二人の未来をあきらめない
殊
夜中、ふっと目が覚めると彼がベッドの端に座りボーっと窓の外を見ていた。月明りが彼の横顔を照らしている。その横顔は普通ではなかった。何かただならぬことでも起こったようなそんな様子だ。声を掛ける事も躊躇われた。私は息を潜め彼の様子を伺っていた。どれくらい時間が過ぎたのだろうか、彼は私の隣に横になり背中を向けた。暫くすると呻くように
「なんでだよ、なんで…」という声が聞こえた。
翌朝、いつもは起こさなくても自分で起きてくる彼が時間が過ぎても中々起きてこなかった。寝室に行くと布団の中で寝息を立てて寝ている。寝顔を暫く見ていた。
(……)
「陽さん、時間よ」
「何時?」
「7時半過ぎてる」
「……起きなきゃな」
「…陽さん、大丈夫?夕べ眠れなかったみたいだけど…どこか具合が悪いんじゃ?」
「えっ?あぁ…なんか嫌な夢をみて眠れなくなっただけ。…大丈夫だよ、少し眠いけど…」
夢にお母さんが出てきたとも言っていた。無理に微笑んでいるようにも見えた。
(お母さんが出てきて、嫌な夢って…)
それから暫くの間彼の様子はおかしかった。ふさぎ込む様子が多く、話しかけても上の空だったり、普段なら怒るようなことでも無いことにイラついている事も多かった。
(あの夜からだ…)
聞きたいが聞くのが怖かった。
それから一か月くらい経った頃から彼の様子は以前と変わらないようになった。
というより、以前よりも笑うことが多くなった気がした。
それはそれで不安だった。
私が初めて彼に出会ったのは、小学校四年生の時飼育員に選ばれて初めての委員会に出た時だった。コの字に並ばれた机に座った。四年生の向かいに六年生が座っていた。六年生は男子二人、女子三人、その中の一人が彼だった。飼育委員の活動内容を先生が説明している時、何気なく前を見ると彼と一瞬目が合った。ドキッとした。直ぐに彼は隣の子に話しかけられ横を向いてしまった。それから何度か彼の方を見たけど目が合うことは無かった。今思えば、あの時、あの瞬間彼の事が好きになったのかもしれない。隣の子と話しながら、時折見せる笑顔。優しい笑顔。あの笑顔が頭から離れなくなった。
五月に入り、ウサギ小屋の当番が回ってきた。初日の朝、集合は八時十五分だったが、初めての事に不安を感じて、30分早い7時45分についてしまった。さすがに早かったのではと自分でも思った。後悔に似た思いが沸き起こってくる。時計を見るとまだ8時。後15分。身の置き所が無いとはこういうことを言うのだと思った。後15分がとても長く感じた。8時10分頃に校舎の方からこちらに男子が向かってくるのがわかった。よく見ると
(えっ、あの人?えっ、当番一緒?)
