朱雀、翔ぶ。
「父上はなぜ狩りに連れていって下さらないのかしら」
窓辺の甕に活けられた雪白の胡蝶蘭。
その向こうに広がる水色の冬空を仰いで元公主は寂しく微笑んだ。
当年十六歳、この大国の皇帝唯一の娘である。
「この寒さですし、姫様がお怪我などなさるといけませんから」
年配の女官が温かな茶を器に注ぎながら答えた。
穏やかだが譲らない声だ。
「それは、父上も同じではないかしら」
甘やかな香りを含む湯気が漂い過ぎる中、公主は切れ長い瞳の長い睫毛を伏せた。
白玉じみた滑らかな手が翡翠の首飾りの先の小さな黒鳳蝶を封じ込めた琥珀を撫でる。
磨き上げられた黄金色の玉に閉じ込められた蝶は艶やかな翅は生けるが如し。
だが、決してもう翔ぶことはない。
「姫様、新しい首飾りが届きました」
若い、しかし、公主よりは幾分年長の女官が現れた。
「お目を通されてお着けになってはいかがでしょう」
茶を注いだ年配の女官も微笑んで年若い主君に勧める。
「見せてちょうだい」
湯気立つ器を手にした公主はどこか虚ろな眼差しと投げやりな声で応じた。
*****
「これは……」
半ば透き通った白玉を連ねた先に滑らかに輝いている、鮮やかな朱色の瑪瑙を彫り込んだ……。
「朱雀」
掌に乗る程の大きさだが、広げた翅といい、翻った尾といい、鋭い嘴といい、正に天空を翔る神鳥であった。
*****
「そなたがこの首飾りを作ったのですか」
胸で燃えるように輝く朱雀を示して公主は静かに尋ねる。
「仰せの通りでございます」
傍らに杖を置いた、白髪の男は病身らしい痩せこけた肩を震わせながら答えた。
その後ろにひれ伏している、年の頃は公主と変わらぬ娘は案じる風に円らな大きい目を注いでいる。
「いや、図案を描いて材料を揃え、白玉を磨き上げたのは確かに私でございますが」
白髪の男はそこで苦いものを飲まされたように一瞬、蒼白い眉間に深い皺を走らせた。
「瑪瑙で朱雀を彫り上げたのはそこにいる娘でございます」
「父さん……」
「お前は黙っていろ」
言い掛けた娘を父親は振り向いて厳しく制すると続ける。
「当代一の名工と言われ、長らく后妃様や公主様の宝飾品を手掛けて参りましたが、ここ数年は衰えを感じておりました」
娘と似通った円らな瞳をどこか虚ろに漂わせながら白髪の男は語った。
「そして、とうとうこの首飾り制作の半ばで病に倒れました」
娘は恐れ入った風に大きな目を伏せている。
「娘は私の技を見て覚え、いつの間にか追い越しておりました」
父親の目に光るものが灯った。
「女子の身ではありますが、数ある弟子の中でも我が後継と認められるのは、この娘だけでございます」
啜り上げる音がして粗末な衣を纏った娘のかぼそい肩が震える。
「そうでしたか」
公主の白い手が胸の朱い神鳥を固く握り締めた。
「以降、そなたの娘を私の宝飾品の職人に任じます」
*****
「親方、失礼します!」
駆け込んできた若い男弟子の声に女職人は手を止めて白髪の目立ち始めた頭を振り向けた。
開け放った扉からは家々の夕飯支度の匂いと共に秋の終わりのひんやりした空気が音もなく流れ込んでくる。
「陛下がとうとうお隠れになったそうです」
息子ほども若い弟子の言葉を耳にすると、五十半ばの女職人の円らな大きな目に一瞬、少女に返ったような震えが走った。
「そう」
まだ彫り始めたばかりの鮮やかな朱色の石に目を落として呟く。
「孫姫様の腕輪にまた朱雀を彫って欲しいとご依頼をいただいたばかりなのに」
瑪瑙の中からまだ完全には姿を現していない神鳥。
「陛下がまだ公主様だった頃、私の彫った朱雀の首飾りをご覧になって、女子でも男を超えることは出来る、と」
「そうですか」
肯定も否定もしかねる風に答える若者をよそに女職人は再び石を彫り始めた。
丸窓からは赤々と燃えるような秋の夕陽が射し込んできている。(了)