愛の御使いは婚約破棄を許さない
よくある婚約破棄の父親無双。娘を傷つけたんだから、覚悟はいいよね?
「フロレンティナ・ローゼライト公爵令嬢! 貴様の品性下劣な所業の数々、もはや目を瞑ることはできん! よって私、バイデン・フォン・エンゲイヤーはフロレンティナとの婚約を破棄する!!」
夜会が盛り上がりを見せた最中、人々に囲まれていたフロレンティナは突然第一王子バイデンにそう罵られ、すぐさまやってきた父と母、そしてエスコートをしてくれた兄に守られた。
◇
コツ、と指先がテーブルを叩いた。
短く切りそろえられた爪の音がするほど強く。その手の持ち主がいかにも苛立っている証拠だ。
「とんでもないことをしてくれたね」
くすぐるような愉悦を含んだ声とは裏腹に、男はまったく笑っていなかった。
モーリス・ライト・ローゼライト公爵の醸し出す迫力に、国王タラクサクム、妾妃フィトローア、第一王子バイデンはびくりと肩を震わせる。
「私のフロレンティナとバイデン殿下は婚約どころか交流すらなかったというのに、一体どういう料簡で婚約破棄などと、しかも国王主催の夜会でしたのか、ぜひともお聞かせ願いたい」
真っ青になっている第一王子とは反対に、王妃リリーとその息子で第二王子のカメリアは冷静にうなずいた。
「それはその……。まさかフロレンティナと婚約していなかったとは知らなかったんだ!」
バイデンの言い訳にモーリスは、
「婚約していたらその婚約者を蔑ろにして準男爵令嬢ごときと浮気していたことになるわけですが? さすがは妾腹の子だ、恥というものをご存知ない」
鼻で笑って一蹴した。
「ひどい!」
「母上を馬鹿にするな!」
あまりの言い草にバイデンとフィトローアは声を荒げた。
「これだから平民は……。陛下、我がローゼライト家とチェリオット家がバイデン殿下を支持していないこと、教えておられなかったのですか」
「…………」
タラクサクムは苦渋の表情で沈黙した。それが答えだった。
「チェリオット公爵家は男子しかいない。大方殿下にフロレンティナを口説き落とせとでも言っていたのでしょう。知っての通り私とサティーナは恋愛結婚、子供たちにも一生大切に慈しんでいける相手を選べと伝えております。生涯の伴侶となる方を大切にできないようでは天下国家を大切にできませんからな」
国王に向かって国王失格と暗に告げ、モーリスは凄みのある微笑を浮かべた。
「モーリス……」
「国王陛下、私と陛下は名前で呼び合うような仲ではございません」
「……ローゼライト公爵、バイデンの所業は幾重にもお詫びする。フロレンティナ嬢にも後で詫びの品を届けさせよう」
「満座で恥をかかされた娘に、詫びの品ひとつで済むと?」
むしろ恥をかかされたのはこっちだ、とバイデンは言いかけ、まったく許す気のないモーリスの瞳に口を噤んだ。
どうしてこうなったのだろう。
バイデンはうつむき、膝の上に置かれた自分の手を見つめた。苛々した時の癖で、親指の爪がいびつに短くなっている。
バイデンの愛するチュニアは準男爵令嬢。彼女は公爵令嬢に対する不敬罪で牢に入れられていた。
モーリスと父王は親友だと聞いていたのにまるで逆だ。モーリスは親友ではなく仇敵を見るように国王を憎しみの目で見つめている。
第一王子バイデンは妾妃フィトローアと国王の間に生まれた王子だ。フィトローアは平民でありながらタラクサクムとの真実の愛を貫き、妾妃になった。タラクサクムは彼女を王妃にしたがったが、平民出では無理があると反対されてしまったのである。王妃には友好国の王女が嫁いできた。
バイデンが生まれて三年後に第二王子カメリアが生まれ、ローゼライト公爵家にフロレンティナが生まれた。バイデンは現在十八歳、十五歳のフロレンティナとはモーリスの言う通り、ろくに会ったこともない。
順序でいうなら王太子はバイデンだが、しょせん妾腹。貴族たちはカメリアを支持していた。それどころかバイデンには側近となる貴族の令息や護衛の騎士、婚約者に名乗り出る家すらなかったのである。
