閑話 常に貴女を想う
拓斗が様々な交渉や戦いで忙殺され、元コミュ障の病人らしからぬ行動力を求められたことにより内心で泣きが入る丁度その第一段階。
サザーランドとの同盟締結が成された頃合い。
マイノグーラが置かれている状況、そしてこれからの状況を考えれば驚くほど平穏な場所が一つだけあった。
第三都市セルドーチ。
マイノグーラがレネア神光国との戦いによって獲得した正統大陸の都市で、現在正統大陸連盟との最前線に位置する都市である。
その執務室の一つ、拓斗が見れば心底うらやむような控えめな書類の束を横目に、元クオリアの異端審問官クレーエ=イムレイスは一つの報告書を熟読していた。
「なるほど、流石は王。よもやこれ程とは……」
「どんな話だったのー?」
声がかかる。隣には新たな書類の束を胸に抱えたメアリア=エルフール。
このセルドーチの実質的な責任者。その双子の片割れだ。
現在この都市は三人体制で執務を行っている。クレーエが執務の全体的な監督を行い、双子の少女がその指導の下で思い思いに都市運営を行うという体制である。
指導込みとは言え三人体制。加えて文官として業務に携わるイラ教徒もそれなりにいる。
以前のレネア新興国統治下でのシステムから緩やかに移行したお陰もあって、ここセルドーチの空気は首都である大呪界と比べて比較的軽い。
反面、やや暗黒大陸側とは距離感の様なものがあるが……。
実際それなりに運営が進んでいることで拓斗からは若干放置気味にされていることは確かだ。
だがこの様に定期的な情勢の通達が来る辺り忘れられているという訳ではない。
クレーエは書類を丁寧に折りたたみ机の中にしまうと、メアリアから追加の書類を受け取りつつ先の質問に答える。
「サザーランドのとの交渉についてです。上手く同盟関係が結べたようで、ひとまず暗黒大陸の国家での同盟に関しては問題なく進みそうです」
「おー! それはよかったね!」
屈託無い笑顔で喜ぶメアリアにクレーエの鉄面皮も思わず綻ぶ。
この少女達との付き合いはそこまで長いという訳ではない。だが互いに大切な人を亡くしたという境遇は距離感をつめる事に役立った。
加えてその立場故に会話の機会も多いことから彼女たちの仲は一般のそれよりも急速に深まりつつある。
忌憚の無い意見のぶつかり合いと、気心が知れた間柄であるが故に行われる何気ない助け合い。それはセルドーチの政務に置いて良い形で発揮され、こと都市運営と言う点について言えば合格点を超えて優秀と評価されるほどの結果を出していた。
だが、それはあくまで都市運営に関してだ。
彼女たちには目的があり、都市運営はその過程で王から命じられている仕事にしかすぎない。今は更に重要な事柄が存在している。
その事実は全員が理解しており、同時に遅々として進まぬ状況に焦りを感じていた。
「王さまの方は順調ですか。キャリーたちは成果が出ていないのでちょっと報告しづらいですね……」
気がつけばキャリアが執務室へ入ってくる最中であった。
手に持つ盆の上には何やらカップと菓子らしきものが見える。休憩用のなにがしかを持ってきてくれたのであろう。
クレーエは自身にも同様の焦りと気まずさがある事を理解しつつ、キャリアを励ます。
「基礎を鍛えることは重要ですよ。お二人の実力は確実に上がっています。また《イラの騎士》についても再調練が進んでおり、期限には十分間に合うでしょう」
三人が都市運営以外で王より命じられたことは、自身らを含めた軍備の強化である。
調練の内容、方向性含め委細はクレーエたちに任されているが、その裁量の高さが逆に彼女たちにとって重しとなっている。
特にクレーエは日記の聖女リトレインの奪還が目的であり、このまま行けば大戦争の開始時にぶつかり合う事は必定である為に気が気でない。
リトレインの能力を考えるのならば、早く対処する必要がある。
王が奪還について責任を負うと宣言してくれたものの、何もせず全てを任せるという選択はクレーエにはありえなかった。
