*1* あっ(察し)
フォークの先には今が旬のキノコのバターソテー。それを見つめる夫の表情は固い。別にこのキノコに毒が仕込まれているわけではないし、味もとっても美味しいのだが、夫にはそうは見えていないらしい。
「や、止めろ……それくらい自分で食べる」
「そう言ってお皿の上のこれとにらめっこを始められて、もう十分ですわ旦那様。今日もこの後に大切なお仕事があるのでしょう? 食べる際に苦手なものをじっくり見るから駄目なのです。見えないように目隠しをして差し上げますから、諦めて〝あーん〟なさって?」
昨夜もぐっすり寝落ちたので、彼のお腹は空腹を訴えて鳴いている。ここにくるまでに抗いすぎて声を震わせる夫の耳元でそう囁き、抵抗されないようその上半身に絡めた脚に力を込め、片手で目隠しをしてやりながら、フォークに刺したキノコを戦慄く口に運ぶ。
一度口に入れてしまえばお育ちの良いこの冷遇夫は吐き出さない。喉の奥で唸りながらも咀嚼して飲み込む様は、一日の始まりを告げるに相応し……くはないかな。傍目から見たら品に欠けすぎる食事風景なので、この時間の食堂には夫と私の二人だけだ。
冷遇夫との円満離婚に向けて第二子を授かるため、関係構築と称して朝食を無理やり召し上がっていただくこと、早二ヶ月。育児って光陰矢の如しすぎ。
どういうわけか、今朝も二人羽織の要領で嫌がる夫の口に食事を運んでいる。ちなみに昨日の抵抗食材はレバーパテだった。普通の夫婦の食卓って何だっけ? どちらかといえば、遅すぎる食育指導だ。娘の離乳食チャレンジよりも大変ってどうなのか。
これまでもさして食事に熱心でなかった夫だが、そもそも好き嫌いが多いのでは疑惑にいち早く気付いたのは、この屋敷の料理長だった。
プライドが高いから不味いものは食べない的な回避をしていたのが、私と一緒に食事を摂るようになって、手をつけようとしない食材に一定の規則性を見つけたとのこと。本来ならお残しを許したくなかったプロの目は厳しい。
ただアレルギーがないかを確認してからやっているからまだあれだけど、前世でだと完全に虐待として通報されてると思う。相手がいい歳をした大人の男性だから大目に見て。
まぁでもこのモリーユというキノコは、お世辞にも食欲を誘う見た目ではないし、無理に食べなくても良いのだけれど、普段偉そうにしている美形の顔を情けなく歪ませるのは楽しい。こうなってくるともう趣味ですね。
目隠しをしたまま彼の首筋に自分の頬を押し当てる。別に艶っぽい理由からではなく、体温を測っているのだ。ちなみにこの二ヶ月の間に閨の行為は一切ない。ただ食べさせて寝かしつけるだけ。いつから私は妻でなく坊やを健やかに育てる乳母役になったんだと思わなくもない。
「んー……この頃前よりは体温が高くなりましたね。夜も寝付きが良くなってきましたし、やっぱり貧血性の冷え性だったのかもしれません」
そう告げて頬と目隠しを離し、苦手なものを無理に食べさせられてぐったりとした夫を自由にしてやる。すると最早毒を吐く気力もなくなった夫は、椅子からずり落ちかけた姿勢を正して頷いた。
「では旦那様、本日もご無理はなさらないように。ああ、それからアイリーンの誕生祝いの件なのですけれど――」
「はぁ……だから、何度も言わせるな。あれに関することは君の管轄だ。いちいち訊かずとも好きにすれば良い」
「ええ。そう仰るだろうと思っておりましたので、もう勝手に料理長に準備をお願いしました。当日はシルビア様と、マーサと私と、アイリーンだけでこの食堂を借りるつもりですから、旦那様は外で食べてきて下さいね」
冷遇した瞬間にカウンターをされると思っていなかったのか、水の入ったグラスへ伸ばした手を止める夫。大切な愛娘の初めての誕生日ぞ? わざわざ腹の立つ発言をされると分かっているのに、頭数に入れるわけないでしょうが。
煩わしそうに吐き捨てた手前、引っ込みがつかないのだろう。悔し紛れなのか「アンバー家の者として恥を晒すな」と言い、テーブルに乱暴にグラスを置いて仕事に出かけていった。
