*15* 意趣返しのつもりですか。
冷遇夫にビンタをお見舞した事件から五日。
残念なことに私達はまだ屋敷の離れにいた。別に謝罪をされたからなどということは当然ながらない。食事も別々。要するにビンタ以前と何も変わらない生活ということだ。
ほんの少し離婚になって家に帰されることを期待していたものの、翌日には部屋の外に検閲を終えた本が積まれ、二日目にはマーサが作ってくれた本棚と、それと寸分違わない本棚が三台置かれていた。
彼女が作った本棚がプラナリアよろしく分裂でもしない限り、誰かが見様見真似で作ってくれたのだろう。ただこれはおそらく夫の指示ではなく、あの場にいた門番か、彼らが他の誰かに頼んで作ってもらったのだと思う。冷遇夫にそんな気遣いが出来るはずがないからね。
でもまぁ重ね重ねそう設定したのは私なので。まさか普通に生きる上でここまで難儀な性格になるとは思ってなかったけど、あれも個性よ個性。お飾り妻には冷たかろうが、彼にとってのヒロインには一途なわけだから。
――コトン、と。
人差し指を離れた最後の一冊が、僅かに細く残っていた隙間を埋める。中身は時間がなくても読める短編だ。オムニバスを書くことにハマっていた時のもので、お題は卵料理だった。ゆで卵とか目玉焼きとか、そういうの。
黄身の固さであったり、かける調味料の種類だったりで恋人とか家族でも好みが違うと一瞬おぉん? となるやつ。私はゆで卵なら黄身がオレンジで、横から押すと中心がトロッと溢れてくる半熟加減が好きだ。かけるのは粗塩。
前世の兄弟(姉妹)は黒胡椒、マヨ、七味、醤油、塩胡椒、ハーブソルトと、まったく誰一人として趣味が合わなかった。あそこまで揃わないともう逆に奇跡だと思う。仲が悪かったわけではないのに不思議だ。
そんな今となっては懐かしいだけの記憶に目を細め、天井付近まで整然と並んだノート(同人誌)の背を見て思わず頬が緩む。
「この本でマーサが持ってきてくれたものは最後みたいね」
「いいえ、本当はもう少し持ってきていたのですけれど……検閲に引っかかってしまったようですね」
「あら、そうなの? 根に持たれてしまったかしら」
「申し訳ありません。まさかここまで心の狭い方だとは……取り戻せるか分かりませんが、屋敷の中を探してみますか?」
「ふふ、良いのよ別に。旦那様の検閲に引っかかったということは、伯爵夫人として不適切だったということだし、内容の心当たりもモリモリあるもの」
「ですがナタリア様の書かれる物語はどれも心惹かれるものです。一番長く読ませて頂いているわたしが言うのですから、絶対ですよ。旦那様や奥様などはナタリア様が一般家庭の男子であれば、出版社に持ち込みをさせるのにと惜しんでおられました」
そう言ってグッと拳を握りしめるマーサ。次いで「シリル様も『姉様の新作を預かってない?』と聞いてこられました」と微笑ましそうに教えてくれた。弟はどうやら姉が嫁いだあとも新作を送ると思っているようだ。可愛いのでまた何かあの年頃(七歳)くらいの男児が喜びそうなものでも書こう。
でもそうか、出版社に持ち込みという手もあるのか。前世で原稿の持ち込みはもう廃れた手だが、この世界ではむしろ主流というか、そうする以外に手がないんだ。今回マーサに里帰りしてもらった時に感じたけど、経済的なDVをされたら手も足も出ない。
もしもの時のために刺繍でお金を稼げるほど上手くもないし、これは泣き所だったのだけど、これだけ小説があるのだ。どこかの小さな出版社に掌篇の持ち込みでもして、お小遣いを稼げないかやってみるのも良い。
私が書くのはもっぱら交換殺人ものとか、身代わり婚ものとか、無理心中ものとか、復讐劇ものとか、前世の童話のパロディものとかだ。割と節操なく書くものだから、不穏なものも結構多い。大枠では一応ヒューマンドラマ系だと思っているんだけど、需要はなくもないんじゃなかろうか。
「うやにゃ、あぅぅ」
「お嬢様もそう思われますか。流石はナタリア様のお子様。今からでも情操教育の必要がありそうな方とは違います」
「マーサったら、アメリアには旦那様の血も半分入っているのよ」
「ではナタリア様の尊き血に浄化されて、お嬢様はこんなにもお可愛らしいのですね。もうほぼナタリア様の血で出来ておりますわ」
「そんなまさか」
「うみゃみゃ、むっふー」
「お嬢様の同意も得られましたし、まだまだ本は残っておりますが、片付けは一旦この辺にして休憩しましょう」
強引な同意の取り付けと裏腹に、本棚の本を引っ張り出そうとしていたアイリーンの手を止めるマーサの表情は優しい。確かに娘を寝かしつけて休憩してからの方が、本の中から物語のメインキャラの名前を探すのも捗るだろう。
そう思って彼女の提案に頷こうとしたその時、部屋のドアがノックされた。時計を見るとまだ十時だ。いつもなら七時半の朝食の次に部屋のドアがノックされるのは昼食の十二時である。
珍しい時間の来訪者に一瞬マーサと顔を見合わせて首を傾げるが、その間にもまた控えめなノックが響く。前回夫が訪ねてきた時は私が出て怒られたのでマーサに目配せすれば、彼女は心得たとばかりに頷き、床に積み上げられた同人誌の入っていた空箱の間を器用にすり抜けてドアを開けた。
するとそこには何やら鬼気迫る表情のメイドが立っており、こちらの顔を見ると震える声で「お、奥様、だ、旦那様が、来訪されたシルビア様のお相手をせよと仰せです」と言う。薄ら副音声で〝突然〟と聞こえた気がする。たぶん当たらずとも遠からずだろう。
「はいぃ? どうしてナタリア様があの方のお客人をお相手しなくてはならないんですか。そちらの面倒事はそちらで対処して下さいませ」
「で、ですが、その……旦那様はこちらだけでは不公平だからだと」
「何を今更公平性を持ち出しているんです? 第一何に対しての公平性を指しているんですかそれは」
「え、あ、わ、分かりません」
「分かりません? 分かりませんとはどういうことですか」
マーサに睨まれて震えているメイドは、どうにも屋敷の主人がいるような場所を任されている様子がない。きっと立場が上のメイド達から、一番若くて立場の弱いメイドまでこの伝言ゲームが回ってきてしまったんだな。それを思うと少し不憫になってくる。
しかし、ふむ――このタイミングでの公平性か。だとしたらこの検閲を逃げ延びた同人誌達のことを言っているのだろう。ポジティブに読み取るとすれば、自分にも疚しいことはないからシルビア様にカマをかけて探ってみろ、ということではないか?
違うかもしれないけど、そうかもしれない。ここは向こうの挑発に乗ってみるのもありか。ここでお飾りの妻として出るか、使用人のフリをして出るかはたぶんこちらに委ねられているんだろう。
そういうことなら……生き延びるヒントを得られるかもしれない。うん、悪くないな。むしろアリかも。
「良いわ。お相手させて頂きます。その代わり貴女が今着ているそのお仕着せを貸してもらっても良いかしら?」