毎朝電車で隣に座ってくる女子大生の話
通勤ラッシュの電車は混雑しており、それだけでストレスが溜まるというけれど、僕・浅川晴人の場合はまったくもってそんなことない。
すれ違うぎゅうぎゅう詰めの満員電車を見て、「みんな大変そうだなぁ」と思いながら、僕は今朝も下り電車の中でのんびりしていた。
本を読むスペースすらないとか、到底考えられない。
座席は半分以上空いている。こういう時だけ、通っている高校が都心でなくて良かったとしみじみ思うのだった。
電車が駅に到着した。
ドアが開くと、毎朝馴染みの会社員や学生が乗車してくる。
その中の一人に、綺麗な女子大生がいた。
名前は知らない。だから僕はいつも、彼女を「JD」と呼んでいる。
このJDをある意味で特別視している理由、それは……彼女が決まって僕の隣に座るからだった。
前述しているが、車内の半分以上が空席だ。家族や友達同士でない限り、隣り合わせで座るなんてあり得ない。
しかしこのJDは毎日、そのあり得ないことを実践しているわけで。
車内をキョロキョロ見回し、僕の姿を見つけたJDは、真っ直ぐ僕の方へ歩いてきて、隣の席に座った。
現在僕はクラッシック音楽を聞きながら、参考書を開いて勉強中だ。定期試験を控えていることもあり、正直JDに構っている余裕はない。
僕は彼女を無視して、勉強に集中していた。
しかし、このJDはシカトを許さない。
彼女は僕の耳からイヤホンを外すと、甘い声で「おはよっ」と囁いた。
突然の挨拶に、僕はビクッとなる。……せめて肩を叩くとかして欲しかった。
不満はあるけれど、それもひとえに僕がJDを無視したのが原因だ。
文句をぐっと堪えて、彼女に「おはようございます」と返した。
「そんなに熱心に、何を読んでいたの? エッチな小説」
「違いますよ。参考書です。今日、試験があるので」
だから邪魔しないで欲しい。暗にそう言ったつもりだったのだが……JDには、まるで伝わっていなかった。
「テスト勉強するなんて、優等生なんだね。私が高校生の頃は、勉強なんて一切しなかったよ。まぁ、それでも90点取れていたんだけどね」
「……自慢ですか?」
「そうだね。自慢だね」
「えっへん」と、JDは豊かに成長した胸を張る。……チラ見なんて、していませんよ。
「教科は保健体育? 良かったら、お姉さんが手取り足取り教えてあげようか?」
「結構です。今勉強しているのは、日本史ですから」
「日本史かぁ。私、日本史も得意だったんだよね。因みに今は、どの時代をやっているの?」
JDは参考書を覗き込んでくる。って、近い近い。
僕はJDの、女性特有の柔らかさと甘い香りを直に感じ取ってしまった。
いかんいかん! 勉強に集中しないと。
「おー、明治時代かぁ。日本はこの時代から大きく変わるわけだから、覚えることいっぱいあるよね。……あっ、ここの答えは②だ」
参考書を懐かしみながら、JDは問題を次々と解いていく。……難問も含めて、全問正解じゃないか。
「どう? 凄いでしょ?」
「まぁ」
「教えて貰う気になった?」
「……まぁ」
答えると、JDはドヤ顔を見せてくる。
納得がいかないけれど、テストで良い点を取る為だ。背に腹はかえられない。
JDは頭が良いだけでなく、教え方も上手かった。
史実を余計なエピソードを交えて、年表に沿って教えてくれる。この余計なエピソードのお陰で、重要事項が結構頭に入ってきたりする。
通学時間のおよそ30分、僕はみっちり日本史を教えて貰った。
高校の最寄駅に着いたので、僕は座席を立つ。
「どう? 完璧?」
「完璧……とまではいきませんが、お陰様で高得点が取れそうです。……緊張して頭が真っ白にならなければ」
僕はプレッシャーに強いタイプじゃない。だから正直、焦ってしまうことが一番怖かった。
「そればかりは、心の問題だからね。……だったら一つ、おまじないをかけてあげようか?」
JDは僕の腕を掴むと、グイッと自身の方へ引き寄せる。
そして若干頬を赤らめながら、こう告げるのだった。
「10位以内に入れたら、ご褒美あげる」
ご褒美……その甘美な響きに、僕は彼女以上に顔を真っ赤にするのだった。
◇
電車から降りると、同じ車両に乗っていたクラスメイトの女子生徒が話しかけてきた。
「おはよう、浅川くん!」
「あっ、おはよう」
「さっきの光景、見てたよ。朝からお盛んだったね」
「お盛んじゃないよ!」
彼女は何を勘違いしているのだろうか? 僕はただ、日本史を教えて貰っていただけである。
「そうなの? 美人な女子大生と、イチャイチャしているように見えたけど? それも毎日」
