*27* これがあーん♡ですよ旦那様。
くあ〜~~……やっぱり良い紅茶の香りは違うわ〜~~。
これが貴族様の飲む本物の紅茶ってやつですね。普段安くてたくさん入っててそこそこ美味しいのしか飲んでない人間にも分かります。はい。
黄金糖か蜂蜜みたいな綺麗な水色、ふんわりとカップから上がる湯気に鼻を近付ければ、甘い花のような香りが胸を満たす。ほっそりとしたカップの持ち手には金の縁取りが施されている。来客用カップですら縁取りの色が剥げている実家とは違う。
あとでマーサと飲む用にも少し分けてもらえないかな〜などと考えていたら、俄に食堂の空気が張り詰めた。せっかくこんなに美味しい紅茶を飲めたのだからまだのんびりしていたかったけど、待ち人のご到着じゃあ仕方がない。
紅茶のカップをテーブルに置いて食堂の入口へと視線を移せば――おうおう、睨んでる睨んでる。誰がって不機嫌オーラを隠そうともしない旦那様が。
「ジョセフ、何故彼女が本邸の朝食の席にいるのだ」
「は……それは」
「まぁ、朝から素敵な眼力。おはようございます旦那様。よく眠れたようで安心しました。私がここで旦那様と朝食を摂ってみたいと言ったせいですので、彼を責めるなどという主従関係に亀裂の入るような真似はお止め下さいませ」
早朝に部屋を訪ねてきたジョセフさんのおかげで、明日を待たずとも領内にある孤児院を併設している教会への慰問と寄附の許可もゲットした。これで破滅した時に娘とマーサを逃がすルートの足がかりが出来たってもんよ。
しかしながら徹夜明けで頬の筋肉が働かないせいか、私の渾身のお淑やかな伯爵夫人の微笑みは、ややニチャッとしてしまったらしい。夫の表情がさらに険しくなってしまった。ごめんて。
「ならば君に尋ねるとしよう。何が狙いだ? 離縁ならばまだ契約の男児を産んでいないのだから――、」
「あらあら……朝食の席で夫婦の閨事に言及なさるだなんて、お盛んだと思われてしまいますわ。私は別によろしいですけれど、旦那様はお嫌でしょう?」
「なっ――!!」
勿論嘘である。全然全くよろしくない、黙ってろ。前世のお国柄的にそんなことを大っぴらに話す習慣などないからね。いや……一部の気心がしれた仲ならどこまでも大っぴらになる国民性でもあったけども。
軽口を叩いたせいだろうけど女性使用人達からの視線が痛い。これまでの夫から出されていた指示の数々のせいで、とんでもない悪妻だと思われてるんだろうなぁ。そもそもこの人は黙ってさえいれば美形だから、女性の使用人達からの人気が高い。
ジョセフさんに聞いたところ現在お屋敷にいる若い女性使用人達は、夫の両親が亡くなった際に紹介されて新しく雇用したらしいが、どの娘も子爵家の三女や四女だそう。もしかするとお手つきされ待ちなのだろうか……貴族怖ぁ。
そして今朝この朝食の席につくことを提案してきたのはジョセフさんである。何でも『これを機に一部の勘違いをしている使用人達に、奥様の存在を印象付けさせておきたいのです』だそうだ。
でも正直今更もう遅い感は否めない。出産からこっち、これだけ虐げられてる妻はあまりいないだろう。流石に私に喧嘩をふっかけてくる使用人は、まだ最初の乳母くらいしかいないけど。
むしろあの乳母をクビにしろと夫に進言したのが彼女達の耳に入って敵視されているんだろう。ちなみにこんな場所にマーサとアイリーンを連れて来られないので、二人にはいつも通り部屋で朝食を摂ってもらっている。
――ま、今そんなことはさておき。
「それに一応は妻ですもの。たまには朝食をご一緒するくらいお許しいただけると嬉しいですわ」
そう言って再び紅茶の入ったカップに手を付けると、意外にも夫は不機嫌顔ではあるものの、何も言い返さずに向かい側の席に腰を下ろした。これは昨夜の失態をこの場で暴露されたりしないかを警戒してるな。懸命な判断ですね。
けれどこちらと会話をする気は一切ないのか、ジョセフさんから今日一日の予定が書かれた書類を受け取り、それを見ながら紅茶を飲み始めた。その瞬間若い女性使用人達から向けられる嘲笑。爽やかな朝には不釣り合い。
とはいえジョセフさんからの提案もあるので、空になったカップを指さして
「紅茶のお代わりを頂戴」と彼女達に声をかける。しかし眉を顰めて互いに視線で押し付け合うだけで、一向にこちらにやってこない。これにはジョセフさんも苦々しい表情だ。でもこんなのは想定内。
仕方なく一杯目を淹れてくれたベテラン使用人に視線を向けると、そちらは立場のないお飾りの妻を哀れに思ったのか、ティーポットに新しい紅茶の準備をしてくれる。良かった、ちゃんと良識的な使用人もいるっぽい。
そんなことにほんの少し安堵しつつ、彼女が紅茶を淹れてくれるのを待っていると、不意に夫が書類からチラリと視線を上げ「指示の聞こえない者は使用人として必要ない。下がらせろ」と言った。
その言葉を聞いて一瞬呆けたのは私だけではなかったようで、夫の後ろに控えていたジョセフさんですら驚きの表情を浮かべている。砂時計をひっくり返して事の成り行きを見守るベテランさんと視線がかち合った。
ベテランさんの瞳が〝どうにかこの場を収めて〟と語っているが、ここにいる皆様ご存知のようにお飾りの妻なんですよ。私が何か言ったところで場の空気が改善するとは思えない。あと純粋にお給金をもらっているのに、仕事をしない彼女達もいけないと思います。
――ということで、引き続き紅茶待ちの姿勢を貫く。
その間にも正気に戻ったジョセフさんが、狼狽えている様子の彼女達に視線で食堂の外に出るよう指示を出す。彼女達が全員出ていくと、ちょうど砂時計の砂が落ちきった。まるで見計らったみたいなタイミングだ。
ベテランさんが紅茶のお代わりを私のカップに注いでくれたのを見届けて、夫が「呼ぶまで皆下がれ」と口にした。この発言にまたもや驚くジョセフさんとベテランさん。こちらに心配そうな視線を投げかけながら退室する彼に大丈夫だと頷いて見せる。まぁ無策なんですけどね!
