7、めんどくさい
小さい頃から、気を遣われてばかりだった。
俺のこの瞳が、大人たちには恐ろしいものに映る。父は少しでも俺が元気になればと明るく振る舞うようになり、母は気疲れなのか、俺を産んだ時から体調を崩すようになってしまった。執事たちは悟られまいと頑張って平然を装っている。
社交界に出ると、一瞬で俺の噂が広まった。遠巻きから眺めるばかりで、話しかけない。目を合わせようとしない。母の病気も、お前が産まれてしまったからではないのかと言われた日は流石に落ち込んだ。
けど、アルベストに入って、『天使様』に会った。話しかけられたときは夢じゃないのかと思った。あのやわらかな笑顔が、俺に向けられていることに混乱したのだ。
俺だけが『天使様』の秘密を握っている。俺が、アイシャを生かすも殺すも選ぶことができる。きっと大勢の前で悪魔だってことを示せば、あいつは途端に人気が地に落ち、明るい未来は消え失せる。
布団のなか、悪魔に噛まれた場所に触れた。もう傷は塞がったが、あの感覚が何度もフラッシュバックする。
あいつは逃がさない。家のために、俺のために、母のために、なんとしても婚姻まで漕ぎつける。愛情なんてなくたって、別にいいんだ。
本物を向けられたことがないのだから。
「おはよう、ガルムくん。」
「どうも。」
寮から教室までの道のりで、最近こいつに話しかけられることが増えた。第二王子という身分のためか、おもしろがってか。このあいだもフットボールに誘われ、周りの視線が鋭いなか、あいつだけが笑って俺と話していた。
「今日の3限目は古語の抜き打ちテストだって噂だよ。勉強してきた?」
「まあ、あいつならやりそうだと思って。」
「『あいつ』じゃなくて『先生』ね。」
「はいはい。」
その後、どうでもいいような会話をして、教室へ。うちの学院は、特に決まった席順はない。長机が3列に分かれて並び、階段上になっている。俺たちはレアンに促されるまま、中央列の少し後ろ側へ。レアン曰く、ここが気に入っているらしい。あ、となにかを思い出したのかカバンを開けた。そして中から本を取り出し、席を立つ。向かったのはベルリアと話すアイシャだった。
なにを話してるんだ。少し気になったが、俺が行くのは違う気がする。
「…気になった?」
「ああ。」
「アイシャ嬢は戯曲に興味があると言っていたから、僕が持っているものを貸したんだ。と言っても、僕に持たせたのは母上だけどね。アイシャ嬢に喜んでもらえてよかったよ。」
「戯曲に興味があること、どこで知ったんだ?」
俺が見たところ、アイシャとレアンは接点があまりないように見える。どこで聞いたのだろう。純粋な疑問だ。
「舞踏会だよ。僕とアイシャ嬢は何回か会ってるんだけど、その時に言っていたんだ。」
少し、嫌なことを聞いた。
1時間目は数学。より高度な計算技法や測量法を学ぶ。教科書を置いて先生を待っていると、いつもとは違う、見知らぬ人がドアを開けた。
「今日は先生が風邪のためお休みだ。よって自習とする。」
そう言って、ドアが閉じられた。そいつの足音が消えるのを待って、全員が小さくガッツポーズする。離れた席へ話に行く者、遊びだす者、勉強するべきか遊ぶか迷う者、多様に動きだした。レアンもどこかに行ってしまった。ちょうどいい、寝よう。そう思って勉強道具を片付けると、誰かが机のそばに立った。
「ガルム、また寝ようとしてるの?」
「なんだアイシャか…。直々に天使様のご降臨だ。」
「あのねぇ…。」
隣に座り、少し距離を縮める。なんだか後ろの女子集団から見られている気がするが、無視しておく。
「そうやってからかうの、そろそろやめてよね。」
「それは無理だな。つまらなくて死にそう。」
アイシャが天使の微笑みを向けてくる。無言の圧力というやつだ。まわりから見れば、アイシャが俺に微笑みかけているようにしか見えない。
「…バラすよ。」
「それはやめて…!」
「冗談だって。」
「なによ…。」
この前、アイシャがレアンやレイニーを見て『青空が似合う人』と言っていた。けど俺から言わせれば、アイシャもそっち側に見えて仕方ない。青空の下で、歌でも口ずさみながら歩いているような。まあ、悪魔だってことを含めれば、もう少し暗くても良いような気がするが。
ふとアイシャの方を見ると、何か言いたげにこちらを見ている。
「なに?」
「え、あー…えっと…。」
俺のノートを勝手に開き、ペンで小さくなにかを書く。丁寧で綺麗な字だ。
『このあいだ、ちょっとガルムの血を飲んだじゃん?』
「うん。」
『実は、かなりおいしくて…また飲ませてもらえたら…なんて思ったりして。』
「……お前本当に天使か?」
『一応ね!』