鏡越しのあなた
「伸びたね」
涼太は白いケープの上に広がる茉優の髪に触れる。
閉店時間を過ぎた店。音楽すら流れていない店内に二人しかいないのはいつもの景色だ。
だけど目の前にある大きな鏡越しに見る涼太が、顔見知りの顔から一気に美容師の顔になるのには毎回ドキリとする。
「伸ばしてどれくらい?」
「もうすぐ三年かな」
「もうそんなになる?」
ポツリと呟いた涼太の言葉の意味を深く追求する勇気はなかった。その代わり、涼太に問いかける。
「またヘアードネーション出来るかな?」
「そうだね……31センチにはギリギリだから。これくらい切れば」
涼太の手が触れたのは耳の下あたり。初めて涼太にカットをお願いした時と同じくらいのラインだ。
「お願いしてもいい?」
「もちろん。任せてよ」
軽く請負った涼太の腕がいいのは、自身の髪で実証済みだ。
「どういう心境の変化?」
涼太は一束ずつ髪の長さを測り手早くゴムで結びながら、茉優に訊ねる。
茉優は少しだけ言葉を選びながら、プロの目をしている涼太に答える。
「やっと新しい一歩を踏み出せそうなんだ。その決意表明かな」
「おっ、いいね。……どんな風にしたいとかある?」
「そうね。……カッコいい感じにしてくれる?私が足を踏み出す勇気を貰えるように」
「お任せください」
胸に手を当てて一礼する涼太に茉優はホッとする。
「良かった。今の私に一番似合う髪型知っているの西山さんだから、そう言ってもらえて安心した」
そう言うと涼太は嬉しそうに破顔したのだった。
※
茉優が涼太と出会ったのは三年前のことだ。当時の彼氏の俊也と婚約したばかりの頃である。昔からの友人と飲む会があるからとその場に連れて行かれたのだ。
俊也の友人だから失礼がないように、と気を遣っていたからか、その時の涼太に対して覚えていることは殆どない。後で俊也に彼が涼太という名前で美容師をしているということを教えられたくらいだ。
次に会ったのはその数ヶ月後。
仕事終わりに呼び出された俊也に突然告げられた別れ。衝動的に駆け込んだ美容院にいたのが涼太だった。
とはいえ、茉優は全く涼太のことを覚えていなかったから突然「お久しぶりです」と声を掛けられてびっくりしたのだ。
「覚えていませんか?僕、俊也の友人で前に一度……って、大丈夫!?」
俊也の名前を聞いた途端、滝のように涙が出てきた茉優に焦ったのは涼太だった。客なのにタメ口になっているのにも気付かないほどアタフタしている。
「ごめっ……俊也とは、い……ま、別れっ……」
切れ切れの茉優の言葉に何かを察した涼太は店の奥の席に座らせたのだった。
飛び込みできた泣きじゃくる客など、迷惑甚だしい筈なのに、店は茉優を追い出すことは無かった。
嗚咽がおさまった頃、さり気ない所作で出されたペットポトルのお茶を茉優が受け取った時、店はとっくに閉店時間を過ぎていて、半分電気が消された状態だった。
「落ち着いた?」
「す、すみませんっ! 私……」
慌てて席を立つ茉優を押し留めた涼太はカットチェアに腰掛けて鏡越しに茉優と視線を合わせた。
初めての美容院。閉店した店内は涼太以外に人影がない。行きつけの美容院でも女性のスタイリストを指名するくらいなのに、茉優は不思議とこの状況を恐ろしいとは思わなかった。
涼太が俊也の友人ということよりも、彼が持っている雰囲気があまりにも穏やかだったからだ。
思わず肩の力が抜けた茉優に、涼太は優しく話しかける。
「見ての通りもう店は閉店したし、レジを閉めちゃったので正規のカットは出来ないんです」
「……そうですか」
「うん。だから今日あなたの髪の毛をいじってもいいなら。僕の練習の一環として、カットさせてくれませんか?」
