*19* 何か思ってたのと違う……な?
〝その瞬間二人を取り巻く周囲の音も、煩わしい好奇の視線も消え去り、世界にお互いしかいないような錯覚を覚えた。幼い頃から互いに惹かれ合い、互いの隣に立つのはこの人しかいないと思っていたのだ。
それが今の状況はどうだろうか? ひっそりと二人で温めてきた穏やかな愛は、彼女の美しさに目をつけた権力者によって引き裂かれ、このような場でもなければ視線や言葉を交わすことすら出来なくなってしまった。
だというのに、この場において愛しいその名を呼ぶことは叶ったものの、続く言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。彼女の双眸は悲しげに自分の隣に立つ、金で買った形ばかりの妻に注がれている。
君でなければ誰でも同じだと叫び出したいが、公の場でそんなことが出来ようはずもない。やりきれない気持ちのまま、互いに恋慕の籠もる視線を交わし合うばかりだ。〟
――と、地の文はこんな感じでどうだろう。いや、少し臭いかな?
そもそも後から色んな人のことを巻き込んでグダグダ言うくらいなら、最初から全部捨てて駆け落ちでもしたら? とか思っちゃうタイプなので、あんまりこういう場面を書くのは得意じゃないんだよ。
「ジェラルド……そちらの方は奥方様、よね」
「お姉様、こんな見窄らしいのが奥方だなんてそんなわけが――!」
「失礼な発言はお止めなさいシルビア」
苛烈な妹と穏やかな姉。でも締めるところはちゃんと締める。キャラクター設定としては基本の基ですね。こういうキャラクターは大体この立ち位置を入れ替えたものがテンプレだ。
この枠を壊したければオタクで根暗や、不思議ちゃん、はわわ系しかないが、それは劇薬の扱いくらい難しい。付け焼き刃が精々の私の腕では無理だ。
――というか、視線を床に固定していても周囲からの視線を感じる。きっとこの話の中では有名な幼馴染だったりするんだろう。ふわっと世界観を用意しただけの原作者に対して、肉付けがしっかりしてるね創作の神様。
「妹がごめんなさいね。大切な幼馴染の奥方ですのに。ねぇ、よろしければお名前を教えて下さるかしら?」
特別甘いわけでもないけれど、不安になっている相手を優しく包み込むような声だ。もうかなり古いかもしれない表現だけどバブみを感じる。これは惚れてもやむなし。
その声に勇気づけられたわけではないものの、このままやり過ごすことは不可能だと確信し、腹を決めて顔を上げようとしたその時、ふと夫が私の腰を抱く角度を変えて自身の胸板に顔を寄せさせる。上着に当たって化粧が落ちたら大変なので、慌てて背筋を伸ばしてスレスレをキープ。
まるで睦まじい夫婦のような距離感に不信感を募らせてこっそり見上げれば、そこには切なげにクラリス様を見つめる夫の横顔が――なかった。むしろこれまでで一番の極寒ぶり。マグロ船の急速冷凍庫もかくやという表情だ。
周囲の勘の良い出歯亀達は早々に離れていってる気がする。え、でも何で? 何でそんなキレていらっしゃるんですか。少なくとも結婚まで考えた大好きな彼女なのでは……。
「申し訳ありませんが妻はこういう場を好まないもので。名前をお教えしたとしても、クラリス様やシルビア様が出席されるような場に出ることは稀かと。ですので、どうぞお気になさらず」
そう話す夫の微笑み自体はとても美しい。顔が良いってズルイよね。密着したせいで夫の美声が身体越しに響いてきて、そんな場合ではないのにちょっとドキドキするのだから。でもこれは言うまでもなく後々のしっぺ返しへの嫌気に他ならない。
そして彼女を見つめる夫の瞳の奥には、言い様のない感情が揺らめいて見えた。てっきりこの会場でクラリス様と顔を合わせたら、契約妻などそっちのけで熱い視線を交わし合うものだと思っていたのに。この状況をどう理解したものかとシルビア様の方をそっと窺えば……ブルータス、お前もか。
珍しく眉尻を下げてオロオロと姉と想い人の間で視線を彷徨わせている。どうやら彼女にとってもこの状況は想定外のことらしい。あれだけ自慢の姉と田舎者の私の対峙を楽しみにしていたのに、何とも可哀想なことだ。
