*26* 鳴くのを待ってたぜホトトギス(意訳)
一応は戸籍上の夫である成人済み男性を、娘に使う寝かしつけテクニックで陥落させてから四十分後。
凍えていた身体もすっかり夫を使って温まったので、寝入った彼をベッドに残してそそくさと部屋を出た――のだけど、ドアを開けた先で死にそうな顔で立ち尽くしていた執事と鉢合わせた。まさかずっとここで待っていたの?
口にはしなかったけど恐らく私があの半死半生虫な夫に、ベッドで無体を働いていないか気が気でなかったのだろう。失礼極まる。仮にも元伯爵令嬢なのに野獣扱いしないでほしいものだ。珍獣くらいの気は自分でもしているけど。
そんな心配性というか過干渉では、とてもではないが私がいなくなったところで後妻が望めないぞ――なんて余計なことは口にせず「残念ながら旦那様はお疲れでそのままお休みになりました。また日を改めて参ります」と言い残してその場を離れた。
ランプの明かりを手に離れの自室に向かう最中、ペタペタと室内履きが立てる間の抜けた音が深夜の廊下に響く。歩きながら頭に浮かぶのはさっき見た尋常ではない書類の山だ。
もともと淡白なのか、特定の女性にしか反応がないのかは別にしても、あの仕事量では確かに性欲なんて持っていられないだろう。これが前世なら労基に訴えて別の部署に変えてもらいたいところだ。
「えーっと……どこの走り書きネタの何の展開を拾ったんだろ。まだ物語の序盤だから中盤以降の傀儡政権ネタじゃなくて、内政ネタかな……歴史のどの時代の誰をモデルにしたかでもだいぶ変わってくるよねぇ」
中世のあれな歴史で人気なのはパッと思いつく限りでも凄惨極まる。でもそういう歴史に限って目茶苦茶魅力的な悪役がいるんだよ。それで本人は倒せなそうなくらい手強いのに、主人や家族がどうしようもない人達でそこから破滅するの。あの流れ大好物。滾る。
だけど新担当編集さんの、
『先生、今の時代に教科書みたいなのは止めましょう。読者の求めているのは消費しやすい娯楽です。求められているのはノンストレスなスナック菓子感覚。そうした読者のニーズに答えないと』
――という至極ごもっともな意見で、流行りの売れ筋を自分の好みに無理に落とし込もうとして板挟みになり、決して面が揃うことのない性癖ルービックキューブを生み出してしまった。なんという呪物……!
頭の中で考えつく限りのチャートを引っ張った先の展開が、どれも物々しすぎる。しかもどれもこれもどこに繋がっても不思議はないっぽい。要は最終的にうちの家族が破滅すれば良いんだから、ある意味どうやったって終われる仕様なのだ。
思いつきを片っ端からメモする癖止めないとという後悔も、転生してからもう何度目になるだろう。でもきっと何度も思うくらいだからそうそう直らない。学ぶ人間はもっと早く改めるからね。
「んー……それにしてもさっきの書類の地名、確かにどこかで見たんだけど」
人間自分の周辺で起こった出来事なら多少は憶えている。当然婚家と敵対していたり良好である他家の関係も、お飾りとはいえ一応嫁いでくる前に頭の隅には入れてあった。でもあれはチラッと目に入っても違和感を感じた程度で、こちらにとっての重要性はないような他人事案件だった。
けれどだからこそ不思議なのだ。あの無駄が死ぬほど嫌いな夫が、どこかの誰かが困っているからとそんなことをするだろうか? 血を分けた娘の面倒も見ない冷遇男が。
考え事をしている間にいつの間にか自室の前に到着していたものの、せっかく温まっていた身体は戻ってくるまでにすっかり冷えてしまった。
娘はマーサの部屋で預かってもらっているので、目も冴えてしまったし、いっそ朝まで起きておこうと思い立つ。子育て中の自分だけの夜ふかしは、連続四時間睡眠と同じくらい贅沢だ。
部屋に入ってすぐにランプを開けて、そこから取った火を暖炉に入れる。燃え残りに火がつくまで少し時間がかかるので、それまではこの世界のプロットを書いた青いノートを手にベッドに潜り込んだ。
燃え残りに火が回る音に聞き耳を立てながらノートの頁をめくる。案の定というべきか思いつきの走り書きではあるが、何度も推敲されたあとのある内容は、どれも見事に断罪までの片道切符だ。自分どころか娘と夫の未来がない。
