合わせ鏡の列車
プシューという空気が抜ける音。
それとともに車両のドアが開いた。
電車の中に足を踏み入れた瞬間、頭の中に稲妻のような違和感が走った。
ここは、いつもの通勤電車のはずだった。
プシュー。
背後のドアがゆっくりと閉まる。
外の景色が、ぬるりと動いた。
窓の景色は、まるでディスプレイに映る映像のように流れていく。
気味が悪いほど滑らかに。
私の耳はあるはずのものを探していた。
──車両の中に、音がない。
線路を滑る走行音も車両内の物音もない、無音の空間。
耳は音を探し続け、自らの鼓動を捉えている。キーンという耳鳴り。
それは、まだ耳が機能していることを私に伝えた。
人はいる。
けれど、意志のない人形のように見えた。
手すりに頭を傾げる人。
窓に頭を垂れる人。
背筋を正して瞑想する人。
みんな、目を閉じていた。
──生きては、いる。
かすかな肩の上下と肌に宿る体温は、かろうじて「生きた人間」だと語っていた。
ふと、目を閉じた乗客の一人の口元が、わずかに笑っている気がした。
その笑みは、揺れに合わせて機械的に上下していた。
私の足は、この空間を拒絶していた。
小さく震え、立っていることに焦れていた。
いつもように横長の青いシートに座る。
その座席は身体を包み込むようにわずかに窪んでいる。
座った瞬間、両側から支えられるように座席が動いたような気がして、ビクリと身体を震わせた。
座面が、ほんのわずかに脈打った。
……いつもと違う。
背骨が静かに熱を持った。
しかし、それ以上は何も起こらず、徐々に緊張した力は抜けていった。
背もたれは適度に硬い。
でも、ゆっくりと私の背中に合わせるように、形を変えていくのがわかった。
まぶたがとても重い。
視界が白くまどろむ。
私の身体の方が、この座席に馴染んでいくように思えた。
──心地よい。
座っただけなのに、どんどん力が抜けていく。
まぶたが重さに負けて閉じようとした刹那、鼻に違和感が通った。
ツンとしたアルコールのような匂い。
消毒液の記憶が蘇る。
私は重たい身体に無理やり電気を送るように立ち上がる。
「はぁ、はぁ」
重い呼吸が口から勝手に出る。
リラックスしていたと、思っていた。
いや、思わされていた。
私の身体は内側から冷え、記憶にない疲労が、骨の奥に沈んでいる。
どこか、前方に引かれる感覚があった。
車両を見回すと、全身の筋肉が暴れるように鳥肌が波打った。
──車両の奥が果てしなく続いている。
まるで合わせ鏡の中のように同じ車両が連鎖していた。
その終端はまったく見えない。
やがて列車はカーブに差し掛かった。
同じ角度、同じ周期で揺れる吊革。
その数は視界の奥へと増殖し、
狂いのない軌道で宙を往復していた。
するとその隙間から──
ぬっと、スーツ姿の男がひとり、私を見ていた。
揺れているのは身体ではない。
目だけが、私を追っている。
次の車両にも。
その次にも。
私はとっさに目を伏せた。
見てはいけない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、背中から禍々しい視線を感じてしまっていた。
私の首は、油の切れた歯車のようにぎこちなく振り返っていく。
その行動を頭が酷く拒絶している。
でも、首は止まってくれなかった。
そこには──
私がいた。
首を後ろに向けた私。
その奥にも、ぎこちない動作の私。
そのまた奥にも、列車に揺れている私。
呆気に取られながら、私は指をそっとズボンに触れさせた。
すると無限に複製された私の指たちは、
すべてズボンに触れていた。
私は目が離せなかった。
私の背中を見続け、頭を少し傾げた。
「……ん!?」
視線の先の私の動作は、まるで波打つようにちょっとずつ遅れているように見えた。
試しにゆっくりと手を上下させてみる。
すると視線の先の私の手は、何度も波打っ
てみせた。
私はある仮説を立てた。
そこに恐怖などなかった。
あるのは、確かめたいという好奇心だけ。
私は次の車両に向けて歩き出した。
磨かれた床は外の光を反射させている。
けれど、踏みしめた足音だけは、跳ね返さなかった。
無音な空間を歩き、次の車両に移動する。
そこにはさっきと同じ、横長の青いシートに、違う人々が目を閉じていた。
思っていた仮説は崩れ落ちた。
過去と未来の狭間に、私はいるのだと思っていた。
でも、違う。仮説は間違っていた。
私は振り向いてさっきの車両を見つめた。
きっと少し遅れて動く私が、連なっているのだろう。
そう思って、油断していた。
──ギロリ。
……スーツ姿の男性が私を睨んでいる。
全身の神経が瞬間的に切断されたようだった。
ひと車両にひとり。
揺れに合わせて波打つ男性たち。
視線だけが私を追いかけてくる。
……その顔はどこか私に似ていた。
すると突然、視界が明滅した。
青いシートに人が増えた。
そこに、私がいた。
私は呼吸のやり方を忘れ、その光景を凝視する。
身体をビクリとさせる私。
どこか力が抜けていく私。
そして、まどろんでいく私。
そこには先刻の私がいた。
ついさっきの出来事が繰り返されている。
──しかし、
どれだけ待っても、
その私は目を開けなかった。
頭の中を疑問が駆け抜ける。
この私は、”いつの私”なのだろうか?
