*10* 家族団欒って良いよね(半笑い)
深夜の自室の入口に立った私達の間に一瞬緊張が走る。
何となく夫の視線から抱きかかえたままの娘を隠してしまった。昼間の彼女の顔がちらついたせいかもしれない。まさかここで危害を与えてくるとは思っていないが、用心しないでいられるほど私達の夫婦間に信頼関係はないのだ。
だからこそのひりつきなのだけれど、彼はこちらの感情を読み取ってか、やや苛立たしげな表情を浮かべた。
「仮にも一応は君の夫だ。深夜に部屋を訪ねることに事前の許可が必要だとは思わなかったが」
「いえ、そういうつもりでは。ただこんな時間にいらっしゃるのは、その」
〝娘を授かるまでの間以来ですよね?〟と聞くのも躊躇われる。しかしこの時間に契約妻の部屋を訪ねてくる理由なんてそれくらいだろう。でも夜の渡りは半年待ってと事前に申告したし、口約束とはいえ受理されたはずだ――と。
「そうあからさまに警戒をせずとも、今夜君を抱くつもりはない。昼間の件で苦情を入れにきただけだ」
溜息交じりに苦情の申し入れにきたと言われても、聞きたかった言葉がもらえたことの方にホッとしてしまったせいで、つい「良かった」と漏らしてしまい、さらに夫の眉間の皺が深くなる。
その歳でどこまでその気難しそうな皺を育てるんだろう、とか内心ひっそり余計な心配をしていたら、それもまた顔に出ていたらしく今度こそご機嫌を損ねてしまった。
貴族として表情筋を鍛えた方が良いかもしれないと思いつつ、彼の機嫌がこれ以上悪くならないよう塞ぐように立っていた入口から身体をずらし、室内へと招き入れる。未婚の男女では問題があるけど、一応契約とはいえ夫婦なのでドアを半開きにしておく必要はない。
彼の入室後はさっさとドアを閉め、突然の来訪者(父親)に身を固くする娘の背中を擦る。このくらいの子って野生動物的なところがあるのか、知らない匂いや音、世話をしている人間の緊張を感じ取って警戒するのだ。
従ってさっきまでうとうとしていたアイリーンは、すっかりお目々ぱっちりの状態。寝かしつけるタイミングでの来訪はご遠慮願いたいんだけど。
ゆらゆらと抱きかかえたアイリーンの身体を左右に揺らしながら、無表情にこちらを見下ろす夫と対峙する。正面から見上げる夫は相変わらずイケメンだ。これで愛妻家に設定していたら今頃この結婚生活は天国だっただろうに。
いやまぁ、自作品(恋愛パート含む)に転生出来たらなんて考えながら、小説書く人はあまりいないだろうけど。しかしこちらの内心など興味がない夫は、苦情とやらのために口を開いた。
「今日は面倒なことをしてくれたものだな。以前から思っていたが君の仕事には無駄が多すぎる。何をどうすればあそこでシルビア様に捕まるような愚をおかせるんだ。おかげで余計な詮索をされただろう」
確かに書き手ならここで出すよね、理不尽な先制パンチ。これは冷遇夫の基本のキ。大体作中で〝一方からのフィルターかかりまくった情報しか信じない有能な人(笑)〟にありがちなやつだ。でもね、読者諸君。こういうキャラのことを嫌いにならないであげてほしい。
たとえシルビア様とやらとの関係性に対して一言も説明がなかろうがね。だってヘイトを稼がないと物語の起伏がつかないからさ。ザマァを期待されるキャラ管理大事なのよ――とはいえ流石に多少ムカつく。自分で設定したのにそれこそ理不尽極まるけども。
「まぁまぁ……うふふふ。乳幼児の世話に無駄が生じるのは、次の予測がつかない場合が多いからですわ、旦那様」
「最初に乳母がいなくとも世話が出来ると言ったのは君だ。であるのならば、君の作業効率が悪いだろう」
「世話中に横から話しかけられては作業効率も落ちます。第一公務の隙を縫ってダンスの練習と来賓の名前を憶えさせるという旦那様の発案は、そちらの都合にのみ対応したものですわ。乳幼児に公務の隙など理解出来ませんもの」
「ならば君がそれを部屋に置いて洗濯が出来る時間を作るべきだ。寝かせつける時間を調整すれば良い。毎日の作業を最適化するのは基本だろう」
