つるつるおみつ
「おみつ、ほんとうに行っちまうのかい?」
「おとっつあん、おっかさん。あたし、どうしても一人前になりたいんだ」
「そうかい。おまえがそうまで言うのなら送り出してやらないとね」
「おみつや。おとっつぁんもおっかさんも、ずっと待っているからね」
「ありがとう。それじゃあ、いってきます」
そうして、おみつは旅に出ました。一人前の、のっぺらぼうになるために。
月のきれいな夜でした。
真夜中の江戸の町。辺りは静まりかえっています。
川沿いには柳の木が並んでいます。おみつは一本の柳の下で足を止めました。それから、えいと飛び上がり、垂れ下がっている枝に飛びつきました。そのままぶら下がると、枝は切れるようにして折れました。
長くしなやかな枝を輪にして川に投げ入れます。
そして、おみつは、その輪をめがけて飛び込みました。
ばしゃんと水音がするかと思いきや、しんと静まりかえったままおみつの姿は柳の輪の中に消えました。
そのまま柳の枝は流されて、輪がほどけ、ただ一本の枝となって川を下っていきました。
枝が流されているころ、おみつは裏側の世にいました。もののけの世です。
そこは、いつまでたっても夜が明けることのない月明かりだけの世。町の様子は江戸と似ていますが、朝が来ないので一日もなければ一年もありません。時が止まっているので修行をするにはもってこいです。
おみつはのっぺらぼうです。けれども顔をつるつるにすることができません。おとっつぁんやおっかさんは両手で軽く顔をこすっただけで目も鼻も口もつるんとさせることができるのに、おみつにはできません。
幼いころは「おみつも大きくなればできるようになるよ」と言われていましたし、おみつもそういうものなのだと思っていました。背が伸び、髪が伸びるように、なにをしなくても自然とできるようになるのだと思っていたのです。
けれども、おみつの背が伸び、髪が伸びても、いっこうに顔はつるつるになりません。
知らないうちに顔が消せるようになっていたらどうしよう、と悩んだこともありましたが、そんな心配はいりませんでした。いつまでたっても顔を消せやしないのですから。
おみつは江戸の町で人と同じように暮らしていますから、井戸端で顔を洗っているときにのっぺらぼうになってしまったらどうしよう、などと心配していたのでした。
長屋の人たちには、おみつたちがのっぺらぼうだということは内緒なのです。正体がばれると怖がられるか追い出されるに違いありません。
おみつはもちろん、おとっつぁんもおっかさんも長屋の人たちが大好きなので、追い出されたくはありません。ですからほんとうは、おみつも顔をつるつるにできなくても困らないのです。
けれどものっぺらぼうはつるつるなのがほんとうの顔なのです。目鼻口があるのはお化粧をしているようなものなのです。おとっつぁんもおっかさんも家の中ではつるつるの顔ですごしています。おみつは二人のそんな顔が大好きでした。ですからどうしても一人前ののっぺらぼうになりたいのです。
そうした思いを打ち明けたら、おとっつぁんが裏側の世のことを教えてくれたのでした。
「おれたちの仲間は裏側の世にいっぱいいる」
「裏側の世?」
「あやかしの世だ」
「そこに行くとのっぺらぼうの修行ができる?」
「ああ、できる。のっぺら塾というものがある」
「行きたいわ」
「今度行き方を教えてやる。ただ行くのはたやすいが、帰ってくるのはちょっくらやっかいだ」
「戻ってこられないの?」
「戻れないことはないが、あやかしの姿じゃないと力が足りないだろうな。つまり修行を終えないと帰れない。修行がつらいからやっぱりやめた、ということはできないんだ」
「あたし、やめたりしないわ」
「本気なんだな?」
「ええ。本気よ。おとっつぁんやおっかさんみたいな立派なのっぺらぼうになりたいもの」
「おれたちはついて行ってやれないぞ。江戸での暮らしが長すぎて裏側に行こうにも跳ね返されちまう」
「平気よ。一人で行けるわ」
おっかさんは最後まで引き留めようとしていましたが、おみつの決心はかたく、おとっつぁんの「おみつの好きにさせてやるのも親のつとめじゃねぇのかい?」の言葉に泣く泣くうなずいたのでした。
おっかさん。あたし、だいじょうぶよ。きっと一人前ののっぺらぼうになって、つるつるの顔を見せてあげるんだから。
旅に出る前のことを思い出して、おみつは両手を握り締めました。
鼻息荒く、こぶしを握りしめる人の姿をした娘を、あやかしたちがじろじろ眺めます。
おみつは急にはずかしくなって足早にのっぺら塾を目指しました。
江戸の町にはおみつたちのように人の姿で暮らすあやかしが大勢います。みんな人が大好きなのです。そして大好きな人たちを驚かすことも大好きなのです。だから楽ではないはずの人の姿になってまで江戸の町にいるのでした。
