プロローグ
生きていくうえで必要なもの。お金、権力、人間関係など……人それぞれ様々なものであると思う。
しかし、何もかもを手に入れても心の隙間が埋まらないのは何故だろうか。お金だって使い切れないほどある.
地元名士である私が意見すればその通り町が動く程の権力もある。名士故に人間関係にも一切困ったことはない。それでもこの心の隙間はいったいなんなのだろうか。
四月上旬。桜が開花し始め、今まで真っ白だった世界がちょっとずつ色を付け始めた。そんな世界を眺めながら、町で唯一の病院へ向かう。
「しかし先生!わざわざ先生自らがこんな病院の視察にご足労する必要はないではありませんか?」
そんな事を傍らで話しているのは、私の秘書である森本太一である。私の古くからの知り合いで、三年前ある事がきっかけで、今は私の秘書をしている。
「こんな病院とは随分な言い方をしてくれますね。」
私たちの会話を聞いていたであろう女性が不快そうな顔をしながら歩いてくる。
「あんた達がどんな人間か知らないけど、あの病院を悪く言うのは私が許さないよ。」
色素が薄く色白肌に、黒く艶やかな長い髪を一つに結んで、立ち姿から品があるのがうかがえる。
「君は誰に向かって口をきいているのか分かっているのか?」
……そう口さえ開かなければ。
「はぁ?あんた達以外誰もいないのに、他の誰に向かって言ってると思ってんの? どんだけ視野狭いんだか。 もう少し視野広げられた方が良いのではないでしょうか。」
彼女は、呆れたような表情をしながら、それだけ言い残して私たちの元から去っていった。
「一体何なんですか! あの小娘は! こちらが黙っていれば先生に向かってあのような事を言ってくるなんて」
森本は先ほどの女性に対し相当腹を立てているようだが、私は違った。
どんな相手に対しても自分の意見を自分の声で伝えれる。それは素晴らしいことだし、誰でも簡単にできることではないと思ったからだ。
……そう。私のように失声症の人間には。