心臓が一気に高鳴り始めた。
そばに来た彼が
「お早う。早いね。何分に来たの?」
「…四十…五分です。」消え入りそうな声で答えた。
「えっ?もしかして時間間違えた?」
「……」恥ずかしさで顔が赤くなった。
(恥ずかしい、どうしよう、変な子と思われているよね…)
でも聞こえてきたのは
「真面目だなぁ」優しい彼の声。その声からは決して馬鹿にしているように感じられない。
思わず顔をあげて彼を見た。あの委員会の時に隣の子に向けていた笑顔が今私に向けられている。ホットした。彼の笑顔が不安だった私の心を、行き場のなかった私の心を優しく包んでくれた。
それから彼の指示に従い、小屋の中の掃除を始めた。遅れて五年生の子がやって来た。彼はその子に餌と水を持ってきて交換するように指示を出し、私たちはごみを捨てに行った。言葉は殆ど交わさなかった。小屋に戻ると五年生の子が待っていた。
「じゃあ、こんなもんかな?終わりにしよう。」
五年生の子はさっさと教室に戻って行った。
「えっと、名前は…」そう言いながら名札を見ようとしている彼に
「えっ、あっ、押上です」
「押上さん、明日は時間通りで大丈夫だから」
「…はい」
「じゃ。」校舎に戻って行く彼の後ろ姿をずっと見ていた。
(夢みたいだ)
彼の名前は「高村陽」「陽」と書いて「はる」と読むことは後で知った。
彼の笑顔は名前そのものだと思った。
結局その後も、いつも五分前には着いていた。
当番が終わりに近づいたある日、いつも通りに五分前に小屋に着き何気なく小屋を覗いてみると、一匹のウサギの様子が明らかにおかしい。鍵を持っていないため中には入ることが出来ない。心配で小屋の金網にしがみついて中を覗いていると
「どうしたの?」と彼の声が
彼が来たことにも気が付かなかった。
「ウサギが一匹…あの様子がおかしいんです。あそこ、あの奥に居る…」
彼がウサギの方を見ると、慌てて鍵を開けて様子のおかしいウサギを抱き上げた。
「押上さん、林先生呼んできて」
「は、はい」
放課後、ウサギの事が気になり教員室の前に来ると彼が丁度出てきてウサギの事を伝えてくれた。
命には別状無いと聞き、ホットした。彼を見ると頷いて微笑んでくれた。
その後、何度か当番と委員会で一緒にはなった。目があえば軽く会釈すると微笑んでくれたが、それ以上話をすることもなかった。
そして、彼は卒業していった。
中学校に入ると思いがけず直ぐに彼と言葉を交わすことができた。
五月の連休明け、小学校からの友達である舞から
「放課後、部活の練習を見学するから体育館に行っているね。後から殊も来てね」と言われた。
ホームルームが終わり担任との話が済んで教室を出て体育館に向かう途中の渡り廊下を歩いていると、体育館の横の水飲み場に一人の男子生徒の姿が見えた。
(彼だ)
中学校に入学して以来、三年生らしき男子を見かけるといつもその中に彼の姿を探していた。中学校は三つの小学校が一緒になっているため、生徒数も単純に3倍。一学年6クラスも有るため、その中から彼を探すのは容易では無かった。でも、偶然、一度だけ階段から友達と降りてくる彼を見かけた。今日これで二度目になる。彼は私に気付いていたのかずっとこっちを見ていた。私は彼の方を見ている事が出来ずうつむきがちに歩いてしまった。近づいたので思い切って彼の方を見ると、
「久しぶりだね」
「はい」
「今、帰り?」
「はい」
「そっか…」
「……」
話が続かない。
「じゃあ」
彼は体育館に消えていった。
彼の後ろ姿を見送りながら
(やっと、会えたのに、声もかけてくれて…なのになんで私…ああもう)
“はい”としか言うことが出来なかった自分への自己嫌悪。そして深い溜息。
(中に入っていったから、今部活ここなのかな?)
気を取り直して体育館の中に入った。舞からは観覧席で観ていると聞いていたから、観覧席を見上げ舞の姿を探した。左手の観覧席の中央よりに私に向かって手を振っている舞の姿が見えた。
「遅かったねぇ」
「ごめん、終わってから先生に捕まって、話が長くなってしまいました。」
(でも、そのおかげで彼と会えた)
「そっかぁ、あの先生話し出したら長そうだしね。それよか、ねっ観て!入ろうと思っているバドミントン部。あの三年生ぽい人で一人めっちゃうまい人いるんだよ。うまいからすごく目立つの!」
舞の言う方を見るとコートの半分がネットで別れてバドミントン部が練習している。反対側はバスケ部が練習を行っていた。この中学校の体育館は建て替えたばかりで中学の体育館としては県内では二番目に大きい体育館だという。
バトミントン部の中には彼は居なかった。反対側のバスケ部を探すとネットが張られて見ずらかったが
(いた!バスケ部なんだ)
「うん?殊、バスケ部入るの?」
「えっ、あー、ううん、ただなんか知ってる人見たような気がして」
「だよねぇ、殊はバスケって感じじゃないもんね?」
「うん?そうなの?」
(えっ、私ってバスケってイメージじゃあないの?)