けれども裏側の世にはあやかししかいないので、みんなありのままの姿で暮らしています。のっぺらぼうはもちろん、ろくろ首や猫又、唐傘お化けもいます。おみつは江戸も好きですが、いろんな姿のあやかしがいる裏側の世もわくわくして好きになりました。
のっぺら塾の塾生はいずれも人でいえば五つ、六つの幼い子で、すでに娘という歳の塾生はおみつだけでした。
「おねえちゃん、なんで大きいのに塾に来てるの?」
「おねえちゃんって、おちこぼれ? できそこない?」
「ふつう、学ばなくてもできるんだよ。ほら、見て見て」
そう言ってはくるくると目鼻口を現したり消したりしました。
みんなは小さいうちからつるつるな顔になれるんだ。あたし、できそこないののっぺらぼうなのかな。
子供たちの無邪気な問いにおみつははずかしくてなりません。
おとっつぁんはああ言ったけれど、のっぺら塾はのっぺらぼうたちの学ぶところであって、のっぺらぼうになるためのところではありませんでした。
「こら、おまえたち。懸命になっている者をはやしたてるでない。そんなでは立派なあやかしになれんぞ」
塾長がたしなめると、子供たちは口を閉じ、そのまま顔を消してうつむいてしまいました。
「おみつ、ちょっと来なさい」
塾長に呼ばれて別室へ行くと、一枚の書き付けを渡されました。
「ここにおまえのことを書いておいた。のっぺら庁という役場があるからそこで手続きをするがいい。おまえみたいな者を学ばせるところを紹介してくれるはずだ」
「あたしでも学べるんですか?」
「うむ。学ぶというかだな……まあ、行ってみなさい。どのみちこのままでは江戸へも帰れんのだからな」
たしかにそのとおりです。いまのおみつではただの人と同じです。またおとっつぁんとおっかさんに会うためには、一人前ののっぺらぼうになるしかありません。
「はい。ありがとうございます。のっぺら庁へ行きます」
「そうか。では、行き方だが……」
塾長はのっぺら庁への道のりを教えてくれました。
のっぺら庁は川の下にありました。塾長に教えられた通り、水面に映る月に飛び込むと、白く光る穴が下の方にのびていました。おみつは尻でつるつる滑り下りていきました。穴の出口には船頭が乗った舟があって、おみつは滑り出た勢いのまま舟の中にどしん尻もちをつきました。
「いたた……」
おみつが起きあがらないうちに、舟が進みました。
川に飛び込んだけど、ここもまた川みたいね。
舟に乗っているのだから川だろうと見当をつけましたが、じつのところ、月もなく辺りは真っ暗で、まわりになにがあるのかさっぱりわかりません。なにもないのかもしれません。
「あの、のっぺら庁へ行きたいのですが」
「あい。向かっとります」
塾長そっくりの船頭が言いました。
「え? 塾長?」
おみつが近づこうと腰を上げると、舟がぐらりと揺れました。そしてそのまま横に倒れ、舟ごとぐるりとひっくり返りました。
あっと思う間もなく、おみつはお寺の本堂のようなところで正座していました。目の前には仏像ではなく、袈裟姿をした塾長がいました。
「塾長……?」
「のっぺら塾からの書き付けを読んだ」
どうやら塾長とは別人のようです。
塾長に似ただれかは一枚の紙を手にしていました。いつの間に渡したのかさっぱりわかりません。
「おまえが顔を消せないのは学びが足りないわけではない。近頃このようなことが多いのだ。もののけの血が薄くなっているのかもしれん」
「ですが、あたしのおとっつぁんとおっかさんは二人とものっぺらぼうです」
「あやかしとあやかしの子でも、人の世に永くいると人に近づいていくものだ。おまえはのっぺらぼうの血が薄いのだろう」
「そんなのいやです。あたしはつるつるの顔になりたいのです」
「どうしてもか?」
「どうしてもです」
「そのままでは帰れないと思っているのなら、心配ない。ちゃんと江戸へ帰してやろう」
「帰りたいのもそうですけど……あたし、顔を消せるようになりたいんです。のっぺらぼうになりたいんです。その修行のために来たのです」
「修行なら、とうに終わっている」
「終わっている? あたし、まだなにもしていないです。ここに来ただけです」
「時をかけてここまで来たではないか。おまえはその身を充分に裏側の世に浸した。その身には、あやかしの血が満ちたはずだ」
おみつは思わず頬に手をあてました。すると、手のひらにはつるりとした肌しか触れません。目も鼻も口も、あるべきところにありません。
「ごらん」
いつの間に置かれたのか、目の前に水の張られた器がありました。水鏡です。促されるまま水鏡をのぞきこむと、見事につるつるの顔が映っていました。
「あ。あたし……」
もっとよく見ようと身を乗り出すと、おみつは頭から水鏡に飲まれていきました。
