★11★ 契約同居人。
まだ耳の奥にこの世の生き物が出すとは思えない声が響いている。散々仰け反る小さな身体を支えた腕は、未だ味わったことのない振動に攣ったままだ。
「うふふふ、お父様は口程にもなかったわね〜、アイリーン」
「にゃむむむ〜」
「あらそう、にゃむむむ〜なの? 可愛いわね〜」
「あわぅ、わー、むにゅにゅじゅじゅじゅ」
「まぁまぁ、アイリーンはお喋り上手なのねぇ」
そう楽しげに笑いながら赤ん坊をあやす妻を見て、思わずベッドに仰向けに倒れたまま舌打ちした。けれど彼女はこちらの態度を気にも止めず、まるで赤ん坊を相手にダンスでもしているかのようにクルクルと回る。
力を込めて握れば簡単に折れそうな細腕で、男であるわたしより遥かにしっかりと赤ん坊を抱きとめて軽口を叩く。見れば見るほど地味な顔立ちで、ともすれば屋敷の中ですれ違っても見落としそうだ。
しかし腹立たしいことに、さっきまでわたしの腕の中で悪鬼の形相で喚いていた娘は、すっかり憑き物が落ちたように大人しくなり、そんな存在感の希薄な妻の髪を一房握りしめたままうとうととしている。
良妻というには慎み深さが足りず、賢母かどうかはまだ未知数。正直に言えば彼女にはどちらも期待していない。家の存続のために男児を生んでくれれば他には何も望まない。
所詮社交界で言い寄ってくる令嬢や、娘を勧めてくる貴族連中が鬱陶しかったがために、その虫除けとして娶っただけのお飾りだ。
他の貴族家と繋がりが薄く、わたしの家名に興味がなく、野心のない家の娘ならどこの誰でも良かった。相手がクラリスでなければ誰と結婚しても同じこと。都合良くお人好しな貴族家で借金まであったこの女が、ちょうど良い存在だっただけにすぎない。
まさか社交界で常に壁の花だった彼女の気がここまで強く、奇行に走る癖があり、面倒な侍女を連れてくるとは思っていなかったが……それでも彼女にはクラリスと交わしたような建設的な会話は望めないだろう。そうでなければ彼女の領地の経営は、ああまで傾いていないに違いない。
領地経営は慈善事業ではないというのに、彼の地は他領で爪弾きにされる遊牧民や棄民を受け入れているという。そのせいで病を持ち込まれ、診療所などの設備費用を圧迫しているというのだから笑える話だ。
結婚式の際に彼女の年の離れた弟を見たが、そんな領地を継がされるのかと思うと少々同情してしまう。いっそのことあの不遜な侍女は、そのまま弟付きになってやれば良い。
金で買ったお飾りの妻に屋敷の使用人達が同情したりしないよう、接触は最低限に留めさせている。下手に逃げ場を作って今回のように急に里心がつきでもされては困るからだ。
跡継ぎを産めば離婚。子供は男児以外はそちらで連れ帰るか、こちらで引き取って政略結婚の駒にする。こんな条件を提示して買える高位貴族の娘など、普通はいない。でも彼女とその家族は呑んだ。であれば、契約が成されるまで手放す気はない。
「子供をあやすのはわたしの仕事ではなく君の仕事だ。その言い分だと君はわたしの代わりに完璧な書類仕事をする必要がある」
「そうですわねぇ。ですがその必要はありません。私はこれでも自分の出来ることと出来ないことの区別くらいはつけますの。完璧な書類仕事の才能は皆無だと胸を張って言えますわ」
こちらを見ることもなく笑いを含んだ声音でそう返され、自分が酷く子供じみたことを言ったのだと思い至り、余計に腹立たしさが増した。ただでさえ仕事が立て込み睡眠が足りていなかったところに今日の騒ぎだ。
クラリスが結婚してから疎遠になっていたのに、わたしが結婚してからさらに疎遠になったシルビアが、まさか妻子を見るために乗り込んでくるとは思っていなかった。それについては完全にこちらの落ち度だ。
あの場でより面倒事になることを察した彼女が、咄嗟に乳母を演じてくれたおかげで最悪の事態は避けられた。借金があろうとも伯爵家の娘が使用人を演じるのは不快だっただろう。しかし素直にそのことを妻に謝罪するのは何故か癪だと感じている。
こんなものはただの癇癪の八つ当たりだ。気持ちのない形だけの謝罪を述べて、さっさと仕事に戻るべきだと分かっている。
だが疲れからなのか、一度倒れ込んでしまったベッドから起き上がるのは、思ったよりも億劫で仕方がない――と。
「お疲れのご様子ですし、そのまま少し眠られては如何ですか? このベッド無駄に大きいですから、私とこの子と旦那様で並んで寝ても大丈夫ですよ」
「無理だな。まだ今夜中にやるべき仕事が残っている」
「はぁ、今夜中に。ですが旦那様、そんな今にも眠気に負けそうな赤ん坊よりもふにゃふにゃな状態で、お仕事になります? 素人考えですけれど、見落としが増えて余計に無駄な時間を費やしそうだと思うのですが」
「……君には関係ないだろう」
「ええ、確かに関係はありませんけれど。私からしてみれば、完璧主義者な旦那様が失敗してオロオロするのは面白いと思いますし。まぁ寝ないなら寝ないでお好きなようになさいませ。アイリーンはもうお眠よね?」
「ふにゅう……んにゃにゃにゃ」
「うんうん、良い子ねぇ。それじゃあそんな良い子なアイリーンに、今日は何を歌ってあげようかしら……と」
一体どこまでが本気なのか薄く微笑んだ妻はそう言うと、またこちらに興味をなくして、腕の中で不明瞭な発言とあくびをくり返す娘に視線を落とす。跡取りにならないどころか、離婚後には不良債権にしかならないそれを、まるで宝物のように扱う様は滑稽でいっそ憐れですらある。
「うーたをわぁすれた、かなりぃやぁはー」
いつも屋敷のどこかから流れてくる、恐らく異民族のものであろうこの妙な哀愁を感じさせる抑揚の歌を聞くと、じわりとこめかみの辺りが熱を持つ。これが耳障りだと感じる苛立ちからくるものなのか、疲労からくる目眩の予兆なのかは分からない。
ただ徐々に背中に入っていた余分な力が抜けて、ベッドに身体が沈み込んでいく。その間も彼女は旋律を紡ぐのを止めず、裏の畑に捨てられそうだった金糸雀は金の櫂を与えられて、月夜の海に浮かべられた。
段々と輪郭が滲んでいく妻子を視界に捉えながら、むしろその方が金糸雀にとっては恐ろしいのではないかと思ったが、金糸雀がそうまでして取り戻したいのが歌だというのなら、それでも良いのかと。
眠気で働かない頭が導き出したこの答えを、明日の自分は嗤うのだろうな。