これに焦ったのがタラクサクムとフィトローアだ。王妃はフィトローアの存在を認めておらず、彼女の予算を国王の個人資産から出させていた。側妃はともかく妾妃は本来持参金を持ってくるのが慣例なのである。
王妃に子が生まれなかった場合、あるいは国家予算が逼迫している場合などに、大商家から妾妃を迎え入れる。単なる町娘だったフィトローアはそれにあてはまらない。それどころか国家を危うくした娘だ。そのような女をすでに妾妃としている王に嫁ぐなど、王妃には屈辱でしかなかった。
「親が親なら子も子ですな。まったく、よく似ておられる」
モーリスの言葉に王妃がパラリと扇を開いた。
「親子揃っての婚約破棄とは。フィトローア、そなたはまったく反省していないとみえる。あれから何も学んでいなかったのかえ?」
口元を隠し、目線だけで嘲笑う王妃に、フィトローアは怒りと屈辱に顔を赤黒くした。
そんな愛妾を見た国王の瞳に失望が浮かぶ。モーリスはそれを見て鼻白んだ。
元々平民のフィトローアには野心などなく、慎み深く、朗らかな人柄であった。それを今の彼女に変えてしまったのは国王である。いつまでも少女のままでいてほしかったのなら、王宮に召し上げるべきではなかったのだ。
若き日の、城下町に住む少女と王子の恋で終わらせていたら、フィトローアは永遠にあの頃のままでいられた。思い出は歳を取らず、うつくしく磨かれてゆくものなのだから。
モーリスと妻のサティーナ、そしてタラクサクムは幼馴染だった。ローゼライト公爵家の嫡男とチェリオット公爵家の令嬢。王太子にふさわしい友人であり、後ろ盾でもあった。
モーリスはサティーナを当然のように愛していた。優雅で淑やか、それでいて賢いサティーナは初恋だった。
しかしモーリスの恋は叶わなかった。サティーナはタラクサクムと婚約し、次期王妃になることが決定してしまったのである。
モーリスの初恋がサティーナであったように、タラクサクムもまたサティーナに恋していた。王太子の一声で、モーリスはサティーナを諦めなくてはならなかった。いや、むしろモーリスがサティーナに恋していたからこそ、タラクサクムは彼女を望んだのだろう。他人の欲しいものがよりよく見えるのは子供にはありがちなことだった。
とにかくサティーナの婚約者はタラクサクムに決まってしまった。モーリスはショックを受けたが、サティーナが幸せになるのならと身を引き、ひとつだけ、タラクサクムに約束させた。
『もしもサティーナを泣かせたら一生許さない。決闘だ』
子供らしい純粋さと正義感である。もはや後に引けないタラクサクムは約束を絶対に守ると誓った。
「私の娘は隣国のクローバー殿下に見初められ、王子妃になることがすでに決まっております。陛下、バイデン殿下には不敬罪になろうとくじけずに想い続ける令嬢がいることですし、彼女と結婚させてさしあげては? 王太子にはカメリア殿下こそふさわしいと愚考いたします」
チュニアの実家は準男爵だ。これは功績が認められた平民に与えられる爵位で、領地などはない。さらに功績をあげなければ一代限りで終わってしまう程度でしかなかった。ようするに、平民とさほど変わらないのである。妾腹の王子にはそれくらいで充分だ。モーリスはそう言いたいのだろう。
「おや、フロレンティナはすでに婚約しておったのかえ?」
王妃がちらりと不快をあらわにした。国内最大勢力であるローゼライト公爵家の娘を狙っていたのは王妃も同じである。
モーリスはわずかに頭を下げた。そんなことは百も承知だ。
「はい。先日我が国に外交使節として訪れたクローバー殿下に、娘は接待役の一人を務めさせていただきました」
接待役というか、通訳である。
賢姫として名高かったモーリスの妻サティーナが手塩にかけて育てた娘だ。賢く、やさしく、淑やかで、それでいて自己主張する時は毅然と主張する。社交界の花と謳われる令嬢、それがフロレンティナである。
「クローバー殿下と娘はたちまち意気投合し、ぜひ妃にと打診があったのが一ヶ月前。その一週間後には婚約が結ばれております」