頭に砂が詰まったように、思考が軋む。
──プシュー。
頭の空気が抜けたのかと周囲を見渡して、ほっと息を吐く。
車両のドアが開いた音。
久しぶりに聞いたその音で、私は意識を取り戻した。
頭のどこかで記憶が明滅する。
そこは、私が降りるべき終点だった。
ドアの向こうからスーツ姿の男が口を開いた。
「また、ここで降りますか?」
光が差し込む。
白い。
眩しいほどに白い。
その色に、私は一瞬だけ目を細めた。
消毒液の匂い。
無機質な天井。
規則的な電子音。
白い光の下で、私は何かを強く願っていた。
──あのとき。
胸の奥が軋む。
ここで降りれば、あの白の続きが待っている。
降りなければ、別の続きが。
私は男の瞳を見つめた。
そこに映っているのは、私だ。
割れた鏡のように、ひびの入った私。
だめだ。
私は男の手を引き、電車の中に強く引き込む。
男は床に膝をついた。
私は、シートに座る私を揺り起こした。
続けざまに前方の車両に走り、その中の私を引き連れた。
男は懐からナイフを取り出した。
銀色の刃が、無音の車内でわずかに光る。
「あなたは、毎回ここで死にます」
その声は揺れなかった。
けれど、その瞳の奥に、わずかな焦りが滲んだ。
男の瞳には、怒りではなく安堵があった。
私が繰り返す限り、彼は存在できるのだ。
次の瞬間、刃はシートに座る私の胸へ沈んだ。
目を閉じた私は、びくりと震え、
血が青いシートに滲んでいく。
世界は、何も反応しない。
また同じだ。
また繰り返す。
そのはずだった。
「起きろ!」
私は、刺された私の肩を掴んだ。
「終わらせるぞ!」
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
閉じていた瞼が、震える。
もう一人の私が、男の腕を押さえ込む。
「あなたは、願いの残骸です」
男がそう言った瞬間──
刺された私は、目を開いた。
初めて、この世界で。
その瞳は、私と同じ怒りを宿していた。
三人の私は、同時に男を押し倒す。
無限に続いていた車両の奥から、
幾千もの私が立ち上がる。
吊革が激しく揺れた。
無音が、ひび割れる。
私は、私の胸に刺さったナイフを引き抜き、
男の胸へ突き立てた。
刃が沈んだ瞬間──
轟音が戻る。
ゴオオオオオ、と走行音が爆ぜる。
窓の外の景色が崩れ、
無限の車両が硝子のように砕け散る。
眠っていた私たちが、光の粒となって
ひとつに収束していく。
男の身体は、煙のように消えた。
最後に残ったのは、私ひとり。
開いたままのドアから風が吹き込んだ。
音がある。
匂いがある。
温度がある。
鼓動が確かに胸を叩いている。
──プシュー。
ゆっくりとドアが閉まった。
ガタンゴトンと小気味よい音を立てて、列車は進み出した。
私はシートに倒れるように座り、疲れ果てた身体をそこに沈めた。
けれど、決して目はつぶらない。
私は前を向くのだ。
──透き通った思考の中で、ある疑問が浮かぶ。
過去の私は”やり直すこと”を繰り返していた。
その私たちが、あのとき、なぜ戦うことを選んだのだろうか。
外の景色は、滑らかに流れている。
……そのはずだった。
ほんの一瞬だけ、
景色が私より遅れた。
私の視線より、わずかに。
その瞬間、鼓動が一拍遅れた。
私の中で、何かが繋がった。
すると、隣の車両で声が聞こえた。
「あなたは、毎回ここで終わり──」
その声は、もう脅しではなかった。
宣告だった。
私は立ち上がる。
前方から風が吹く。
確かに、未来が私を引いている。
だが、その瞬間。
背後で、何かが軋んだ。
振り返らないと決めたはずなのに、
私はわずかに目だけを動かしてしまう。
そこには、目を閉じた私たちがいる。
無数の、私。
起きなかった私。
戦わなかった私。
降りることを選んだ私。
降りられなかった私。
その全員が、
この瞬間に、静かに崩れていく。
砂のように。
光の粒のように。
私は理解する。
私は彼女たちを、使ったのだ。
砂が喉に残る。
それが、誰のものかは分かっている。
胸が痛む。
それでも。
前方からの力は止まらない。
未来は、残酷だ。
一つしか選べない。
私は目を閉じない。
崩れていく私たちを、
最後まで見守る。
「ありがとう」とは言わない。
「ごめん」とも言わない。
それでも私は進む。
その罪ごと、抱えて。
列車が加速する。
今度は止まらない。
私は未来に引き込まれる。
私だけが、生き残る。
それが、私だけの未来なのだ。




