3話
車でスーパーに行き、必要なものを買った。
昨日知った事実が頭にこびりついて、昨夜はあまり眠れなかった。ケンジやルナは、友人たちに起きたことを知ったときどう思ったのだろう。エリはどんな気持ちで生きているのだろう。
午前中にやるべきことはやってしまって、夕方まで暇になってしまった。実家で父とともにテレビを見るが、なんともつまらない。こんなくだらないことで人生を消費している場合ではない気がする。
とはいえ何もやることがないので、仕方なしにダラダラと過ごした。自室で昔クリアしたゲームをやったりして、少し懐かしい気持ちになって、でも子どものころに熱中したようにはなれないことも分かった。
――小さなころは、毎日が楽しかった。何をしていてもなんとなく楽しかった。
時間になったので公園に向かった。すでに何人かの大人たちが準備を始めていた。
いつもは子どもたちが遊んでいるはずの時間なのに、今日は誰も公園にいない。近くを歩く人たちも少ない。町内全体がそわそわしているようだ。それは今日が夏祭りだから。とても小さな田舎の、小さな町内の夏祭り。
俺だって、昔は毎年夏祭りを楽しみにしていた。
塗装が剥げた掲示板に貼られている夏祭りの案内によると、今回は第30回らしい。すごいな。30年もやってるんだ。俺が生まれる前から、ずっとやっているんだ、この夏祭り。
いったい誰が始めたのだろうか。たぶん聞いても知らない人だろうけれど、その人がどんな気持ちで夏祭りを始めようと思ったのかは分かる。
きっと本当は俺のような人間が参加すべきではないのだろう。ケンジやルナやエリのように、子どものために生きる気持ちを持った人間だけが参加すべきなんだ。
昨日のケンジの言葉が思い出される。「主役は子どもなんだから、俺たちは楽しちゃダメ」。
俺が子どものころ、たしかに自分は主役だと思っていた気がする。実際にはケンジたちの脇役だったかもしれないが、夏祭りの日に公園の入り口を通ったとき、俺は異世界にやってきた勇者のような気分だった。いつもの日常が急に大きく変化し、他の日には体験しえない非日常が数時間だけやってくる。その非日常の数時間は、その後ずっと思い出になって人生を変えるのだ。
そんな大事な日に、俺のような、子どものためでなく自分のために生きている人間が参加していいのだろうか。俺は自分が異物であるかのように思えた。
水道からバケツに水を入れていると、エリがやってきたのが見えた。青いエプロンを着て、度の強そうな眼鏡をしている。後ろに縛った黒い髪の毛の中には少し白いものが見えた。
手際よく屋台を組み立てるところを見ていると、エリはこちらの視線に気づいたのか、俺の顔を眺めて、「あっ」と声を出して口に手をあてた。
「ヒロじゃん! 久しぶりだね!」
「やあ、久しぶりー」
エリは作業を途中で止めて、俺の方に小走りで駆け寄ってきた。俺はバケツの水の量を確認して水を止めた。
目を合わせるとなんだか妙に恥ずかしかった。小学校の時ですらそれほど会話した記憶がないのに、今さらになって会話をすることになるとは思わなかったし、自分の知らないところで複雑な経験をしていると知ってしまった今、どういう顔で話せばいいのかよく分からなかった。だが、エリは俺の心情を知る由もなく、ニコニコと笑顔を浮かべている。
「帰省してんの?」
「そう。昨日、ケンジから声かけられて、今日手伝うことになった」
「へえ、身軽だね。でもありがたいよ、今日うちの子も来るから、声かけてあげてね」
微笑むエリの顔をよく見ると、目の下に大きな隈ができている。表情もどことなく疲れているように見える。悪気はなかったが、どうしても昨日会ったルナと比べてしまい、俺はバツが悪くなって目をそらしてしまった。一瞬でも沈黙が生まれるのが嫌で、俺は無理やり言葉を出した。
「あのさ、なんか俺がいない間に、結構いろんなことあったみたいだね」
「あー、まあね。何年も経ってるんだから。楽しいことも嫌なことも、そりゃね」
エリはうなずき、これまでのことを思い出したくないかのように目線を落とした。
俺はエリの触れられたくない部分に触れないように、まるで独り言のように自分の心境を話した。
「戸惑ってるんだ、正直」
「ん? うん、うん、戸惑いこそが人生だよ、ヒロくん。……人生何があるかなんて分からないんだから。いつまでもそのままじゃいられないさ、誰も」
エリは演技がかった口調で、しかし自分に言い聞かせるかのように言った。
誰もそのままじゃいられない。エリも、ケンジも、シュウやリョウも、そして俺も。
「ホントは俺なんかが夏祭りに参加しない方がいいんじゃないかって思ってるんだ」
「え? なんで?」
「だって俺はエリやケンジのようにこの町にずっと住んでいるわけじゃないし、子どもがいるわけでもない。今日の主役は子どもだけど、俺のような異物がいたって邪魔なんじゃないかって思うんだ」
自分でもよくわからないが、なぜか俺はエリに自分が夏祭りへ参加することへの違和感を口にしていた。それはたぶん、俺のような人物が夏祭りに参加することへの懺悔のような気持ちからだと思う。
俺の言葉を、エリは目を丸くして聞いた。その後一瞬口を開いてすぐに閉じ、目線を下に落としてから、俺の目を見て言った。