「……王家には、何の報告もなかったが……?」
もはや怒りに声もないフィトローアに代わり、タラクサクムが震え声で抗議した。
「その必要がないことは、陛下もよくご存知のはずです」
「せめてわらわには一声欲しかったぞ」
「それは申し訳ございません」
まったく心のこもらない謝罪に、王妃は口元を隠したまま息を吐き、夫を睨みつけた。
公爵家の婚約、婚姻を王家に報告も許可を得ることもないというのは通常ならばありえないことだ。公爵に限らず貴族の婚姻は国の帰趨を左右する。時には王命による政略で国内貴族のバランスをとることもあった。
だが、それは通常ならばの話だ。
国王タラクサクムと妾妃フィトローアは、ローゼライト公爵家に絶縁されている。
公爵としての仕事はきっちり行うが、私的な付き合いからは一切排除されていた。今夜のような国王主催の夜会は国家行事に数えられるため出席するが、ローゼライト公爵家は国王に挨拶すらしようとしなかった。
だからこそ、ローゼライト公爵家の二人の子供は王家と関係なく婚約者を自由に決めている。
フロレンティナの兄であるニコロは、留学先で知り合った貴族令嬢と恋に落ち、彼女と結婚するべく奔走していた。
モーリスとサティーナは自分たちがそうであるように、子供たちにも幸せな結婚をしてほしいと願っている。
王家との絶縁も、その一手だ。
成人前だったとはいえ男同士の約束を守れない男である。絶縁などなかったようにふるまうのは目に見えていた。しばらくの間は落ち込んで大人しくしていても、時と共に忘れる。親友を免罪符にして甘えてくるだろう。モーリスはタラクサクムにまったく期待していなかった。
「ローゼライト公爵家は、今まで通りカメリア殿下を支持します」
モーリスは国王タラクサクムをまっすぐ見据えて言った。
「バイデン殿下によって不当に名誉を傷つけられたフロレンティナへの損害賠償は、後ほど書状で請求させていただく。異議があるなら裁判での協議となりましょう」
毅然とした声と態度で宣言し、モーリスは王の御前からさっさと下がっていった。モーリス、とか細い声が呼んだが、彼は振り返らなかった。
◇
ローゼライト公爵家では、突然身に覚えのない言いがかりによって婚約破棄されたフロレンティナをニコロが慰めていた。
サティーナはまたしても不祥事を起こした国王と妾妃、そして首謀者のバイデンに、フロレンティナ以上に怒っている。
「ただいま、サティーナ」
「あなた!」
夫の帰宅に一瞬怒りを忘れて微笑んだサティーナだったが、すぐさまぶり返した怒りにモーリスに問いかけた。
「あの男たちから謝罪はありましたの?」
怒る顔さえも愛しいとばかりにモーリスは彼女の腰に手を回し、こめかみにキスを送った。
「ないよ。知らなかったの一点張りだ」
「あいかわらず恥というものを知らないようですわね」
「まあね。ごめんなさいで済まされないこともあるとすら知らない平民が母親だ。満足な教育など望むべくもないのだろう」
モーリスは冷たく言い放った。
平民も一人の人間ではあるが、貴族と平民では明確な差がある。もとよりモーリスはバリバリの選民主義者だった。貴族としての意識が強く、だからこそ平民の女を選んだタラクサクムを蔑んでいる。
そんなモーリスの妻であるサティーナもまた、差別的な人間だった。貴族の義務として平民を守るが、その平民が牙を剝くのであれば容赦はしない。権利と義務をわきまえた、貴族の見本といえるだろう。
サティーナとタラクサクムとの婚約が決まった時、彼女の中ではすでにモーリスと婚約していた。おままごとのようなプロポーズ。モーリスはサティーナの前で膝を突き、彼女に向かって一輪のバラを捧げた。ローゼライト家は代々バラを捧げて求婚する。伝統に則ったプロポーズだった。
気になっていた男の子にプロポーズされて嫌がる女はまずいない。サティーナはモーリスを「ちょっと気になる幼馴染」から「初恋の人」にランクアップさせた。両親にも報告し、相愛の相手と結ばれることを喜んだ。
