揺れた。


無音が、ひび割れる。


私は、私の胸に刺さったナイフを引き抜き、

男の胸へ突き立てた。


刃が沈んだ瞬間──


轟音が戻る。


ゴオオオオオ、と走行音が爆ぜる。


窓の外の景色が崩れ、

無限の車両が硝子のように砕け散る。


眠っていた私たちが、光の粒となって

ひとつに収束していく。


男の身体は、煙のように消えた。


最後に残ったのは、私ひとり。


開いたままのドアから風が吹き込んだ。


音がある。

匂いがある。

温度がある。


鼓動が確かに胸を叩いている。


──プシュー。

ゆっくりとドアが閉まった。


ガタンゴトンと小気味よい音を立てて、列車は進み出した。


私はシートに倒れるように座り、疲れ果てた身体をそこに沈めた。

けれど、決して目はつぶらない。

私は前を向くのだ。


──透き通った思考の中で、ある疑問が浮かぶ。


過去の私は”やり直すこと”を繰り返していた。

その私たちが、あのとき、なぜ戦うことを選んだのだろうか。


外の景色は、滑らかに流れている。


……そのはずだった。


ほんの一瞬だけ、

景色が私より遅れた。


私の視線より、わずかに。


その瞬間、鼓動が一拍遅れた。

私の中で、何かが繋がった。


すると、隣の車両で声が聞こえた。


「あなたは、毎回ここで終わり──」


その声は、もう脅しではなかった。


宣告だった。


私は立ち上がる。


前方から風が吹く。

確かに、未来が私を引いている。


だが、その瞬間。


背後で、何かが軋んだ。


振り返らないと決めたはずなのに、

私はわずかに目だけを動かしてしまう。


そこには、目を閉じた私たちがいる。


無数の、私。


起きなかった私。

戦わなかった私。

降りることを選んだ私。

降りられなかった私。


その全員が、

この瞬間に、静かに崩れていく。


砂のように。

光の粒のように。


私は理解する。


私は彼女たちを、使ったのだ。


砂が喉に残る。

それが、誰のものかは分かっている。


胸が痛む。


それでも。


前方からの力は止まらない。


未来は、残酷だ。


一つしか選べない。


私は目を閉じない。


崩れていく私たちを、

最後まで見守る。


「ありがとう」とは言わない。

「ごめん」とも言わない。


それでも私は進む。


その罪ごと、抱えて。


列車が加速する。


今度は止まらない。


私は未来に引き込まれる。

私だけが、生き残る。


それが、私だけの未来なのだ。

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― 新着の感想 ―
 無音の状況も異様ですが、無限に近そうな電車と別のif版な自分との対面が、ナイフと共に迫るのも相当インパクトでかそうですね。  戸惑いながらもヒロインが驚異から抗い、立ち向かえなかった自分と別離したこ…
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