横で舞が一人しゃべっていたけど、私は彼の姿を追っていた。ハーフコートの中をパスやドリブルの練習をして躍動する彼を見ていた。観覧席からは遠いが彼だとはっきりわかる。小学校からは随分と背が伸びてる。体の線は細いけど程よく筋肉の付いた手足。そして友達と時々笑顔で言葉を交わす彼がいた。
(あの、優しい笑顔…変わらなかったな)
あの淡い思い出が蘇る。
その後、大きい行事が有ると何度か見かけたが、言葉を交わすことはもちろん、目が合うことも無かった。
最後に彼の姿を見たのは、三月卒業式。名前を呼ばれて立つ彼を、卒業証書を手にして体育館を出ていく彼を、校庭で友達と記念写真を撮る彼を。何処かから香る沈丁花の匂いと共に彼は卒業した。
その日の夜、もう会えないという思いで、胸が押しつぶされ声を押し殺して泣いた。
高校は県内の女子高に通った。噂で彼が同じ市内の男子校に入ったことは知っていた。
(男子校じゃあどうしようもない)
偶然にでも会えることを願ったが、そんな偶然は起こらなかった。
友人の舞は中学から始めたバドミントンで頭角を現し中学でのバドミントンの試合で勝ち続け、県では名が知られる存在になった。高校は私立の強豪校に推薦で入った。別々の高校になってしまったが私にとって唯一心を許せる相手だった。高校は別々になってしまったが頻繁に連絡を取り合う仲だった。その舞に中学の卒業式の時初めて彼の事を話した。
「えー、言ってよ。顔見たかったぁ。殊姫の心を掴んだその人。見たかったわぁ」
舞はいつの頃か私の事を「殊姫」と呼ぶようになった。他の人に聞かれると恥ずかしいからやめてと何度か頼んだが、
「殊は自分がどう見られているか分かってないでしょう?」と言われただけでそのままその呼び名が続いた。
その後、時の流れと共に彼の事は思い出になろうとしていた。
そんな頃、三年生になって舞から電話で
「殊、殊が中学で好きだったって言った人ってもしかして“高村”って言わない?名前は太陽の陽と書いて…えっとぉ…」
「はる?」
「そう!」
「なんで…?なんであの人の事?」
「そうなのよ!聞いてよ!私の従妹が、あっ男なんだけどね、U大学に通っていて、その高村って人と同じゼミだっていうの!」
U大学とは県内の国立大学の事だ。
私は今、U大学の近くに住んでいる。一年前、父親の都合でここに引っ越してきたのである。
(うそ、あの人が今この近くの大学に通っている?)
電話の向こうで舞が何か言ってはいたが私の頭には入ってこなかった。
彼が中学を卒業したあの日、切なさと恋しさで泣いたあの夜から四年。
淡い想い出に変わろうとしていた頃に突然、彼の存在がまた私の中にはっきりと姿を見せた。
舞の話によると彼女の従妹が彼と同じゼミで、ひょんなことから出身小学校の話になり、彼と同じ小学校の二つ下に従妹がいるという話に
「その従妹の子、同じ学年の押上さんって子知ってるかな?委員会が一緒でちょっと知っていて」
と彼が舞の従妹に聞いたというのだ。
「ちょっと、殊。あなたの好きだった人は殊の事意識してたんじゃあないの?もしかしてその彼も殊のこと・・・うわぁどうしよう殊!」
舞はまるで自分の身に起きた事のように興奮している。
(でも、まさか彼の口から私の名前が出るなんて。)
消えかけていた彼への想いが燃え上がろうとしていた。心がざわついた。
だが、もしかするとという思いとは裏腹にその後何も起こらなかった。
舞からも特に何もいわれなかたった。
でも、私の中に確かに浮かび上がった彼への想いが消えることは無く、自分の中で決心がついた事が有った。進学先をU大学にしたのだ。
夏休みもあけると進学先を決めていく三者面談が始まる。進学先について口を出す親では無かったが
さすがにU大学の教育学部に決めたと言うと驚いて、
「本当にU大学に行くの?私はてっきり東京の私大か公立当たりかと思っていたのよ」
成績は学年でもいつも上位だった。行こうと思えば東京の上の大学に入る事は可能だと思う。
教育学部に行こうと思っていた。自閉症児、発達障害児が秘める才能の様なものに興味が有った。
三者面談用に提出した希望進学先には東京の私大、公立を何校か記入して出していたが面談当日U大学に変えたと告げると、やはり
「えっ、U大学?えっどうして?押上さんならこれに書いてある所は今の成績なら余裕で入れるわよ!