「練習?」
「そう。練習なのでお代は不要ですし、もちろんリクエストはお聞きします。気に入らなければ僕よりうまい人間が後日無料でお直しします。どうかな?」
「お願いします」
間髪入れずに返事をした茉優に少しだけ驚いたように目を開いたが、それ以上は何も言わずに立ち上がる。
すぐに白いケープを取ってきて茉優にフワリとかけると、改めて茉優に鏡越しに向かい合う。
「今日担当致します、西山涼太です。今日はどんな風にしましょうか」
茉優は決意が鈍らないように一息に告げた。
「ばっさりショートカットにしてください」
涼太から確認があったのは一度だけ。
「本当にいいんですか。ここまで伸ばすの大変だったでしょう」
涼太がケープに広がる髪の毛を櫛で梳かしながら確認する。黒いロングヘアが好きだと言っていた俊也のために伸ばしていた髪は腰まで届いていた。
「ええ。もう必要ない……っですから」
再び鼻の奥がツンとしたのを何とか堪えた茉優の意志が固いと知った涼太は、なら、と提案する。
「ヘアードネーションしてみません?」
「ヘアードネーションって聞いたことあるけれど、詳しくは……」
「説明しますね」
慣れているのか、涼太は簡潔に説明をし始めた。
病気や事故で髪の毛を失った子どもにプレゼントするウイッグを作るための髪を寄付するボランティア活動であること。
最低限必要なのは31センチ以上、特に喜ばれるのは50センチ以上の長さということ。
「長さも充分ですし、髪も傷んでいない。お客様から費用は頂きませんし、どうですか、やってみます?」
涼太の言葉に茉優は自分の髪を一房掴む。俊也の好みで伸ばしていた髪は、重たくて毎日の手入れが大変で何度も切りたいと思いながらも大事にしていた髪である。素人の茉優の目からみてもバッサリ切れば充分50センチ以上にはなりそうな長さになっていた。
俊也への未練を断ち切りたいと勢いで美容院に来たけれど、毎日時間をかけて手入れしていた髪はそれなりに愛着も抱いている。大切にしていた髪が目の前でただゴミになる姿を見るのは忍びない。
それなら、と茉優は顔を上げて鏡に写った涼太に頭を下げた。
「お願いします」
詳細を話したのは、俊也が涼太を結婚式に呼んでいると話していたのを思い出したからだ。
そもそも涼太もいた飲み会は、結婚式に呼ぶ親しい友人と茉優の顔合わせを兼ねていた。
けれど自身の友人でないのに経緯を喋ったのは、茉優自身誰かに聞いてほしかったのと、涼太が持つ穏やかな空気、そして二人きりで静まり返った店内の三つが揃っていたからだ。
結婚式の準備で喧嘩が絶えなかった俊也が浮気をしてその相手を妊娠させた。
テンプレのような、ありふれた話だ。浮気相手が茉優が直接指導している後輩というところも、「茉優は一人で生きていけるけど彼女は俺がいないとダメなんだ」と俊也がのたまったところも、安っぽい漫画でよく見る設定だ。
客観的に見たらベタすぎるのに自身に降りかかると冷静には話せなかった。涼太は時折涙ぐむ茉優の前にティッシュを箱ごと置いて黙々と手を動かしていた。
髪を寄付できる長さにキッチリと測って、ゴムで縛る。
丁寧で素早い作業なのにどこか機械的で。鏡に涼太の姿は映っているのに、壁に向かって話しているようで逆に今の茉優には有り難かった。
変に相槌を打たれたり慰められたら、ますます惨めになるから。
「さて、準備できました。……本当にいい?」
逡巡したのは僅か。
「……はい」
静かな決意と共に吐き出した茉優を応援するかのように、涼太のハサミがシャキンと音を立てる。
覚悟を決めてお願いしたはずだったのに縛ったゴムのすぐ上から切り落とされた髪を見た茉優は、涙が零れてくるのを止めることが出来なかった。