その背中を見送りながら溜息をつく……ほどの落胆もないため、夫が出ていくのと入れ替わりに入ってきた使用人達に片付けを任せ、マーサ達がいる自室に向かおうとしたのだが――。
食堂の入口付近から「ふぎゃー!」という泣き声が聞こえて。次いで「お嬢様大丈夫ですよ〜。ナタリア様を独り占めしていた旦那様は、もうお仕事に出られますからね〜」という声が聞こえる。
すぐに出ていって彼から理不尽なお叱りを受けたくはないので、慌ただしく去っていく靴音を聞いてから食堂を出ると、そこには自愛に満ちた表情で愛娘をあやしつつ、何者かが立ち去った玄関の方角に向けてひっそり中指を立てている、姉のように慕う侍女の姿があった。
「部屋に戻るのが遅いから迎えに来てくれたのね、ごめんなさいマーサ。アイリーンはもうご飯を食べたかしら?」
「まぁ、ナタリア様が謝られることなどありませんよ。それにお嬢様は誰かさんと違ってお利口さんですから、好き嫌いなく召し上がられましたわ」
柔らかく微笑みながら辛辣なことを言うマーサに吹き出しそうになりつつ、その腕の中からグズる娘を受け取って抱きかかえる。もうすぐ地上に降り立って満一歳になる天使は、私に抱かれると、くしゃくしゃにしていた顔を一気に笑顔へと変えてくれた。
お父様には初孫の誕生日プレゼントとして、領地で採れるあの鉱石で作った護符を頼もう。父親が冷遇してくるならその他から愛情を与えれば良い。それはそれとして。
「ここまで迎えに来てくれたということは、今日はこれからこのまま孤児院に行くのね?」
「はい、そのつもりです。今日はお洗濯物も少ないですし、明日一緒に洗ってしまいますわ。ナタリア様は旦那様のお世話でささくれた心を、お嬢様と過ごすお時間で癒やして下さいませ」
「いつも貴女一人に大変な仕事を任せてごめんなさい」
「何を仰るのですかナタリア様。マーサの幸せは、ナタリア様とお嬢様の笑顔にこそあるのですから。むしろもっと頼って、昔のように甘えて下さい」
自由になった両腕を広げてそう笑ってくれるマーサから、海より深い愛情を感じる。男児を産まないと家族の下に帰れないからだけではなく、彼女は私にとっての姉だ。彼女がいてくれなかったら、この自作品の中で、自業自得な不幸に怯えて死ぬしかなかっただろう。
「ふふ、ありがとう。それじゃあ甘えさせてもらおうかしら」
「ええ、是非そうして下さい。わたしは孤児院の子供達に、ナタリア様がどれだけ健気でお優しいか、お嬢様がどれだけ天使かを語って聞かせます。お土産話を楽しみにしていて下さいね」
「うーん……お土産話は楽しみだけど、私とアイリーンのことは程々が良いわね。孤児院の子達にとって天使なのは、いつも楽しいお話と美味しいお菓子を持ってきてくれるマーサだもの。ね、アイリーンもそう思うわよね?」
私と彼女を交互に見つめながら指をしゃぶる娘に同意を求めれば、意図が通じたわけではないだろうけれど「シャシャ、にゃーむ!」と、幼いなりに何かを伝えようとしてくれる。
その姿に二人して相好を崩していると、夫を見送ったらしいジョセフさんが、焼き菓子の詰まったバスケットを片手に、マーサに馬車の用意が出来たと教えに来てくれたので、一旦彼女とはそこで別れて離れの自室へと戻った。
まだ小さい愛娘と二人きりの時間はそれなりに慌ただしいものの、口を開けば毒を吐く夫の面倒を見るよりは格段に癒やしがある。そうして母娘水入らずな時間を過ごすこと四時間ほど。
夕方前には泥だらけになったエプロン姿のマーサが戻り、清潔な格好に着替えた彼女に娘が突撃するのを微笑ましく眺めた後、今日孤児院であった面白い出来事を聞いていたのだが――。
「そうそう、シスターから新しく身を寄せた母娘がいたと聞いたのですけれど、どうやら少し訳アリだったようで。何かに怯えるように、またすぐに別の孤児院へと移って行ってしまったらしいですよ」
という〝絶対これ何らかのテンプレでしょう?〟な話を聞かされて、直前までの和やかさは霧散。あっという間に心中穏やかじゃなくなりましたとさ。