お母さんは納得されているんですか?」
「ええ、主人と私で本人にも聞いたんですが…、どうしてもU大学に行きたいと…」
「そうですか…、ううん…因みになぜU大学に行きたいのか教えてくれる?」
「希望用紙にも書いたのですが、私は自閉症児の子達の様な発達障害疾患を持っている隠れた才能等に興味が有ります。そのことで本を出されている教授がU大学にいらっしゃいます。とても感銘を受けていて、是非その方の授業を受けてみたいんです。」
「なんて方?」
「教育学部の豊島教授です」
嘘では無かった。中学の時にテレビで観た自閉症児を特集したドキュメンタリー番組が彼らの隠された才能を取り上げていた。ひどく心惹かれた。それから、図書館で何冊も本を借りて読んだ。その時に豊島教授の著書に出会った。文体から自閉症児への優しさが感じられた。この教授に会ってみたいと思った。そしてU大学で教鞭を取っていることを知った。そして、偶然にも彼がそこに通っている。彼がU大学にいる事を知らない時は東京の私大か公立の教育学部に行くことを考えてもいた。だが、自分の心を占めている人が二人もU大学にいるのだ。何を迷うことがあろうか。
年が明けて共通試験を受け、三月には合格した。余裕で受かるだろうと言われていたが手を抜くことなく確り勉強した。
四月、桜の残る中、U大学に入学した。
念願の豊島教授のゼミに入った。著書からも感じられたし、穏やかな物腰と話し方から自閉症児や発達障害児への思いを感じられた。その子たちを語る時、ある種の尊敬の念を持っていることも感じられた。
(ここを選んで良かった。決心したのは彼がいると聞いたからではあるけど、もし彼に会うことができなくてもこの大学で良かったと思えるといいな…。)
(彼は一体何学部なんだろう?)
きっと、舞に聞けば従妹って人に聞いてくれると思ったけど、さすがに躊躇われた。舞にU大学に行くことを告げるのも恥ずかしかったが、それは隠せることではなかったので告げると
「殊ぉ~、何?U大学って。もう、そうかぁ。そこまでなのね~」
言い訳はしなかった。逆にしないことで舞も私の彼への気持ちの大きさを察した様だった。
大学に入って初めての夏。ゼミも終わり帰ろうと自転車置き場の横を通りかかろうとした時だった。
自転車を出そうとしている男性の姿が有った。直ぐに分かった。
(あぁ、あの人だ、やっと会えた)
入学してから三か月、いくつもの学部があり、中にはキャンパスも違う学部もあり増して学年も違う。
そんな中彼を見つけるというのは無理があるとは思っていた。それが今…。
まるで吸い寄せられるように近づいていった。
「こんにちは」
声を掛けると彼が私の方を向いた。
彼の顔に驚きの表情が広がった。
「えっ、押上さん?」
私は頷く。
「何、大学ここ?ここに通ってるの?」
「はい」
(あなたに会いたくてここに来ました)心の中でそう叫ぶ。
「学部どこ?」
「教育学部です。」
他にも何か話した気がするがよく覚えていない。目の前に彼がいる事が信じられないことだったから…。
一緒に門まで行くことになり、彼は自転車を押しながら、私はその横を歩いた。歩きながら、お互いの学部の事、駅の中のコンビニでバイトをしている事などを話した。
門の前で別れた。彼は自転車に乗り駅へ向かった。後ろ姿を暫く見つめていた。
(夢じゃあないよね)
自分でも信じられなかった。自分から声を掛けるなんて、掛ける事が出来たなんて。中学の時折角話すことが出来る機会が有ったのに言葉がでなかった自分が情け無かった。あんな思いは二度としたくないと無意識に心に刻まれていたのかも。
(建築学部なんだ。良かった、キャンパスは一緒で…)
高校の時父親の仕事の都合でU大学のそばに引っ越してきた。なので、高校には三十分程時間をかけて電車で通った。何度か他校の男子生徒から声を掛けられたことが有った。そんな話を舞にした時
「殊ってさ、自分が綺麗な子だって自覚無いでしょう?かなり目を引くタイプなんだよ」
とは言われたがそういう自覚は全くなく、誰に声を掛けられても心は動くことは無かった。二度と会うことは無いかもと思ってはいたが自分の心の中、奥深くに彼の存在が確かにあったから。
彼と会ってから一週間が過ぎようとしていた。別れ間際に、連絡先を聞いたわけでは無かった。さすがにそこまでは出来ないし、何と言っても会えた事に、更にわずかな時間だが一緒に歩けただけで舞い上がってしまっていたのだから。
(今度、いつ会えるのだろうか?まさか、あれっ切り?)