二人の仲は順調だったといえる。
両家共に公爵家で身分の問題はないし、モーリスはサティーナのためと剣や勉強に励んだ。サティーナもモーリスにふさわしくあるようにと令嬢としての教育のほかに外国語や各国の歴史、商業分野まで幅広く知識を求めた。
そんな勤勉な姿勢が評価された結果、タラクサクムがサティーナを望んだ時にあっさり認められてしまったわけだ。
サティーナは王妃になりたかったのではない。モーリスのお嫁さんになりたかったのだ。そう訴えたがもはやどうにもならなかった。幼い初恋は夢破れ、王家に嫁ぐという現実にサティーナは何度打ちひしがれたことだろう。
耐えられたのは、親友の初恋を奪ってしまった罪悪感を今さらながらに覚えたらしいタラクサクムがサティーナに愛を伝えてきたことと、サティーナを諦めないモーリスがいてくれたからだった。
自分のために決闘まで決意している男がいる。サティーナの幸せを見届けるまでは、と数多ある縁談を断り、モーリスは愛を誓ってくれていた。
それがどんなに嬉しく、心強かったか。王太子の婚約者となって以来会うこともままならず、誕生日のカードくらいしかやりとりができなくなっても。いずれモーリスが別の女と結婚してしまっても、この思い出が支えてくれると信じられた。
やがて、サティーナの心がタラクサクムに寄り添いはじめた頃――フィトローアが現れたのだ。
「フロレンティナの嫁入りはともかく、早めにあちらに送ろうと思う。嫁ぎ先の国に慣れるためと言えば表立って反対もできまい」
「ええ、そうね。こうなると外国の方で良かったわ。カメリア殿下ならまだしも……あの女の血を引くバイデン殿下なんて、想像しただけでおぞましくてよ」
サティーナは体を震わせると我が身を抱きしめた。あのバイデンが可愛い娘をそんな目で見ていたかと思うと、我がことのように怖気が走る。
「そもそも何の接点もないフロレンティナをなぜ婚約者だと思ったのか……理解不能だよ」
「理解などしてはいけませんわ。あの者たちは自分の都合の良いことしか考えられませんもの。貴族、王族のなんたるかすらわかっていないに違いありません」
「王妃様は苦労なさっている。おおげさに不幸を嘆く女のせいで、陛下は諸外国の笑い者だ。その隣に立たねばならないのはさぞかし大変であろうな」
「そうですわね」
二人がフロレンティナの部屋に入ると、わけのわからない屈辱に泣いていた娘が顔をあげた。
妹を慰めていたニコロはこの短時間にずいぶん消耗したようで、モーリスの登場にほっとしている。
「お父様……!」
「フロレンティナ、私の天使。辛かったろうに、よく耐えたね」
王宮の夜会で恥をかかされたにも関わらず、モーリスたちが来るまで毅然とした態度を貫き涙一つ見せなかったフロレンティナが父に抱きついてきた。
ちなみにサティーナは愛の女神であり、ニコロは勇者である。モーリスの家族愛はぶれない。
「お父様、わたくしあんな男のお嫁さんにならなくてはいけませんの……?」
フロレンティナの発言には理由がある。
バイデンがフロレンティナに婚約破棄を叩きつけた後、真っ青になった国王がそれを否定したからだ。
つまり、フロレンティナは知らぬ間にバイデンと婚約したことにされたあげくに婚約破棄され、そこを国王に助けられた形になっているのである。
「まさか! 私の天使をあんな下賤な血に嫁がせるわけないだろう」
モーリスはすぐさま否定した。バイデンの名前すら言おうとしない娘を咎めるどころかさらにこきおろしている。
「でも、国王陛下はわたくしはあの男と結婚するのだと言っておいででしたわ」
父の言葉にほっとしつつ、それでもフロレンティナは不安を拭えずにいた。
「たしかに陛下からは何度も婚約を打診されたけれど、あからさまに金目当てではね。毎回お断りしているよ。大丈夫、お前もニコロも、心から愛しあい尊敬できる人と結婚するんだよ」
「お父様……」
「父様」
心強いモーリスに、兄妹は感動したようだ。特にニコロは、恋人の父親が他国に嫁がせるのを渋っており、婚約に難航していた。