※
その日、涼太は宣言していた通り茉優から代金は一切受け取らなかった。それどころか、
「イヤでなければまたモニターになってくれませんか」
と、茉優に頼んできたくらいだ。とはいえ、涼太は俊也の友人だ。腕は良かったが、自分を捨てわざわざ他の女に靡いた男を思い出す相手の美容院に通いたくはない。
「機会があれば」
やんわり断った茉優は、これきり涼太と二度と会わないだろうと思いながら店を後にしたのだった。
けれど、涼太とは不思議な縁で結ばれていたらしい。
三度目の邂逅は、会社最寄りの駅でのこと。
「山内さん、こんばんは。今帰りですか?」
改札に入ろうとした直前で声をかけらた茉優は、振り向いた先に立っていた涼太に驚いた。
何でここに、と一瞬混乱した茉優だが、すぐに気付いた。涼太の美容院は会社からほど近い場所にあるのだから会うのは当たり前である、と。
びっくりして吐くのを忘れていた息と共に声を発する。
「ええ。西山さんも?」
「はい。と言っても僕はいつもこれくらいなので」
茉優は時計を確認する。時間はもう22時近い。明日は週末だから残業帰りの茉優はゆっくり休めるが、涼太は明日はかきいれ時のはず。
遅くまでお疲れ様と伝える程、親しくはない。茉優は代わりに別の言葉を口にした。
「先日はありがとうございました」
「いえいえ。その後、気になるところはありませんか?」
「ええ。朝もまとまりやすくて助かっています」
茉優は自身の髪に触れる。伸ばしている時は気にならないのけど短くしたらウネウネするのが常なのに、涼太に切ってもらってから一月経つのにイヤな癖が出ていない。
「なら良かったです」
俊也と同い年の涼太は茉優よりも二つ上なのに、笑うと少年のような顔になる。残業とプライベートで疲れ切っていた茉優もその顔に釣られて微笑を浮かべた。
涼太の美容師としての腕は今まで切ってもらった誰よりも高かった。自身の癖をひと目で見極め、伸びた後のことを考えてカットする。
それが言葉以上に難しいのは茉優も知っている。自身の癖がイヤで、ずっと誤魔化せるように、結べる長さを維持していたのだから。
俊也の友人でなければ継続してお願いしたかったくらいである。
茉優はそろそろ整えたくなった髪に触れ、ずっと気に揉んでいたことを涼太に伝える。
「やっぱりカット代、お支払いします」
「モニターさんからは頂いていませんから」
「こんなに素敵にして頂いたのに。それでは私の気持ちがおさまりません」
「僕の練習に付き合って頂いたんですから」
笑顔のままきっぱり断る涼太に茉優は、後から調べて知った情報を鋭い言葉で投げかけてしまう。
「店長さんで予約も中々取れないくらいなのに、カットの練習台が必要ですか?」
放った瞬間、自分の言葉の辛辣さに気付いて慌てて茉優は謝る。
「す、すみません! 失礼なことを……」
「いえ……」
気まずい雰囲気を破ったのは、涼太だった。
「お腹……」
「え?」
「お腹空いていません? 僕、めっちゃハンバーグの口で……もしよければご一緒してくれませんか?」
「えっと……」
突然の涼太の言葉に茉優は戸惑う。確かに夕飯は食べていないが、あまり食欲はない。完食できる気がしないし、そもそも涼太と食事に行く気分にもならない。
「申し訳ありませんが……」
「もしカット代を気にされているなら、僕にハンバーグを恵んでくれませんか? そこのファミレスで」
体よく断ろうとする茉優より一足先に涼太が言い終わるほうが早かった。腹を押さえる仕草付きである。
茉優はプッと吹き出して、「わかりました」と了承した。ファミレスなら最悪ドリンクバーで乗り切れる。
