撤退準備
-ハロルド-
「何が起きた?!」
強化した目で見えたのは、モヤをまとった黒い球体に向けて武器を動かしたぐらいだ。
あの動かし方からして、攻撃準備ではなく何かされそうになって防御する時の動きだな。
あのモヤが毒で、それを散布したのかもしれないが、周囲に飛び散っている様子はない。
「……なん……で…………」
「嬢ちゃん?」
隣で木箱の上に立っているエルが何か言ったようだが、聞き取れなかった。
それよりも黒い球体だ。
あれは周囲のモヤを伸ばして魔物に接続すると、その魔物を昏倒させることができるようだ。
倒れた人や魔物は息絶えておらず、気を失っているだけなのが幸いと言わざるを得ない。
こういった性質の魔物は魔法生物系になり、相手の肉体ではなく精神や魔力に対してダメージを与えてくる。
「アンリ!あれの魔力は!」
「強大な魔力の塊。周囲のモヤも魔力。モヤが触れたところから球体に魔力が流れていってる。地面も魔物も人からも。モヤが離れたら魔力は流れなくなってる」
「魔力を吸収する魔物か……」
恐らく魔力による攻撃は通用しないだろう。
放ったとしても吸収されるだけだ。
吸収しきれなかったとしても、一部は減るから威力も期待できない。
そうなると全力で身体強化して、近接戦で叩き込むしかないな。
「アンリ!見習いを馬車に避難させたら逃げろ!」
「ハロルドは?」
「俺は足止めだ!なぁに、他の奴らを見る限り魔力を吸われるだけだ。死にはしないさ!」
「わかった」
「ガドルフ!お前たちは魔力が少ないから近接戦は分が悪い!見習いたちの護衛を頼む!」
「任せろ!」
「聞こえたな見習いども!早く馬車に乗れ!」
俺の指示でガドルフたちのパーティと御者が馬車の準備を急いで進める。
見習いたちも戦いたいと言い出すことなく、テキパキと準備を整えて馬車へ向かった。
後は俺が全力で足止めするだけだと思ったが、横にいたエルは動こうとしない。
「おいエル!さっさと馬車に……なっ?!」
黒い球体を見つめて動かないエルを揺さぶろうと手を伸ばしたら、まだ距離があるにもかかわらず弾かれた。
迷宮で何度も弾くところを見たが、いつもなら服一枚程度の距離が、今は剣の幅ぐらいに増えている。
しかも、弾かれた瞬間に黄色のような魔力光が見えたのだ。
普通、魔力は目に見えない。
炎や水といった形あるものを操作する際は、動かしているものであることがわかるが、風などの目に見えないものを操られたらわからない。
高密度の魔力なら見えるようになり、それが魔石になる。
触れたらわかる程度で魔石になるとは思えないが、このまま放置するのは良くない気がする。
かといって、何か対策があるわけではない。
少なくとも俺には無理なので、魔力を見ることができるアンリに任せるとする。
「アンリ!エルのことは任せた!ガドルフ!準備が整ったら先に行け!」
「わかった」
「エルを頼んだ!」
アンリは慎重にエルに手を伸ばし、どうにか触れようとしている。
左目の眼帯に嵌め込まれた魔石が輝いていることから、全力で魔力を見て、隙間を通すように伸ばしているのだろう。
ガドルフたちは魔物の接近で暴れる馬を落ち着かせようと御者と協力しているから、すぐに出発とはいかにようだ。
「俺が出る!残りの護衛は馬車に付け!」
手甲と脚甲がしっかり付いていることを確認して飛び出す。
その瞬間、エルが何かつぶやいた気がするが、今は黒い球体の相手が先だ。
「とりあえず注意をこっちに向けないと……な!」
魔力を込めた足で一息で近づくと、接近に反応した黒い球体は、モヤを俺に向けて伸ばしてくる。
真っ直ぐ伸ばされるモヤは素人の拳ほどしか速度は出ていないから、潜り込んで避けるのは簡単だった。
そのまま突き上げるように左の拳を叩き込む。
ずぶりと球体に突き刺さる左腕。
殴った感触はほとんどなく、泥に手を突っ込んだような印象を受けた。
次の瞬間、全身から魔力を引き出される感覚が襲ってきた。
「ぐっ!あっ……がぁっ!」
呑まれた左腕から急速に抜けていく魔力。
自分の意思と無関係に引き摺り出される不快感にうめきつつ、どうにか足に力を込めて後ろに下がることができた。
だが、身体強化に使っていた魔力を根こそぎ奪い取られたようなもので、強化に回す魔力がほとんどない。
さっきまであったものが無くなっている感覚に戸惑っていると、意思とは関係なしに膝が地面についた。
枯渇こそしていないため気を失うことはないが、どう考えても戦闘を続けられる状態じゃない。
黒い球体はというと、体に空いた穴はすでに塞がっており、ハロルドに向けて尚もモヤを伸ばしてくる。
それをなんとか避けていると、アンリから声がかかり魔力が放たれた。
モヤがアンリの方へ伸ばされたかと思うと、大きく歪んで押しつぶされる。
放たれた魔力が吸収されるよりも多かったのだろう。
本体の球体も少し歪んだが、吸収し終わったのか即座に元通りになる。
「打つ手がねぇ……」
スライムのようなしっかりと実態のある魔法生物なら通常の武器で攻撃できる。
レイスやファントムといった実態のない魔法生物なら魔力を通したり纏わせた武器で倒せる。
しかし、この魔物は魔力を纏った拳で殴っても効果がないように見える。
相手を圧倒できるほどの大魔力で押し潰すか、潔く逃げるぐらいしか思いつかない。
「俺が間に入ってるうちに馬車を出せないか?いや、無理そうだな……」
やっと馬が落ち着いたのか、馬車につなげている最中。
エルは未だに動けないようで、アンリの手を弾いていた。
しかも、誰も触れていないにも関わらず、周囲を取り巻く魔力が目に見えている。
片や黒いモヤを放つ黒い球体、片や黄色か金色のような魔力を放つエル。
両者が目に入る位置にいる俺には、なんとなく因縁があるようにも見える。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
近づく黒い球体に対してアンリが間に入ると同時にエルが叫んだ。
そして強くなる光。
思わず腕で視界を覆ってしまった。




