【閑話】はるか遠き地より来たりし者
そこは何もない地であった。
荒れた大地は一面平坦で起伏がなく、砂塵が舞うでもなくただ虚無のごとく広がっている。
生命はおろか、時ですら存在していないのかと思われる程の歪さを持つ土地。
イドラギィア大陸南部方面。マイノグーラやフォーンカヴンが居を構える土地より更に南の果て。
未開領域と呼ばれるその不毛の土地は、まるで設定が存在していないかのように空虚で、存在感が無かった。
そんな価値も意味もない土地で、一人の男が静かに大地を見下ろしていた。
不思議な男だった。
年齢は不詳。だが肌に刻まれたシワから相応に歳を重ねているようにも思える。
ところどころ裂けと破れが見てとれるくたびれた黒色の外套にすっぽりと身を包み、ともすれば乞食の様にも思われる格好だ。
だがその容貌がこの男が只者ではない事を示している。
短く切りそろえた黒髪に、鋭い眼光。
布越しにわかる体躯は戦いに身を置く者のそれで、だがしかしその瞳からは知性の光が燦然と輝いている。
男はじっと大地を見つめる。静かに、ただ静かに。
「ああ! 偉大なる魔王様! 何をご覧になられているのですか?」
静寂を打ち消す者がいた。
女だ。薄い緑を基調とした踊り子にも似た衣装に身を包んだ青白い肌の女は、確かにその男に向かって"魔王"と呼びかけた。
現在タクトたちマイノグーラを悩ませる南部からの蛮族侵攻。
その全ての元凶がこの男であり、この現象であった。
RPGゲーム『ブレイブクエスタス』。王道の人気ゲームの最奥に構え、プレイヤーを待ち受ける最終試練。
名前も何もない、魔王とだけ呼ばれる存在。
それが男に与えられた記号だった。
「大地を見ている」
男――魔王は女の言葉に静かに応えた。
瞳は相変わらず地面に固定され、何を考えているのかその態度からは想像もつかない。
女もまた、魔王が何を考えているのか測りかねているのだろう。
芝居めいた態度ではあったが、どこか困惑が見て取れた。
「まぁ! 大地を? この世界の大地に、何かご懸念が?」
「いや、違う。素晴らしい土地だなと、感心していたのだ」
遠くから流れてくる草木の香りが、空を飛ぶ鳥が、ときおり吹き抜ける風が、大地の力強さが、魔王の五感全てを満たしていた。
軽く息を吸い込むと清涼な空気が肺を満たし、活力となって全身に行き渡る。
暗い空に焼けた大地、そして肺を冒す毒霧。彼が知る世界のどれとも違う。
それは魔王にとって非常に感慨深い体験だった。
彼は今まで魔王城の奥深くに座し、その場から一歩も外に出ることはなかった。
生まれ落ちてから、死にゆくまで。
魔王という存在がその居城である魔王城より外に出ることは設定されていなかったのだ。
もちろん大地や空という存在は知っている。だが知っている事と経験することでは大きく違う。その違いが彼に無上の感動を呼び起こしている。
滑稽だと思われるが、彼は初めて外の世界に出たのだ。
その喜びが如何ほどばかりか……。
理性を放棄して感情のままにこみ上げる激情を語ろうかとも思った魔王であったが、彼の四天王である女がその感動を決して理解できないであろうことを思い出し口を閉ざす。
「ああ、素晴らしい! 魔王様はこの地がお気に召したご様子! ええ! ええ! 命令をいただければ、今すぐこの地を魔王様に献上してみせましょう! どうぞご采配を! 我らが王としてすべての従僕にご命令を!」
事実、四天王の女は大げさな態度で両手を広げると、まるでこの世界をすべて征服し、自分たちのものにせんとばかりに息巻いている。
その従順な態度は配下として好ましいものであったが、残念ながらこの時において魔王の心を揺らす類のものではなかった。
何より彼女のその様な態度はすでに見飽きて興味すら湧き起こさなかったのだ。
空を見上げた。この美しい世界で、どうすればよいのかとふと疑問が湧く。
「我は、どうすれば良いと思う?」
その言葉に女はキョトンとした表情で眼を瞬かせた。
「は? あっ、いっ、いえいえ! 申し訳ございません! 突然のことで少し驚いてしまいましたわ。そうですわね、まったくそうですわね!」
魔族の王として不適切な言葉であったことは重々承知している。
だが魔王はあえてその質問を投げかけることにした。故に女がいささか不敬な態度をとったとしても不問に処した。
もっとも、彼自身は配下が自分にどの様な態度を取ろうと興味などなかったかもしれないが……。
ともあれ問いは投げかけられた。後は答えを待つだけだ。
魔王は静かに大地を見つめながら女の返答を待つ。
やがて何か気まずさに身じろぐ気配がした後、女はようやく先程の返答を行った。
「先程の問いでございますが、――もちろん! それは魔王様のなさりたいように! 魔王様のなさりたいこと、それが法でございます! さしあたってはこの世界を手中に収めるなどよろしいかと! ええ! よろしいかと!」
大げさで、仰々しく、多分に媚びが含まれ。
――そして予想された実につまらない返答であった。
「そう……か。そうだな。いや、そうだろう」
それっきり、魔王は押し黙ってしまう。
女は自らが何か失態を犯したのかと肝が冷える思いだったが、さりとてこの場で口を開いて自らの非を詫びるような胆力は持ち合わせていなかった。
万が一にも勘違いであれば、その謝罪こそが魔王を不快にさせる要因となってしまうからだ。
故に女は引きつった笑みを浮かべながら冷や汗をかくばかり。
人類の絶対脅威であり多くの国と街を恐怖に陥れた四天王と言えど、所詮魔王の配下でしかない。
絶対者である魔王の前では、情けなく右往左往する小心者でしかなかった。
「ゆけ、我はこの大地をしばらく眺めることにする」
ややして魔王は思い出したかのように女へと命令する。
その言葉にほっと胸を撫で下ろしたかの様に緊張の表情を和らげた女は、いつもどおり仰々しい口上でもって退去の挨拶をし、颯爽とその場から姿を消した。
……魔王は思索にふける。
四天王の女がその場から去ってからもなお、視線を大地へと向け静かに己がうちへと没頭する。
彫りの入った端正な顔立ちに何を思うか、その内情を知るものはいない。
だが誰もいないことをその超常的な感覚で確認した魔王は、まるで自分に問いかけるようにポツリと言葉を漏らした。
「――は確かに言った……」
果たしてどの様な意味を持っているのだろうか?
それは確認のようにも思えたし、自らへの問いのようにも思えた。
もしこの場に四天王が全員揃っているのならば、その真意を問うものがいたであろう。
だがこの場には魔王しか存在していない。
存在していないからこそ、魔王は先の言葉を呟いたのだ。
それは決して聞かれてはならない秘密を、どうしても我慢できずに思わず口にしてしまったかのようにも思われた。
「ここにこそ平穏が、我の求める平穏があると」
またポツリと、言葉が漏れ出た。
何故か悲しげに紡がれた言の葉は風に乗って空へと流れていく。
誰に聞かれることもなく、誰に理解されることもなく。
遠く、魔物たちの声が聞こえる。
人外――それも魔すらも超越した存在のみがなし得る聴力によって把握したのは、遥か遠くにて人間を蹂躙せんと猛る魔物たちの雄叫びだ。
どうやら今回も世界征服が始まったらしい。
長い旅の始まりだ。終わりの無い、長い長い旅の……。
魔王は思索に耽る。
激突の時はすぐそこまで訪れていた。