(また、あの自転車置き場をあの時間にウロウロすれば会えるだろうか?やだ!それじゃまるっきりストーカーじゃない)
不安が募った。思い切って連絡先を聞いておけば良かった。後悔ばかりが頭に浮かぶ。
それから、二、三日たって、その心配が杞憂に終わった。バイト先に彼が現れたのだ。水を片手にレジの私の前に。バイトに入っている曜日を聞かれて答えた。ほんの一、二分の出来事だった。それから、彼は水だけを買いに寄ってくれるようになった。後ろにお客様が並ぶことがどうしても多いから、二言、三言交わすだけ、その時だけ、私に向けられるあの優しい笑顔。耳に残る穏やかな声、おつりを渡す時一瞬触れる指先、ただそれだけの事だったが心があたたかいものに満たされた。嬉しいとか幸せとか、そういうありふれた言葉では表せない、こういう気持ちを表す言葉がどこかにきっとあるはずと思えた。
夏が確かに終わったと感じる涼しい風が吹いた頃、いつものように水を片手に持った彼が目の前に現れた。その時、偶然にも客が一人もいなかった。
「いらっしゃいませ」
「やっ。…珍しく」誰もいないね。」
そういわれて、店内を見渡すと確かに店には二人だけだった。
「そうですね。ほんと珍しい」
おつりを渡し終えた時、
「あの…さ、今度の日曜日って空いてる?」
一瞬驚いて彼のを見ると真っすぐに私を見つめる彼の瞳があった。
「は、はい」」
「お昼でも一緒にどうかな?」
「はい」
「じゃあ、一時に大学の南門で待ってる。」
「一時?あ、はい、わかりました」
気が付くと彼の後ろには客が並んでいた。
その日はもう、目の前の事が殆ど頭に入らなかった。よくミスをしなかったと感心した。
(誘われた。あの人から…夢みたいだ。夢じゃないよね?日曜の一時、大学…南門)
小学校のあの日から、ずっと忘れられなかった人から誘われた。この事を自分の中で抱え込むには無理があった。
「えー?噓でしょ!いつの間にそんなことになってんのよ}
入学して初めての夏に偶然自転車置き場で見かけて声を掛けたことや、それ以降彼が頻繁にバイト先に水を買いに寄ってくれたことを話した。話している最中、舞から悲鳴にも似たような声が何度かあがった。
「殊がU大学に入るって聞いた時には“ああ、あの思い人がいるからか”とは思ったよ。もっと上の大学に行ける殊がU大学を選ぶのだから。今だから言うけどさ殊のお母さんから聞かれたんだよね。“どうしてU大学に行きたがっているか知ってるか?”って。私はそれを聞いた時だよピーンときたの。
あっ、勿論、お母さんには何も言ってないよ。」
私にとって舞は小学校の4年生の時のクラス替えで一緒になり中学校でクラスが離れても色々話せる友達だった。高校は別になってしまったが唯一の親友である。私とは対照的で何に対しても物怖じせず、自分が正しいと思うと教師にも確り意見を言うタイプだった。私も例外では無い。言葉こそ選んで言ってはくれたが耳が痛い事も何度か言われた。でも自分が間違ったと思うところは素直に認め謝りもする。竹を割ったような性格とはまさに彼女の事を言うのだろうと思っていた。それにプライベートなことも変に詮索をしないところも好きだった。母にも何も言わず、私にも何も聞いてこなかった舞。この時私は彼女とずっと友達でいられたことに改めて心の中で感謝した。
「機会があったら一度会わせてね。他人の彼氏には基本興味ないけど、親友の殊は別。7年?もうずっと忘れられなかった殊姫の想い人にはめっちゃ会いたいわあ。姫がそれほどまでに好きになった人がどんな人か?」
日曜日、殆ど眠れないまま朝を迎えた。
(こんなに緊張するのはいつ以来だろうか?)