「あれは、あの人が絡んでくるだけだから! ……そっちこそ、サラリーマンとイチャイチャしていなかった?」
仕返しを兼ねて、僕は彼女に尋ねる。図星を突かれて、あたふたするが良いさ。
しかし、僕の思惑は見事に外れる。
「うん、してたよ。私、あの人のこと好きだから」
彼女はなんと、イチャイチャしていたことを認めた。それどころか、自身の恋心まで明言している。
「そんなに驚くことじゃないでしょ? 好きじゃなかったら、わざわざ空いている電車で隣に座らないって」
「そういうものなのかな?」
「そういうものなんです!」
だとしたら、JDも同じなのだろうか? もしかして、彼女は僕のことを――
って、今はそんなこと考えるのはよそう。折角勉強した内容が、飛んでいってしまう。
◇
翌日。
試験勉強から解放された僕は、クラッシック音楽を聞きながら読書をしていた。
「あっ、今日も勉強してる」
「残念でした。今日は勉強じゃありません。読書です」
「おっ! 今度こそエッチな本かな?」
「違います。ミステリーですよ」
証明するように、僕は小説の題名を見せる。
今流行りの小説だから、JDも知っていた。
「あっ、これ私も読んだよ。確か犯人は――」
「ちょっとちょっと! まだ殺人事件が起こったところまでしか読んでないから、ネタバレやめて!」
しかもこのJD、ミステリー小説において一番してはいけないネタバレをしようとしていないか?
「冗談だよ。流石に犯人をバラしたりしないって。……君はミステリーが好きなの?」
「まぁ、そうですね」
「そっか。私はミステリーそんなに詳しくないんだよね〜。流行っているやつくらいしか知らないし、読んだこともない。……ってわけで、オススメのミステリーを教えてくれないかな?」
「別に、構いませんけど……」
僕は自分の好きなミステリー小説を、いくつか列挙した。
スマホで表紙の画像を見せながら、あらすじやオススメポイントを説明する。
若干オタク感の出ている僕のプレゼンを、JDは興味津々と言わんばかりに聞いていた。
自分の好きなものを、誰かに教えるのは楽しい。それを心底面白そうに聞いてくれるのだから、喜ばしいことこの上ない。
しかし……どうしてJDは、突然ミステリーに興味を持ったのだろうか?
気になった僕は、JDに尋ねてみた。すると彼女は、
「君が好きなものだからね。私も好きになりたいと思ったんだよ」
「……そういう発言は、気になる男子に言うべきだと思いますよ?」
「うん、私もそう思う」
その肯定には、一体どんな真意が隠されているのだろうか?
聞こうと思ったところで、降りる駅に到着してしまう。
「それじゃあ、また明日ね」
「……はい、また明日」
降車した僕は、ふと思う。
結局読書は、全然進まなかったな。
誰のせいかって? ネタバレをくらうまでもない。犯人は、僕に話しかけてきたJDに決まっている。
◇
三月になった。
高校三年生の僕は、卒業を迎える。
志望校にも無事合格したので、1ヶ月後には、僕は大学生になる。しかしそれは同時に、高校生の終わりを意味していた。
「卒業おめでとう」
門出の言葉を受け取って、僕は高校最後の電車を降りる。
それからおよそ1ヶ月、電車に乗らなかったということもあり、僕はJDと顔を合わせなかった。
そして四月。
新天地たる大学に向かうべく、僕は電車に乗っている。
電車に揺られること、5分。乗車してきたJDは、僕の姿を見て驚いた。
「えっ!? どうして!?」
どうして高校を卒業した僕が、この電車に乗っているのか? 制服を着ていないことを踏まえれば、その理由なんて一つしかないだろう。
「どうしても何も、僕も今日からあなたと同じ大学に通うんですよ。これからよろしくお願いします、先輩」
JDには、僕の進学先を教えていなかった。
まさか自分と同じ大学だとは思っていなかったらしく、目をパチクリさせている。
「同じ大学なら、言ってくれれば良かったのに」
「驚かそうと思って。いつも揶揄われているお返しです」
いつも余裕な表情で僕を揶揄ってくる彼女の、こんな顔が見られたんだ。それだけで、僕は満足だった。
「あっ、そうだ。僕、首席で合格したんです。10位以内に入りましたよ」
だから僕はJDからご褒美を貰う資格がある筈だ。
「何が欲しいの?」
「強いて言えば、あなたですね。……僕と付き合って下さい」
もしこのまま順調に交際を続けていけたとして。3年後あたりの試験でまた10位以内を取ったとしたら、その時はご褒美に同棲して貰うとしようかな。