「さっきクローバー殿下に手紙を早馬で出したから、すぐに返事が来るだろう」
「もし王宮から召喚状が来ても、応じる必要はありませんからね」
サティーナが娘の頬を両手で包む。それでようやく安心したのか、フロレンティナの顔に血の気が戻ってきた。
「もしかしたらクローバー殿下自らお越しになるかもしれない。目元を冷やして、今日はもうお休み」
「はい、お父様」
あり得る話に微笑んで、フロレンティナはうなずいた。
サティーナを泣かせたら決闘、という宣言通り、フィトローアにうつつをぬかしてサティーナと婚約破棄したタラクサクムに決闘を申し込んだモーリスを、クローバーは尊敬しているという話だ。何の瑕疵もないフロレンティナを婚約者扱いし、断罪までしようとしていたと知ったら、バイデンどころか妾妃にまで宣戦布告しかねなかった。
フロレンティナの部屋を出た三人は、次に執務室に向かった。
そこにはローゼライト公爵家の政務官たちが待っていた。モーリスが入室すると恭しく頭を下げる。
執務机に着いたモーリスは、
「あの馬鹿がやってくれた」
開口一番そう言った。王家に対する敬意や気遣いなど投げ捨てている。
モーリスがまだ公爵家の若君であった頃から仕えている政務長は、ぞくりと背筋を震わせた。彼のこのような――冷たく吐き捨てるような殺気は、タラクサクムの浮気を知ったとき以来、二十二年ぶり二度目だ。
「落としどころが難しい。馬鹿共がどうなろうと知ったことではないと言ってやりたいが、国を裏切るわけにはいかない。しかしどうやら王妃までもがフロレンティナを狙っている発言をした」
モーリスはとっくにタラクサクムを見限っていたが、国民に罪はない。ここでローゼライト公爵家亡命、あるいは王家に反旗を翻せば累はもっとも弱い民草に及ぶのだ。この国で栄えてきた貴族として、それはできなかった。
「カメリア殿下は優秀と聞いていますが、だからといって面識を持とうとしなかった殿下と婚約などありえませんわ」
いかにモーリスたちが絶縁していようとも、フロレンティナは引き籠っていたわけではない。夜会などの社交、あるいは外出先などで、偶然を装って会うこともできたのだ。そんな努力をしなかった時点でカメリアは「ない」と判断されていた。
「婚約期間を何年かおくべきですが、もはや一刻の猶予もありませんな。お嬢様にはあちらの国に渡っていただいたほうがよろしいかと」
政務長の言葉に他の者たちも同意する。
「こうなるとクローバー殿下と婚約していて良かったですね」
「正式な発表はまだですが、殿下の婚約者にいらぬ手出しをされたとなればあちらも抗議してくれましょう」
「公爵家ごと来いと言われそうですけどね」
家臣たちは軽い口調だが、表情は真剣だ。
クローバーとの婚約は書類上では結ばれてるが、正式なお披露目はまだである。
フロレンティナをあちらに送るにせよ、まだロクに準備が整っていないのだ。
婚約期間とはそのまま結婚の準備期間でもある。一国の王子との結婚となれば諸外国に通知されるし、招待客の選別や王子妃に贈られる化粧料、ドレスの生地でさえどこの地方で織られたか、デザインは、針子の手配はと協議が重ねられ時間がかかるものだ。
婚約の発表すらせずに国入りとなれば、何かありましたと言っているようなものである。それはフロレンティナの瑕疵と捉えられるだろう。
まったく、あの馬鹿はロクなことをしやしない。多少知恵が回るのが余計に厄介だった。だいたいまともな神経をしていたら、フロレンティナに婚約の打診さえできないだろうに。
「奥様。奥様は事が済むまで、お嬢様についていて差し上げてください」
「わかりましたわ」
その言葉の含むところをたちまち理解したサティーナは、理由を問うことなく了承する。
おそらくこれから、モーリスが支持を表明したカメリアと、ローゼライト公爵家に許されなければ後がないバイデンが、フロレンティナに接触しようとしてくるはずだ。
