最終電車と幽霊
よくあること。
「お客さーん。起きてくださーい」
午前零時十三分。
駅のホームに設置された自動販売機の前に、金髪の若者が座りこんでいた。
「起きてくださーい。上りも下りも、最終電車は行っちゃいましたよ」
声をかければ、とろんとした焦点が合っていない目。むせ返るアルコール臭。
「駅を閉めるんで、出てもらっていいですか」
「……ああー? うん、うん」
若者がふらふらと立ち上がる。千鳥足で、出口の階段へと向かう。
「転ばないでくださいねー」
「……ああー? うん、うん」
「首の骨折っても知りませんからねー」
「……ああー? うん、うん」
階段の手すりに掴まって、ずるずると下っていく。どうか、行き倒れませんように。ゲロるなら、駅の外の道でお願いします。
「さーて。もういないかな」
ワイシャツの襟を摘まんで、風を送る。
八月の夜は暑い。
晴天続きで湿度が高い。シャツは半袖だが、白手袋が蒸れる。暑い。早くシャワーを浴びたい。
周囲を見渡す。
ホームの端。
電燈の光が届かない、古びたベンチに人影があった。
スーツを着た男性のようだ。
ぴくりとも動かない。
「もうひと働きかー」
ぼやきながら近づく。酔っ払いかな。完全に寝ちゃっているのかな。
「お客さーん……」
ふと、嫌な予感がした。
客はぴくりとも動かない。
歩を止める。
違和感。
ベンチに座っている、スーツ姿の男。
その足が、ない。
「うっわ。来たよ、出たよ」
いつか経験すると思っていた。日付も変わった深夜のホーム。八月の熱帯夜。
ぴくりとも動かない、スーツの男。
幽霊。
ぴちょん、と滴が落ちる。
足がない代わりに、濡れている。ベンチの下に水たまりができていた。
「お客さーん……」
声を掛けても無反応。いや、返事されても困るけど。
「幽霊さーん……?」
ぴちょん、ぴちょん。
赤い水滴がアスファルトに落ちる。
「成仏してくださーい」
手を合わせながら、ベンチに近づく。
確か、般若心経だったよな。田舎のばあちゃんに暗記させられたの。利くのかな。
「カンジザイボサツ、ギョウジンハンニャハラミッタジ」
スーツ姿の男の幽霊は動かない。
ぴちょん、と水滴。ない足の部分から滴っている。
「シキフイクウ、クウフイシキ……」
湿気に混じる、金臭さ。
「うん?」
ベンチの手前で気づいた。赤い液体。
ぴくりとも動かない体は、明確に輪郭を持っている。
幽霊じゃない。
むっと立ち上る血の臭い。
両脚を切り取られた男の死体がベンチに置かれていた。
『最終列車と幽霊』