あたし、帰れるんだ……。
水を通り抜けながら、おみつはそう思いました。
真っ暗な水の中をどこまでも流されていきます。やがて流れが緩やかになり、底に足が着きました。
おみつは立ち上がり、目の前にあるはしごを上りました。
はしごのてっぺんに丸いふたがされていました。とても重いふたでしたが、おみつは腕と頭で押し上げると、どうにか隙間ができました。
――ゴッ、ゴゴゴッ。
ふたを横にずらすと、おみつは地上に這い上がりました。
「うわ。マンホールから人が出てきたぞ!」
「なんでこんなところから女の子が……」
通りかかった人たちがおみつを見て驚いています。
おみつも驚きました。江戸の町に戻ってきたと思ったのに、知らないところへきてしまったようです。切り立った崖のような建物がそびえ、人々は異国の着物を身につけています。
「ねえ、あなただいじょうぶ?」
優しそうな女の人が心配そうにおみつの顔をのぞきこみます。
「あの、江戸はどこですか?」
「江戸? 東京ならここだけど?」
「東京? それはどこですか? 江戸からは遠いのですか?」
「えっと、江戸というのは東京の昔の地名よ」
女の人は困ったように首を傾げました。まわりの人たちがこそこそと話しているのが聞こえます。
「この子はなんで着物なんか着てるんだ? 祭りでもあるのか?」
「いや、この時期に祭りなどないだろう。病院にでも連れて行った方がいいんじゃないか? それとも警察だろうか」
おみつは怖くなって逃げ出しました。病院も警察もどんなところか知りませんが、そんなところに連れて行かれたら二度と帰れない気がしたのです。
人に会わないように路地を走りました。だいぶ遠くまで来たと思いますが、どこから来てどこまで来たのか、おみつにはわかりませんでした。
「江戸が変わってしまったのかしら?」
さっきの女の人が言っていた「江戸というのは東京の昔の地名よ」という声が何度も思い出されます。
「おや。いまどき珍しいねえ。のっぺらぼうじゃないか」
声のする方を見ると、一匹のコウモリが道ばたの木にぶら下がっていました。。
「あたしがのっぺらぼうだってわかるの? 顔を消していないのに」
「わかるさ。お仲間みたいなもんだからな」
聞けば、コウモリはおばけ屋敷で働いているそうです。なんでも本物のおばけたちがやっているのだとか。
コウモリの話によると、おみつが裏側の世界に行っている間に、こちらでは200年が経っていたのです。その間に江戸は東京となり、夜でも明るくなるからくりができ、闇のなくなった町にあやかしたちの住処はなくなったのでした。
「おとっつぁん……、おっかさん……」
「残念だがな、江戸に住んでいたあやかしはもういないと思うぞ」
「うそよ。待っていてくれるって言ったもの」
「いないものはいないのさ。おれだって、町であやかしに会ったのはとんでもなく久しぶりだぞ」
「じゃあ、あたしはどうすれば? せっかく一人前ののっぺらぼうになって帰ってきたのに意味ないじゃない」
おみつはわんわん泣きました。けれども泣いているのはつるつるの顔なので、涙は見えません。
見かねたコウモリが言いました。
「おまえ、うちに来るか?」
「いいの?」
「ああ。おばけ屋敷の従業員として働いてもらうけどな」
「働くわ。働きながら、おとっつぁんとおっかさんを探す」
「そうだな。それがいいだろうな」
おみつはコウモリについていきました。
やがて見えてきたのは今にも崩れそうな古いお屋敷。
「あれが、我らがおばけ屋敷、ヒュードロドロ社さ」
辺りは真っ暗で、お屋敷の入口にぶら下がっているちょうちんの明かりだけがポワッと灯っています。
お屋敷のまわりには柳の木が並んでいて、風もないのにしなやかな枝がゆらりゆらりと揺れています。江戸の町のような懐かしい風景です。
思わず足を止めて眺めていると、ちょうちんがぶるんと揺れて、中からピカピカ光るものが飛び出しました。
「あいつは、おばけのヒカルだよ」
コウモリが言いました。
「おばけなのにあんなに光っていいのかしら」
「いいんだよ。だって、それがヒカルだから」
おばけのヒカルがピカピカ光りながら飛び回ります。
「寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。さあさ、世にも楽しいおばけ屋敷だよ!」
世にも楽しい……。
お客さんを呼び込む言葉なのですが、おみつにはまるで自分に言われたかのように感じられました。
そうだ、あたしも楽しく働こう。なりたかった一人前ののっぺらぼうになれたんだから。裏側の世に行かなければよかったなんて思わないですむように。
おみつは背筋を伸ばし、顔をつるつるにして、新しい居場所に向かって歩き出しました。
月のきれいな夜でした。
(どろん)