使用人が全員下がって二人きりになった食堂。今度はこっちにお叱りの矛先が向くのかなと思いつつ、なるようになれの気持ちでカップに唇をつける。うん、二杯目でも安定の美味しさだ。丁寧に淹れてくれたことが分かる。
しばしの間、夫が書類をめくる音が食堂内に響く――……って。
「旦那様、お食事はなさらないのですか?」
一向に手をつけられることなく冷めていく朝食を見かねて、思わずそう声をかけてしまった。すると彼は書類から視線を上げることなく「いつも朝は飲み物だけだ」と曰う。
しかし夫の目の前には美味しそうなスープとオムレツとサラダ、それに焼きたてのパンが並んでいる。まさか毎日これ全部残すの? 親として自覚がないのは百歩譲って構わないが、領民が作った食材を無駄にするのは領主として失格だろう。
「あらあら、そうなのですか。では旦那様が朝食を食べ終えるまで、食堂から出すわけには参りませんね」
「……は?」
「一日の仕事の質は朝食にあり、です。お腹に何も入れないで働いては、頭の働きが悪くなりますよ」
「はっ、説教をするつもりか。馬鹿馬鹿しい」
「お説教はお馬鹿さんがされるものだという理解はおありのようですね」
鼻で笑ってそう言い返した直後、書類を握りしめた夫が怒りにテーブルを叩いた。その衝撃でカトラリーが忙しない音を立てるものの、昨夜の寝室でのやり取りでこの人の力量は読めている。それに加えて――キュルルと。私のものではない腹の虫が鳴いた。
「旦那様はご存じないかもしれませんが、人間は睡眠が足りるとお腹が減るのですよ。昨夜はあっという間に熟睡なさっていましたし、いつものように朝食を抜けばお仕事にならないかと」
「……もう仕事に出かける時間だ」
「ですから召し上がるまでここから出さないと言っております」
「わたしに指図するつもりか」
「指図というかお願いですね。離婚するために第二子が欲しいのであれば、同衾していただかないと。夜までにへばってしまっては――」
「朝からそういう話題を出すな。恥じらいがないのか君は」
「恥じらうよりも現実的なことですわ。出産には命を削るので体力がある内でないと難しいのです。ですので、旦那様には三食しっかり召し上がっていただいて、お元気な状態で夜に挑んでほしいなと」
「品性に欠ける会話はもう結構だ。出かける。これは君が全部食べれば良い」
逃げるように会話を打ち切り、椅子を引いて立ち上がる夫。しかしこちらも宣言を翻すつもりはさらさらない。テーブルを回って向こう側に行くのでは間に合わないので、下をくぐって入口に向かうその背中を羽交い締め。ヒラヒラしてない質素な服で良かった。
そのまま「離せ!」ともがく夫を着席させ直し、無理にカトラリーを使わせたら逆襲されそうなので、背後から二人羽織の要領でパンをちぎってスープに浸して口元に運ぶ。
「これだけ冷めていれば火傷の心配もないですね。さ、諦めてあーんして下さい旦那様」
「嫌だ……むぐぅっ!?」
「うふふ、ゆっくり噛んで召し上がらないと喉に詰まりますよ〜」
会話だけなら新婚みたいなことを言いながら、絶対に朝食を摂らないと言っていた夫の胃袋にそれらを収めきって釈放すると、食堂の入口から化け物を見る視線をこちらに向ける使用人一同と目が合った。
でもその中でジョセフさんとベテランさんだけが、肩を震わせて笑いを堪えている。どうやらこれで正解だったらしい。
振り向き様に「野蛮人が!」と捨て台詞を吐く夫に「お可愛らしいこと」と煽り返し、残りの紅茶が入ったティーポットを戦利品として自室に持ち帰って、マーサに朝食の顛末を面白おかしく聞かせながら楽しく飲んだ。