カットの謝礼としては手頃過ぎるが本人の希望である。居酒屋と違って個別注文出来るファミレスなら気を遣わなくていい。
「良かった、ハンバーグのクーポン、今日までだったんです」
破顔した涼太は、茉優と歩調を合わせながらも案内するかのように半歩前を歩いていった。
食べられると注文したミニサイズのサラダだったが、運ばれて来た頃にはすっかり茉優の食欲は失せていた。
一口だけ口に入れただけでフォークを置いた茉優に涼太は穏やかに問いかける。
「いつから食べられていないんですか?」
友人でもない涼太がプライベートに踏み込んだ質問をするとは思ってもみなかった茉優は小さく息を呑んだ。
「髪を切った時よりも大分痩せているし、顔色も悪い。ちゃんと寝れてる?」
「いえ、あまり……」
友達を心配するかのような口調で訊ねられたとはいえ、思わず口を滑らせたのは相手が涼太だからだ。
身内でもない友人でも会社の同僚でもない、ただ一度髪を切ってもらっただけの関係だ。
俊也の友人ではあるが、涼太は彼の肩を持たないという確信もあったし、何より茉優自身が吐き出したかった。
それでも躊躇う茉優に、涼太は芝居かかった口調で両手を上げた。
「僕は今から壁です」
「へっ?」
突然の宣言に茉優は間抜けな声を上げる。ちょうどその時、涼太が頼んだハンバーグが運ばれて来た。
涼太は嬉しそうな顔をして熱々の鉄板を受け取り、茉優をもう一度見つめた。
「ご飯を食べ終えるまで僕は壁です。なので食べ終わるまでは山内さんが何を言おうと僕の耳には聞こえません」
涼太の優しい気遣いに、茉優を律していた何かが決壊した。
※
止めどなく流れてくる愚痴を聞くのは涼太もしんどいはずなのに、宣言通り彼は全てを聞き流してくれた。
体に溜まっていたモヤモヤをすべて涼太に吐き出しスッキリした茉優は、やっと自分の体が飢えていることに気付いた。
「お腹すいた……」
涼太は安心したように笑うと、茉優にメニュー表とタブレットを渡したのだった。
「ハンバーグも美味しいですが、唐揚げも中々クオリティ高いですよ、ここ」
と、言い添えて。
※
夜遅いし軽めに済まそうとパスタをチョイスしたのに、涼太に「半分ずつ食べない?」と誘われた茉優はぺろりとデザートまで平らげた。
すべて食べ終えた茉優は、久しぶりに味がある食事をしたことに満足していた。
この一か月、何を食べても砂でも噛んでいるかのように味がしなかった。食欲も沸かず、食べ物を押し込むという表現が適切なくらい苦痛な時間だったのだ。
「美味しかった?」
涼太に聞かれた茉優は頷いた。涼太は良かった、と頷くとテーブルの端末と電子マネーでサクッと支払いを済ませる。
「えっ!? ダメです」
慌てて取り出した茉優の財布には現金がほとんど入っていなかった。
「後日お店にお持ちします」
頑なに支払おうとする茉優に、涼太の笑みは苦笑に変わる。
「いらないよ。僕が付き合って貰ったんだし」
「いえ! カット代の代わりですから!」
主張を曲げない茉優に涼太は困ったように頭をかく。
「失敗したな。下心あっての行動なのに」
「下心……?」
一気に警戒心丸出しにする茉優に涼太は「そう」と頷いて続きを口にした。
「ここでご馳走になると山内さんはもう店に来てくれないでしょう?」
「え、ええ」
「僕はまた山内さんに髪を切らせて欲しいんです」
茉優は少しだけ考えた後、涼太に訊ねた。
「なぜ……でしょうか? 西山さんにはメリットないですよね? 売上はマイナスですし」
「そんなことないですよ」
涼太は茉優の答えに少しだけホッとした様子で首を振る。
「また切りたい髪質ってあるんです。切っていてイメージが沸くというか……。僕にとって山内さんの髪がまさにそうなんです。お代はいりませんのでしばらく……そうだな一年、いや一年半程月一で僕に専属で切らせて頂けませんか?なんだったら謝礼もお支払いしますし」