クラリス様は夫から拒絶されたことで言葉を失っているようだし、契約妻として、原作者として、こういう時はどうしたものか一瞬だけ考えたものの、元から歩み寄りのない形だけの偽装夫婦。少し考えた程度で相手のことなど分かるわけがない。
なのでここはもう、これ以上空気がギスらないようにこの場を離れる一択だと思うのだが、ふと見上げていた夫の表情に変化が見られた。悲しいことにさらに良くない方向へだ。
「ああ、クラリスこんなところにいたのか。挨拶の最中にいつの間にかいなくなっているから驚いた……と、一緒にいるのはシルビア嬢とアンバー伯?」
前半は彼女の名を爽やかに、後半はほんのりと訝しむ響きを持つ男性の声。その声に「ルイ様」とどこかホッとした声を返すクラリス様。たぶんうちの冷遇夫から彼女を奪ったお相手だろう。腰を抱く腕の力が強くて痛いくらいだ。
でも夫の陰からシルビア様をチラ見すると、彼女は助け船であるはずの姉の夫の登場を快く思っていなさそうである。彼女にしてみれば、大好きな姉と幼馴染との幸せな空間をぶち壊した戦犯だから当然か。それでもってやっぱり現第二(?)王子がトンビ野郎だったんですね。
「どうしたんだクラリス、そんなに悲しそうな顔をして。アンバー伯、何か心当たりはあるか?」
「いいえまさかエドガー王子。幼馴染を相手に意地の悪いことなど出来ますまい。むしろこの場で妻以外の女性二人に詰られて肩身が狭いのはこちらだ」
「シルビア嬢……彼の言葉は本当か?」
急に男同士のバトルに巻き込まれた哀れなシルビア様は「え、ええ、本当ですわ」と相槌を打った。けれど――。
「ジェラルドが奥方の名前を教えてくれなかっただけですわ。大切な幼馴染の奥方ですもの。風の噂でわたくしと同じ時期に出産したと聞いたものだから、母親同士仲良くしたいと思ったのですが……」
今度はそっちがガソリン投下するんですね。流石は幼馴染。息ぴったりじゃないですかヤダ〜。バブみのある人の寂しげな声音は反則でしょう。絶対白が黒になるやつだ。実際に「何だと? それは本当かアンバー伯」と声を低めるトンビ野郎。そもそも割り込みしたのは誰ですっけ?
加えて一時退却していた野次馬が集まる気配に、原作者としての怒りがフツフツと湧いてきた。この冷遇夫をとやかく言って弄って良いのは私だけだぞ。それを寄って集って王族トンビの味方に回るとは何事か――と、勝手にシナリオ書き足されたことで被害者面をしつつ一旦棚上げ。
抱き寄せてくる夫の腕の囲いを身を捩って抜け出し、シルビア様達の方へと向き直る。クラリス様はスラッとした体型で、絹のように滑らかなプラチナブロンドに、琥珀色の切れ長な目をした深窓の令嬢を体現したような美女。
エドガーとかいうトンビの方は浮名を流しまくりそうな見た目。冷遇夫はどちらかといえば硬質そうで男性的な美しさだが、こっちは退廃的だ。赤みの強い肩までの金髪に、色気を感じる垂れ気味な碧眼。彼の周辺だけフランス映画の気怠いBGMが流れていそう。
そんな彼等に向けて背筋を伸ばし、噛まないようにと祈りながら口を開く。
「初めまして、クラリス様にシルビア様にエドガー王子。ナタリア・アンバーと申します。このような華やかな場に出るのは気後れしてしまって、ご挨拶がおくれましたこと申し訳ございません。ジェラルド様も話さないで済む方法はないかと、子供のようなことを言って困らせてごめんなさい」
そう最低限の挨拶とカーテシーを終え、即座に俯いて再び夫の腕に寄り添って仲睦まじさを装う。しかし唯一この場で二度目ましてなシルビア様からは、じっとりとした嫉妬の視線を突きつけられた。
そして気付いたのか「貴女まさか……?」という言葉を発したものの、その直後に頭上から「それでは他にも挨拶がありますので、わたし共はこれで」という夫の援護射撃が降ってきて、腰を抱かれたままその場を離れる。
今夜初めてのエスコートらしいエスコートに、ほんの少しだけホッとしたのは、悔しいから絶対に認めない。