「うーん……勧善懲悪が流行るのも分かるんだけど、やっぱりもう少し人物に厚みを持たせるべきだったなぁ。私が死んだら積んじゃうぞこれ」
せめて娘だけでも実家に引き取ってもらいたい。けどこのノートにある通りにチャートを辿ると、どこかでまたうちの領地に伝染病が蔓延するらしい。そして王家から下される土地の浄化。この物語悪役主観だと絶望しかない。
それにしても前世の私の最後の方ってこんなに思考追い詰められてたっけ? 何度断っても実家から段ボールで農作物を送ってこられるから、愛情に餓えてた気はなかったんだけどなぁ。
「さて今から拾える起死回生チャートがあるんですか……と」
書いた本人だけど内政チートが出来る脳みそもない。良くて多少土壌改良の心得があるくらい。娘と夫の未来において何の助けにもならないだろう。これは今のうちに少しでも近隣の貴族家に、アンバー家が善良な家であるというイメージを持ってもらう必要がある。
しかも私が持っている私財で投資が出来る程度の、小規模で目につきやすく噂にもしやすいものが良い。こういった物語の中でお約束でありつつも、貴族女性が手を出して眉を顰められないものといえば――。
「ふむ……領内に孤児院を併設してる教会があるか、明日執事さんに聞いてみようかな。アイリーンは流石にまだ連れていけないけど、マーサにお金を預けて届けてもらうくらいなら大丈夫でしょう」
跡取りになれない女児とはいえ領主の子供を産んだのだから、慰問に行って駄目ということもないはず。寄附金もポケットマネーから出せば良い。
あとは……畑の手伝いとかなら無償で奉仕が可能だ。読み書きと簡単な計算も教えられる。それに子供の面倒を見るのに人手が足りることはまずない。でもこれはアイリーンがもう少し大きくなってからで良いかな。
そんなことを考えながら室内が暖まったので書き物机に向かい、ノートに思いついたことを書き込んで――またやってしまったと苦笑する。このメモ癖はきっと一生直らないに違いない。
メモを書いていたら段々と筆がノッてきた。久々に物語を書きたくなってきたので、別のノートに構想を綴ったりしているうちに、カーテンに覆われた窓の外が明るくなって朝がきた。
徹夜明けのあくびを噛み殺しつつ寝巻きから普段着に着替え、マーサ達が部屋を訪れるのを待っていたら、思っていたよりもずっと早く控えめなノックが聞こえたので、うんと背伸びをひとつ。寝不足な顔になっていないか鏡を確認してからドアを開けると、そこには意外な人物が立っていた。
簡潔に言えば、本日おねだりしようと思っていた執事さんである。彼はかなり切羽詰まった覚悟ガン決まりの表情でこちらを見るや、口を開いた。
「おはようございます奥様。まずはこのような早朝に御婦人のお部屋を訪ねるご無礼を、どうかお許し下さい」
「あらまぁ……それは別に構わないけれど。昨夜のことで旦那様のお叱りがあるからついてきてというのなら、お断りするわね?」
「いいえ、まさか。むしろその逆です。このような扱いをなさる旦那様を窘められないわたくしめが、今更何をと思うでしょう。ですがどうしても奥様にお願いしたいことがございます」
「内容によるとしか言えないけれど、一応聞かせていただくわね。こんな早朝にいったいどんなご要件かしら?」
先に会話の主導権はこちらにあると相手に示して尋ね返す。すると夫の命に忠実な彼は、苦渋の表情を浮かべて続けた。
「あのように無茶なお仕事の仕方では、早晩お身体を壊してしまいかねない。どれだけわたくし共が申し上げたところでお聞き入れ下さらなかった旦那様が、奥様のお言葉だけはお聞き入れになられた。どうか今夜から旦那様と同衾してはいただけませんか……!」
おっとこれはまだ肌寒い季節なのにチャンス到来、飛んで火に入る夏の虫。この屋敷で夫以外に強いカードといえば間違いなく彼だけである。そんな職務に忠実な執事さんに向かい、私は微笑んで口を開く。
「それではこちらからも条件があるのだけれど、よろしくて?」