「い、いえ! 謝礼なんて結構ですよ」
「でも……」
茉優は考える。前の美容室には結婚すると伝えていて行きにくい。
それに涼太の腕は一回しか切ってもらっていない茉優でも満足するほどだし、彼は人気で中々予約が取れないのもHPを見たから知っている。
涼太の提案は願ってもない申し出なのだ。
意志を固めた茉優はゆっくりと口を開いた。
「二つ、お約束していただけますか?」
「はい。何なりと」
「俊也には言わないで欲しいんです」
「もちろんです」
茉優はホッとする。別れた女が自分の友人と繋がりを持っているのは俊也もいい気はしないだろう。
「良かった。もう一つは決めた期限が過ぎた後は、ご指定のカット代をお支払いさせてください」
こっちの方は予想外だったのだろう。涼太は驚いたように目を見開くと「真面目ですね」と笑った。
嫌な気分にならなかったのは、涼太の顔に馬鹿にする感情が含まれていなかったからだろう。
「わかりました」
涼太が了承すると携帯を取り出して茉優に訊ねる。
「連絡先を伺ってもいいですか?」
茉優は自身の携帯を取り出しながら「あっ」と声を上げた。
「先に送金してもいいですか?」
「送金……ですか?」
訝しげな涼太に茉優は頷いた。
「ええ。ご馳走もさせてくれないのであれば、せめて自分の食べた分はお支払いします。いえ、させてください」
茉優の言い分を聞いた涼太は、「本当に真面目だなぁ」という言葉と共に声を上げて笑ったのだ。
約束の期限は一年半程だったのに、二年が経とうとしている今も涼太は決して施術料を受け取らなかった。
「今日こそは受け取ってください」
鏡に映った涼太は笑顔で躱す。
「最初に言ったでしょう。下心だよって」
「そうだけど」
少しだけ砕けた口調で茉優は涼太と会話する。鏡越しで会話をするのは、不思議と人をリラックスさせる何かを持っているようだ。茉優は友人に見せるときと同じように唇を尖らせて不満を伝える。
お茶目な顔に噴き出した涼太だったが話しながらも手は止めず、肩甲骨辺りまで伸びた茉優の髪の毛にカラー剤を塗布していく。
「だってカットだけじゃなくてカラーとかトリートメントもしてるし。指名料も合わせたら二万くらいサービスしてもらってる」
「相変わらず真面目だね。僕が気にしなくて良いって言ってるのに」
「気にします」
涼太は再び笑うと「少し置くね」と告げて使った道具を片付けに行った。茉優はもう知っている。
少ししたら両手にお茶を手に戻って来た涼太とカラー剤が浸透するまで取り留めのない話をするのだ。
「さっきの話なんだけど」
いい香りのする紅茶を手にして戻ってきた涼太は茉優の右後ろにカットチェアを動かして腰掛けると切り出した。
「山内さんが良い宣伝になってくれてさ。来店してくれるお客様も増えているから本当にいらないよ」
涼太に髪を触ってもらうようになって周りに「美容院変えた?」と聞かれることが増えたのだ。
口コミに勝る宣伝はないからと涼太に渡されていた割引券を良ければと言い添えて涼太の店を紹介した何人かが来店し、リピーターになっていると涼太に聞いていた。
「だから充分店の利益になっているから、本当にお代は要らないんだ。……とはいっても気にするでしょ?」
「……はい」
性格はもう見破られている。涼太は紅茶を一口飲んで喉を潤すと、鏡越しの茉優を見つめた。
「じゃあ一つだけお願いしてもいい?」
「難しいものですか?」
「どうだろう。けど山内さんしか出来ないかな」
「わかりました」
茉優は神妙な面持ちで頷いた。涼太はそれを確認すると静かに口を開いた。