「そうだ、まだ服が決まってない!」
やっと服が決まったのが12時20分。待ち合わせ場所に家が近い事も時間がギリギリになってしまった原因でもある。家を出たのが12時45分。5分で門に着いた。彼は来ていない。
(あぁ、緊張してきた…)
暫くすると駅の方から歩いてくる彼の姿が見えた。私に気が付いたのか足早に寄って来た。
「ごめん、待った?」
「いえ。」
「もしかして、半にきてたとか?」
彼がいたずらっぽい顔で聞いてきた。私は一瞬(えっ、)と思ったが、
「いいえ、今日は10分前です。」“10分前”を強調して答えた。そしてお互い見つめ合って笑った。
(あの、遠い日の事を彼も覚えている。)あの日の二人の間に起こった事を彼が覚えている事に心がふるえた。あの日から7年という年月が過ぎた。途中殆ど会うことがなかった二人が今、お互いの目の前にいる。不思議だった。
その日は食事をしてから、大学の側の公園を一緒に歩いた。何かを聞かれれば答えたが殆ど彼が話をしてくれた。話している間彼の顔を見ていた。彼の笑顔はあの委員会で初めて見た時から変わっていなかった。ずっと想い続けた7年間。胸の奥底に秘め続けた7年間。彼が知ったら驚くだろうか?
それから月に2度位は会って食事をしたり、映画を観たりした。相変わらず彼はコンビニに寄って水を買って行った。初めてのデートの日に携帯の番号の交換をした。でも彼は電話で話し込むのは好きではないといい、電話は会う時間や場所を決めるだけの手段ということになった。偶然にも電話に対する価値観が同じだったことに驚いた。会う回数を重ねるごとに彼の誠実な面や思いやりのあるところにますます惹かれていった。何度目かの別れ際にキスをされた。だがその先を求められることは無くただ会えば一緒の時間を過ごした。特にそのことで何も思わなかった。会えば、色々な話をし、笑いあったりして二人で会う時間は自分自身何も無理をせず、自分でいられる時間だった。それは何ものにも代えがたいものだった。
彼は卒業すると建築事務所で働いた。彼のお母さんに会い、私の両親にも紹介した。勿論舞にも紹介した。何か言われたら嫌だなと思っていたが心配することも無く三人で楽しい時間を過ごした。
「7年間思い続けた人がどんな人かと思っていたけど、うん、納得かな。うん、うん、お似合いだったよ。」
私の二十歳の誕生日にどこかに一泊で行こうと言われ、「海が見たい」と言った。車で3時間ほどのところの海岸沿いのホテルに泊まった。その夜初めて結ばれた。
お互い結婚を意識し始めた頃、彼のお母さんが急死した。その時彼のお母さんに対する思いを、失った悲しみを痛いほど思い知った。深い慟哭の中にいる彼の側に私はただいる事しかできなかった。
一周忌が済んで半年が過ぎた頃に私たちは結婚した。小さなレストランを貸し切りにして会費制で披露宴らしきものを行った。親族席のテーブルに彼の両親の写真が飾られていた。