「あの聖女さんについては何か分かったー?」
メアリアの問いに、クレーエは左右に首を振る。
最も成果を上げたかった問題に兆しが見えないのは彼女としても歯がゆさしかない。
「いえ……あの娘の事を想いながら、小職は何も理解できていなかった。それが分かっただけですよ」
セルドーチの街は元々レネア神光国、ひいては聖王国クオリアの領地だった場所だ。過去の建築物が未だ破壊されずに残されているのなら、貴重な資料もどこかに埋もれているかも知れない。
もしかしたら厳重に記録が管理されている日記の聖女の情報も……。
そうわずかな希望を抱いて時間の許す限り街中をひっくり返した。それこそ各村落の教会資料庫から街中の有力者の書斎まで……だ。
だが別途マイノグーラやセルドーチにとって有益な情報は出てきたものの、本命に当たる資料は一つも見つからなかった。
最初から大きな期待を寄せていた訳では無いが、だとしても落胆があるのは無理からぬ事だろう。
クレーエは己の内に抱える不安を吐露する。
「代償を消し続ける奇跡の連続使用は必ず彼女に良くない結果をもたらす。小職はその事が恐ろしいのです。早く対処しなければならないのに、どうやって良いかすら分からない」
「時はくるよー」
「そうなのです、いずれその時は来ます。それまで辛抱ですよ」
今は忍耐の時。姉妹はよく理解していた。
クレーエもまたその事を理解しつつある。
重要なタイミングは必ず訪れる。その時に決して取りこぼさぬよう、今はただ耐え牙を研ぐしか他ならぬと……。
「ネリム。貴女はどこにいるのですか……」
呟きは、ただ虚空に消えるのみだった。
◇ ◇ ◇
聖王国クオリア。聖都第四区教会地下牢獄。
本来であれば重罪犯や政治的に危険な人物が恒久的に収監される秘密施設。
薄暗くジメジメとした石造りの室内に松明の明かりだけがゆらゆらとともる。
およそ人を想定しているとは思えぬ太さと厚みをもった鉄格子の先に、その少女はいた。
日記の聖女リトレイン=ネリム=クォーツ。
目隠しをつけ、中央の椅子にちょこんと座る少女は一目で違和感を覚える様相だ。
通常であるならば当然としてある囚人特有の汚れが一切存在しないのだ。怪我もなく、また疲労も見えない。
まるで今さっき入ったと言わんばかりに、彼女の空間だけが清涼に保たれている。
その様子を牢屋の外から眺めながら、自らの手駒――決して裏切れぬ弱みを握った司祭を伴った枢機卿は、忌々しげな、だがどこか怯えの見える瞳で牢獄の中を見つめていた。
「これがかつての聖女のなれのはてとはな……」
思わず口をついた声に司祭が顔を顰める。内容もさることながら発声がマズイ。
だが立場の関係もあり、直接とがめるような事はしなかった。
司祭が許容出来る程度に小さな声だったからだ。
「依り代の聖女様は一体何をなさっているのだ?」
だが次の言葉は見逃すことが出来なかった。何より声が大きい。
慌てた司祭が目上であるはずの枢機卿の袖を掴み、必死の形相で口元に指をあて静かにするようジェスチャーする。
だがそれよりも先に事は起こった。
「ひぃっ!」
叫びはどちらの男からのものか。
ぐるりと、記憶が全て失われ、ありとあらゆる認知が消失しているはずの聖女がこちらに顔を向けた。
日記の聖女リトレイン=ネリム=クォーツは神に記憶を捧げ、絶大な力を得た。代償として彼女の記憶は失われ続け、思い出を記した日記がなければ自己が何者かも判断できぬ状況となっている。
その日記が厳重に隔離されている今、本来であればいわゆる茫然自失の状態であり他所からの刺激には一切無反応のはずだ。
だが彼女は愛らしい声音で尋ねる。
「ねぇ、そこにいるの? 声が聞こえるわ。返事をして、さみしいの」
ただただ目の前の虚空に。相手を認識しているかどうかも定かではない少女が。
「どうして私はここにいるんだろう? ここは暗いの。とてもとても、誰も教えてくれないの……」
その姿はいっそ哀れにも見え、枢機卿も彼の中にあるわずかな良心から思わず何か声をかけようとさえしてしまう。