「山内さんが次に恋してもいいかな、って気になった時には僕も候補の一人に入れてくれる?」
「え?」
「下心ってそういうこと。お客様との恋愛は店のルールで禁止しているのに雇われとはいえ店長の僕が破るわけにはいかないでしょ」
絶句している茉優に微笑んだ涼太は、ヨイショと立ち上がるとカラーの浸透具合を確認する。
「そんなに思い詰めなくていいよ。山内さんが次の一歩を踏み出す頃には僕に彼女が出来ているかもしれないしね。……さて、いい感じなので流しましょうか」
瞬時に美容師の顔に戻った涼太は茉優の椅子を回転させ、シャンプー台へ案内したのだった。
※
通うのを止めようか迷う茉優を先回りするかのように、涼太は次の予約を入れた。そうすると真面目な茉優が断れないのを知っているかのような行動である。
断ればいい。そう思う茉優だが、元来の生真面目さが邪魔をして予約されていた一月後に涼太の店に足を運んだ。
いつもと変わらぬ涼太に、ホッとして、どこか泣きそうになった茉優は自らこの話題を口にすることはなかった。
涼太の方も話を蒸し返すこともなく、アプローチもしてこなかった。
お代は決して受け取らなかったが今まで通り店ではプロとして接して来るものだから、茉優も涼太を避ける理由を見つけられず、ズルズルと継続して店に通うこと一年。
茉優は、自身の気持ちの変化に気づいていた。
いつから、そんな気持ちを抱くようになったのかわからない。徐々に彼の優しさに、プロ意識の高さに、そして強い芯と覚悟を持った人柄に惹かれていた。
気持ちに気づいたのはずっと前だ。それでも、すぐに気持ちを伝えなかったのは、一歩踏み出す勇気が持てなかったのだ。
三年間施術してもらって涼太の美容師としての腕にも惚れ込んでいた。告白し、万が一ダメだった時に新しい美容師を探す気力が沸かなかったと自身に言い訳をし、アプローチしてこない涼太の優しさに甘えてきた。
それに、今日終止符を打つ。
初めて涼太に切ってもらった50センチには足りないが、ヘアードネーションできる最低ラインの30センチなら充分届く。
だから今日、茉優は敢えて涼太にヘアードネーションを依頼したのだ。
「新しい一歩を踏み出すために、初めて切った時くらいの長さにしてください」
と、言葉を添えて。
「どう?」
施術が終わった涼太は、茉優にも後ろの長さが見えるように手持ちの鏡を動かす。
「うん、完璧です。いつもありがとうございます」
「新しい一歩は踏み出せそう?」
「ええ。ようやく次の恋に進めそう」
ケープを外す涼太の手が一瞬止まった。それでも鏡越しで対面している時の涼太はプロだ。
「そっか……。うまくいくように、応援しています」
ケープを外し茉優の座っている椅子を回転させると、涼太は一つだけ確認する。
「彼氏が出来ても、髪の毛、切らせてくれる?」
「西山さん次第です」
茉優は立ち上がり、切り立ての髪に勇気を貰うように一度触れると涼太と向かい合った。
「まだ、彼女の席は空いていますか?」
涼太の反応は分かりやすかった。息を呑んだと思うと、顔がみるみる赤く染まっていく。
――茉優が新しい一歩を踏み出す時は、自分も候補に入れてほしい。
そう伝えていた涼太だったが、まさかそんな日が来るとは予想もしていなかったかのように、驚いて顔を染めた。
前に立っている茉優から照れた表情を隠すように手で顔を覆った涼太は、小さい声で告げた。
「……好きだよ。彼女になってくれる?」
「は……」
茉優の返事を待たずに重なった涼太の唇。
涼太の内面を表しているかのように、熱くて優しい口づけは、茉優の唇を柔らかく包みこんだのだった。
お読みいただき、ありがとうございました!