ローゼライト家は前王がタラクサクムの側近にと望むほどの一大勢力を誇っている。ローゼライトが動けばチェリオット公爵家が動き、他の貴族たちも追従するだろう。どちらの王子もフロレンティナが欲しいのだ。
「奥様とお嬢様はあたくしと娘がお守りいたします」
凛として言ったのは家政婦のラベンダーだった。彼女の娘のネロリはフロレンティナの専属侍女を勤めている。
メイドたちは、女性ながらに招かれざる客や、癇癪を起こして失神した女性に対処できるよう鍛えられていた。公爵家のメイドだけあって本人たちも貴族令嬢であり、護身術を心得ている者も多い。
また、メイド同士の気安さから、他家の噂話を仕入れてくることもあった。そのトップであるラベンダーは、ローゼライト公爵家の実力者である。
「お願いね、ラベンダー」
「はい。それと、お嬢様もですが、若様もご注意なされたほうが良いと思います」
「僕も?」
いきなり話を振られたニコロが意外そうに目を丸くした。
「……なるほど、お嬢様がダメとなったら若君を側近として取り込もうとしてくるかもしれません。陛下や王妃様の息がかかった貴族の令嬢が近づいてくる可能性は高いかと」
「ハニートラップか。底の浅い連中のやりそうなことだ」
「なりふりかまわなくなった者を侮ると痛い目を見ることもあります。ニコロ様の婚約は先方が渋っているせいで進んでおりませんし、そこに醜聞でもでっちあげられたらますます遠のくでしょう」
諜報部長の説明にニコロの顔色が変わった。
王家に姫はいないし、男の自分は大丈夫だと思っていたがとんでもない。どこぞの令嬢に丸め込まれて浮気を仕組まれる可能性もあると気づいた。
「……ニコロ、いっそのことあちらに婿入りするか? そうすればあちらの父親も否とは言うまい」
「それは……できればありがたいですが。では、この家はクローバー殿下とフロレンティナに?」
「クローバー殿下は第三王子。とはいえ王妃が生んだ、継承権二位の方だ。お家騒動は避けたいところだろう」
この国で王家をもしのぐ財力と勢力を誇る、王家に連なる公爵家の令嬢との婚約は、王太子派閥をぴりぴりさせているだろう。婿入りの打診はむしろ望むところかもしれない。
フロレンティナをクローバーの元へ逃がし、あちらへ嫁入りさせると見せかけてこちらで結婚式を挙げるとなれば、タラクサクムとフィトローア、バイデンだけではなく王妃リリーの度肝を抜く。サティーナがおかしそうに笑い出した。
「まあ、痛快ですこと」
賛成、という意味だ。
「そう上手くいきますかね? あちらは殿下ですよ、万が一を考えれば、国にとめおきたいはずですが」
「そこは上手くやるさ。我が子のためなら鬼にもなるのが父というものだ」
慈しむ眼差しになったモーリスに、ニコロは虚を衝かれた顔をし、次に尊敬を込めた瞳で父を見つめた。
これからのことを家臣たちと話し合った後、ようやくモーリスとサティーナは二人きりになった。
サティーナは張り詰めていたものが緩んだのか、ベッドに腰掛けてどこか遠くに思いを馳せている。
今夜のことはサティーナの古傷を抉ったはずだ。モーリスは心からの愛情を込めて彼の妻を呼んだ。
「サティーナ」
「あなた……」
「よく頑張ったね。君はなんにも悪くない……今も昔も」
「わたくし……わたくしのせいで、フロレンティナがあんな目に遭ったかと思うと……」
サティーナの隣に座ったモーリスは、やさしく彼女の頭を胸に引き寄せた。
夜会が盛り上がっている最中で婚約破棄を叫ぶ。今夜、バイデンのやったのとまったく同じことを、タラクサクムもやらかしていた。
タラクサクムはもっとひどい。サティーナは彼と真実婚約していたし、モーリスを想っていた彼女がようやく初恋に諦めをつけ、タラクサクムに心が傾いたところで浮気を暴露したのだ。しかも、さもサティーナに非があるように。自分の浮気を正当化するために、サティーナを悪者にした。
友情と初恋と約束の何もかもを捨て去ったタラクサクムに、モーリスはその場で手袋を叩きつけた。
愛するサティーナを傷つけ泣かせたその罪を、タラクサクムの命で償わせるつもりだった。