「お静かに……答えてはいけませぬ。アレに気取られる」
司祭の忠告により、済んでのところで踏みとどまった。
少女の声音に騙されてはいけない。常に記憶の喪失と認知を繰り返すあの少女を捕獲するのに、どれだけの犠牲を払ったかを枢機卿は思い出した。
「あれ? 誰か居るの? ねぇ……教えて欲しいの」
また記憶が消え、振り出しに戻る。
「本を知らない? 私の大切な本なの、それがあればきっと何もかも思い出せるはず」
ただ、静かに、それだけを見守ることしかできない。
ここまで来ればもはや見守ると言うよりは観察だ。聖女リトレインは、現在のクオリアにとってそれほど危険視される存在なのだから。
見る者の心を蝕む変化がまた一つ、訪れる。
「あああああああっ!! 本! 本が無いの! アレが無いと私は! 私が!」
リトレインが突然叫びだした。狂ったように……本を求める。
「消えちゃう! ねぇ消えちゃうよ! 私が消えちゃうんだよ! ねぇ、早く本を! 何処にあるの!? 早く! 早くしないと! ああああああっ!!」
喉が潰れるかと思うほどの絶叫。監視者であり傍観者であり、そして怯える者である二人はただ驚きを声に出さぬよう必死で耳を塞ぎ、彼女の発狂が終わるのを待つしか無い。
「アレ? どうして私はここにいるの?」
パタリと、また元に戻る。
枢機卿の表情はもはや一秒たりともこの場に居たくないと痛烈に物語っていた。
食事も、排泄も、睡眠も……おおよそ人として行動を必要とせず、聖女リトレインは生存を続けている。何もせず、ただそこで発狂と忘却、そして虚空へと呟き続けているのだ。
彼女には神の奇跡があるが故に。
神に愛されているが故に……。
(これが神が与えし奇跡だというのか? これが本当に神に祝福された聖女だというのか?)
司祭の内心の葛藤に答える者など何処にもいない。
「……行きましょう。長く居るとどうなるか分かりませんので」
司祭が声をかけるが枢機卿からの言葉はない。彼は牢獄から背を向けることを返答とした。
地上に向かう扉へと足を向ける。その背後からずっと声が聞こえる。
いるかいないかも分からぬ虚空に向かって、聖女リトレインが語りかけている。
それが何よりも恐ろしい。おそらく一日中――否、ずっとああなのだ。
枢機卿と司祭はまるで猛獣が放たれた迷宮から逃げ出すかのように、静かに静かに気配を押し殺して退室した。
日に一度行われる聖女リトレインの生存確認。
目をかけていた司祭がその任を命じられたことで今回の同行をねじ込んだ枢機卿だったが、彼は己の行いを深く後悔していた。
数々の闇を覗いてきた彼でさえ、今しがた目にした光景はあまりにもおぞましかった。
「ここまで来れば大丈夫です。もう、向こうに聞こえていないでしょう……おそらく」
司祭の言葉に枢機卿はようやく大きくため息を吐く。
文句の一つ、いや……質問の一つでもしようかと考えたが、司祭の顔はそれを躊躇する程に青ざめていた。
同じなのだろう。二人とも満身創痍だ。一気に数年も年をとった気にさえなってくる。
「あのようなもの、どうやって扱えばよいというのだ……」
枢機卿が呟き、司祭はただ沈痛な面持ちで顔を振る。
クオリアの状況は緊迫している。エル=ナーはサキュバスの手に落ち、三法王を含め依代の聖女は邪悪なる魔女ヴァギアと手を組むことを決断した。
そして来るべき日のために・・・・・・、戦力として運用するため日記の聖女を確保し続けているのだ。
今のクオリアにかつてのような栄光はない。誰も彼もが怯え、疑心暗鬼だ。
破滅の足音が、こちらにゆっくりと近づいてくる気がしてくる。
「神よ、我々は一体どうすれば……」
後ろめたい事に手を染めようとも、数多の表に出せぬ隠し事があろうとも、枢機卿の彼は聖職者であった。
そして敬虔なる神の信奉者だ。
祈りは必ず天に届く。聖典の教えではそう説かれているが、聖神アーロスがその祈りをどう扱うかはどこにも書かれていない。
足音は、すぐそこまで来ているように思えた……。