「別に、そんなの子どもたちは気にしないよ。考えすぎ」
「そうかな」
「そうだよ。だってさ、子どもたちがあの人は異物だとかなんだとか、そんなの知るわけないんだから。てか正直どうでもいい。子どもたちに関係ないでしょ?」
「まあ、そうかもしれない」
「かもしれない、じゃなくて。子どもに大人の事情はどうでもいいの。笑顔見せなきゃ。分かった?」
「あ、ああ……」
エリの言葉には人の親としての力強さがあり、俺はその迫力に気圧されてしまった。その姿が煮え切らないように見えたのか、少しエリの声が大きくなった。
「あのね、今日がどういう日なのか考えてみて。ただ子どもが喜ぶ姿が見たいだけでやってんじゃないんだから。親の思い出作りじゃないんだよ。主役は子ども。私たちは物売るだけだからまだいいけど、お祭りのためにずっと前からマジックの練習したり、クイズ用意したり、色々面倒な手続きしたりしてくれる人たちはどういう気持ちでやってるかを考えたら、どうだっていいでしょ、あんたが自分をどんな人間だと思ってるかなんて」
エリの言葉に俺は何も言えなかった。自分の小ささに、消えてしまいたくなった。
言い終わって、エリはバツが悪そうに「準備に戻ろう」とつぶやいて、屋台の準備に戻っていった。俺は深呼吸してから、水の入ったバケツを自分のジュース売り場へと運んだ。
バケツの中に氷とジュースを入れて、俺のやることは終わった。
公園の中央ではステージの準備をしている人たちがいたが、自分が何か役に立てるとも思わなかったので手伝わなかった。配線やら、照明の位置やら、前々から打ち合わせをして理解している人間でないと、手伝いに行っても邪魔になるだけだろう。
だんだんと空が赤くなって、少し気温が下がってきた。もうそろそろ、祭りが始まる時間だ。
子どもたちがキョロキョロしながら公園にやってきた。小さい子、大きい子、男の子、女の子、誰の名前も知らないが、みんな何かを期待したような表情をしている。ワクワクを胸に秘めている。
焼きそばやたこ焼きの焼ける音のなかに、「いらっしゃい!」という声が響き始める。ソースの匂いが風に乗って広がっている。もう17時なのか、と思う。大人になると時間が経つのが早い。
俺はジュースを買いにやってきた名も知らぬ少年に、バケツの中から好きなジュースを選ばせて、ペットボトルと手を拭いてやった。俺はいつのまにか笑顔を作っていた。
だんだんと公園はにぎやかになっていったが、昔に比べると盛り上がりはささやかだった。その原因は明らかに子どもが少ないせいで、数えてもせいぜい12,3人といったところだ。少子化は驚くほど進んでいるらしい。
「ラムネ2本ください」
少年2人がやってきて、お金を俺に差し出した。俺は精いっぱいの自然な笑顔でお金を受け取り、バケツの中からラムネを選ばせた。「つめてえ」と笑う少年の笑顔が、とても尊いもののように思えた。選んだラムネを拭いてやると、ふたりは嬉しそうに「ありがとう」と言った。
少年たちはベンチに座ってラムネを飲み干すとビンの中からビー玉を取り出して、何やら話をして笑った。それから公園の奥の坂のほうに歩いて行った。
18時になって、学校のチャイムが鳴った。それと同時にケンジたちが中央のステージの照明を付けた。ステージの前から小さな歓声が上がる。
ステージの上に大学生らしき若い男が出てきて、マイクを持って喋り始めた。どうやら彼が司会進行らしい。小学生たちには馴染みの顔らしく、ときどき野次が飛んでいる。
みんな楽しそうだな、と思うと、自然と穏やかな気持ちになっていた。今まで抱えていた自分が異物であるかのような感覚は、すっかり無くなっていた。
懐かしいBGMが流れ、ケンジの兄がステージ上にあらわれた。相変わらず音質の悪いマイクのせいで何を言っているかあまり分からないが、マジックの腕は中々だった。右手の500円玉が消えたかと思うと、左手から出てくる。左手から消えると、次は観客の男の子のポケットから出てきた。ステージの前の小学生だけでなく、周囲の大人たちからも歓声が上がった。
マジックショーが終わると、30代ぐらいの男性がギターを持って弾き語りを始めた。おそらく俺が子どものころに弾き語りをしていたあのお兄さんと同じ人だと思われた。見事な技術としっとりとした歌声に、俺はすっかり聞き入った。子どもたちは体を揺らして一緒に歌を歌っている。大人たちは微笑みながらそれを見ていた。
突然、演奏が止まった。どうやらステージに何かが投げ込まれたらしい。ざわつく子どもたちに、苦笑いするステージ上の男性。「なんか知らないけど、毎年のことなんだよねこれ」。男性の言葉に、周囲の大人たちから失笑が漏れる。
公園奥の坂の上を見ると、ふたり分の影が公園の出口に走っていくのが見えた。誰も彼らを追いかける者はいない。
弾き語りが再開し、公園にまた歌声が響き始める。
辺りはいつの間にか暗くなっていて、屋台の小さなライトでは大人たちの顔がぼんやりとしか見えなくなってしまった。
しかし公園中央のステージの照明は強く、歌う子どもたちの顔がハッキリと見えた。
いつまでも、彼らの楽しそうな顔を見ていたいと思った。