「やはりあの時決闘で決着をつけておくべきだった。そうしていたらあいつの名誉は保てただろうに……」
前王に止めろと命令され、周囲にもたしなめられ、タラクサクムの罪をあきらかにしサティーナにきちんと謝罪と賠償をし、ローゼライト家とチェリオット家の絶縁を認めさせることで手打ちとした。かなり重いが、ならば決闘だ、とモーリスが引き下がらなかったので認めざるをえなかったのである。
しかし言葉と文書による謝罪と賠償金、絶縁でサティーナが受けた心の傷がすぐさま癒えるわけではない。モーリスは根気強く慰め、変わらぬ愛を囁き、一年後にようやくサティーナと婚約した。その前に家中の掌握は済んでいたので父母の反対もなく、タラクサクムとフィトローアの結婚式とは違い盛大かつ祝福されて結婚したのだ。愛は偉大の見本である。
「いいえ。あなたの剣をあんな男の血で汚すべきではありません」
あの時の憎悪を思い出し、今からでも決闘を申し出そうなモーリスを、サティーナは潤んだ瞳で止めた。
「あなたに任せきりだったわたくしがいけなかったのです。わたくしが引っ叩いていれば、あの男もフロレンティナと息子を結婚させようなどと考えなかったでしょう」
「あの時サティーナはとても傷ついていた。泣かなかっただけ立派だよ。それに、私だって活躍したいからね」
「まあ……」
その場では泣き出すことのなかったサティーナだが、彼女の友人たちは泣き崩れたり、あまりのことに失神する者もいたほどだ。
ロクに踊れもしない、礼儀作法すら知らぬ平民の小娘が王宮の夜会に、しかも王太子であるタラクサクムにエスコートされて現れた時点で退出した者もいる。今夜の状況とそっくりだ。
王家の醜聞を忘れる貴族ではない。タラクサクムとバイデンに見切りをつけた者は多いだろう。止められなかった王妃にも、それは及ぶはずだ。
フィトローアを妾妃にしても、せめて子供を産ませなければ良かったのだ。
王妃を愛せないというのであれば側妃を入れて、子供を作る。それがフィトローアを守る最善だった。
どんなにバイデンを愛していても、フィトローアを愛していても、バイデンが王太子になることはない。教育資金どころか侍女を最低限しか付けられない王子では無理である。
タラクサクムはフィトローアを寵愛はしても、彼女と王妃の仲を取り持つことさえしなかった。ただ事務的に王妃の元に通い、義務で子供を作っただけ。貴族がフィトローアを認めるように働きかけることをしなかった。
義務で王妃にし、義務で子供を産ませた女の哀しみと憎しみがどこへ向かうか、想像力があれば簡単に見当がつく。
「チェリオットの義兄上たちも、王家を庇うことはない。私たちは子供たちと民の幸せのために励んでいればいいんだよ」
放っておいてもあいつらは勝手に転落していくだろう。そうね、とやっと安心したように笑った最愛の人に、モーリスはそっとキスをした。
◇
翌日、さっそく動いたのは第二王子のカメリアだった。見舞いと称してフロレンティナとの面会を希望し、気分が優れないからとすげなく断られている。
この一件はたちまち城下に広がった。
第一王子が一方的に婚約者だと思い込んだ令嬢に婚約破棄を叩きつけ、さらに第二王子はこれ幸いと令嬢に言い寄った。身勝手で恥知らずな第一王子と、思いやりの心のない第二王子。それもこれも、父王がアレだから――と。
情報操作は貴族の常套手段である。臨戦態勢で待ち構える虎の巣穴にのこのこやってきたほうがバカなのだ。
そんなつもりはなかった、兄の所業を謝罪しようとしただけだ、とカメリアは弁明したが、もう遅い。モーリスはたしかにカメリア支持を表明したが、王家とは絶縁したままである。傷ついた令嬢を慰めてあわよくば、という下心があったのだろうと囁かれた。
はたして王家はフロレンティナとローゼライト家にどう償うのか。そんな空気の中、フロレンティナの婚約者であるクローバーがやってきた。