別に小馬鹿にした表情を浮かべたわけではない。妻の名前を頑なに呼ばないのも別に構わない。だがしかし、お腹を痛めた子供をそれ呼ばわりはもう聞き流せないわ。自己肯定力の低い子になったらどうしてくれるんだ。
母親が早逝して父親には認められず、屋敷で孤立していく自己肯定感の低い美少女。何とまぁ上質なドアマットに……させるか。我が子を踏まれる前にその鼻っ柱踏んでやるわ。
「ですから、公務の隙と子育ての隙は噛み合わないようですので、こちらからそちらに伺いますと申し上げましたわ。それに今日の昼間の件は、事前に来客があるとお教え下さらなかった旦那様の不手際です。旦那様は意外とお仕事の効率化がお下手なのでは?」
わざとらしいくらいに口角を上げてそう言えば、まさか契約妻相手にそこまで言い返されると思っていなかったらしい夫は、一瞬表情を完全に消し去った後に「――……何だと?」と低く呻いた。美形の殺意は圧が凄い。
これまでどんな扱いにも動じてこなかった娘も、今夜のこれにはついに感情が決壊したらしく、腕の中で小刻みに震え始めた。それに伴い体温も上昇。安眠への道筋は絶たれた。
「あうぅ……ぁぴぇぇぇ」
「幼子の前で成人男性がそのように不機嫌な気配を撒き散らさないで下さい。こんな時間に怖がらせて泣かせるのは効率的とは思えませんわ」
「待て、わたしは何もしていないだろう」
「存在が怖いのですよ。普段は私とマーサの二人だけですもの。身体の大きな男性が怖いのは当然です。可哀想なアイリーン。良い子だから泣かないでね。貴女はお母様の宝物よ」
「それが貴女にとっての宝物か。跡取りになれぬ以上、何の役にも立たないだろうに。現に母親である君からは日に日に生気が失われているようだが?」
「何に価値を見出すかは人それぞれですわ。この子は契約内容外の子供ですから、旦那様にとっては無価値でしょうが、私には初めての子供という価値がありますの。私が窶れて見窄らしく見えるのは子育て初心者からでしょう」
世界中の母親を敵に回す発言するじゃないの、うちのヒーロー。いや、この場合はアンチヒーローか。何にしてもヘイトが過ぎる。このままだとイクメンには絶対なれないわこの人。
「あびゃあああああああああ!!」
義両親はすでに他界しているから、この人の幼少期にどういう家庭環境だったのかは不明だけど、それにしたって大人気がない。赤ん坊にどれだけの役目を求めているんだろうか。
「うぎゅきいいぃぃぃぃっっっ!!」
このままだとつかまり立ちや、パパママ呼び、オムツトレーニングまでの道程は長そうだ。でも必ずマーサと二人だけでもやり遂げて見せるわ。辛い未来に突入するまでは、私達の愛情だけでも信じさせてあげないと。
「ほわにゃにゃにゃああぁぁぁぁ!!」
「ちょ、待て、これはこんなに叫ばせて平気なのかこれは? しかも寝る気配が一向にないぞ」
「このくらいの赤ちゃんはこういうものですよ。元はといえば、この子がもう眠りそうだったところに旦那様がいらしたせいでこうなったのです。責任を持って旦那様が抱っこして下さいませんか? 大泣きすればその後は割とすぐに寝入るので」
「い……嫌だ」
「効率的に、でしたわよね?」
ジリジリと後ずさる夫の肩に抱っこ紐をかけ、腕に無理やり娘を抱かせる。その瞬間の二人の顔といったらまぁ面白くて。普段は一切顔を合わせない者同士が顔を合わせる時というのは、年齢なんて関係ないのだなと妙な感心をしてしまった。スペースキャット。
「あぎゃああああ゙あぁぁぁ゙ーーー!!!」
「なっ!?」
「あばびゅびゅぶぶぶ、にぃぃぃぃやぁぁぁぁーーー!!!」
「おい、ど、どうすればいいんだこれは!!」
「そのまま力尽きるまで泣かせて下さいませ。あ、けれど泣かせすぎると吐き戻しますので、衣服にご注意下さい」
耳栓がなければ辛いレベルの激しい泣き声に、常なら無表情か仏頂面をしている夫の顔に焦りの色が浮かぶ。はー愉快愉快。娘よ、母の無念を晴らしてくれてありがとう。か弱い腕をブンブン振り回して荒ぶるアイリーン。対する夫は小さな拳を避けるだけの防戦一方だ。
その様子をベッドの端に腰掛けながら見守る深夜の自室。これが我が家で初めての家族団欒となった。