モーリスとクローバーの話し合いの末、フロレンティナが静養のためとクローバーの国に旅立っていったのが一週間後。その半年後に、フロレンティナとクローバーの婚約が彼の国で正式に発表された。
フロレンティナへの損害賠償は、婚約への祝いも含めて王家の直轄地を分譲することになった。ローゼライト公爵領に隣接する豊かな農業地帯が彼女のものになった。
バイデンの恋人としてフロレンティナを断罪したチュニアは、王家への虚偽、詐欺行為、バイデンにねだって宝石などを買わせていたことが横領となり、そこにローゼライト公爵家に対する侮辱が加わり、罪状が積み重なった。実家の準男爵家は取り潰し、莫大な慰謝料を支払うためにチュニアは女性向けの強制労働施設に送られることになった。
処刑すべきという声もあったが、できるだけ本人に償ってもらいたいというローゼライト公爵家の意見が反映されたのだ。もちろん本音は生きて苦しめ、だが、それは言わぬが花であろう。
バイデンは彼に極めて甘い父王タラクサクムが庇った。妾妃フィトローアに泣きつかれたのは想像に難くない。王位継承権は剥奪されたが王子のままで、鍛え直すためといって騎士団に入れられた。
王宮騎士団は当然ながら貴族のみで形成されている。選民意識の強い騎士団で、ようやくバイデンは現実を知ったらしい。自室に帰ると酒浸りとなり、フィトローアに怒鳴り散らすようになった。
第二王子のカメリアは王妃が手を尽くして結婚相手を探したが、ローゼライト公爵家の息がかかった国内貴族は軒並み全滅。結局近隣国から貴族の令嬢が来ることになった。だいぶ譲歩させられた末の婚約だった。
カメリアの結婚式から半年後、ローゼライト公爵家に帰ってきていたフロレンティナとクローバーの結婚式が行われ、同時にクローバーの婿入りが発表された。
あの婚約破棄騒動からは三年が経っていた。
これだけの時間がかかったのは、婿入りについての協議や根回し、式の準備などがあったからである。その甲斐あってフロレンティナとクローバーの結婚式はそれは盛大で、先に行われたカメリアの結婚式が霞むほどだったという。
婿入りするクローバーへの感謝と彼の国へのアピールもあったのだろうが、それにしてもあからさまだ。狙ったとしか思えないタイミングに、面目を潰された王家はローゼライト公爵家の恨みの深さを思い知った。
ちなみにニコロはクローバーの婿入りに喜び勇んで恋人の家に婿に行った。遠距離恋愛を実らせてのゴールインである。クローバーとモーリスに一番感謝したのはニコロかもしれない。
そこまで想ってくれるのか、とニコロの恋人は感激し、渋っていた父親もニコロの決意に感動したらしく潔く爵位を譲った。
やがてフロレンティナとクローバーに子供ができた頃、ひっそりとバイデンが病でこの世を去った。
一発逆転を狙っていたフィトローアは絶望し、葬儀の最中に倒れ、狂気を発したかの如き言動を繰り返した末に息子と同じ病で川を渡った。最愛の妃を亡くした国王はまともに政務ができず、貴族たちの嘆願によりローゼライト公爵家が国政に復帰する。
タラクサクムが退位しカメリアが王位に就いた時にはすでに王家は飾り物となっていた。危機感を抱いたカメリアがなんとか現状を打開しようとしても、父と兄のせいで信用されることはなく、かえって評判を落とすだけだった。
夫婦仲の良くなかったカメリアと王妃の間には子ができず、母は王家の血を引く公爵家であり父は友好国の王子という申し分のない肩書を持つ、フロレンティナとクローバーの息子が王太子として立つことになる。
それを見届けてモーリスが息を引き取った。彼の愛の女神サティーナは老いてなおうつくしく、モーリスの愛の深さを窺わせた。
サティーナは夫の柩にバラの花を供え、こう言った。
「夫はわたくしたちに愛を届けてくれた、御使いでした」
どこぞの天使が神の「やっておしまい!」で国滅ぼしてるし、天使って実は怖いですよね。
ローゼライト家はバラの名前から。
バイデンはひっつき虫
チュニアはペチュニア。
タラクサクムはたんぽぽ。(種をあっちこっち飛ばすから)
フィトローアはヨウシュヤマゴボウ。(毒あり)